台北恋奇譚

 ――三か月後。
 
 青葉公園を見下ろす珠阯レ地検庁舎は年度末を控えていつも以上に慌ただしい。元来多忙な職種ではあるものの、この時期は通常の比ではなかった。検察官は通常2年または3年で任地が変わるため、異動を控えたこの時期はどこか落ち着かないというのも理由の一つだ。
 そんなせわしない庁舎から嵯峨は抜け出し、昼休みの残り20分を青葉公園のベンチでぼんやりとすごしていた。咥えた煙草からは緩慢に煙が流れている。浮かない顔で思い出すのは、昨年台湾へと渡った日々のことだった。

§


『台湾黒社会との献金問題が明らかになった須藤元外相が、本日午後、東京地検へと書類送検となり――』
 結局楊から押し付けられた裏帳簿が決定的な証拠となり、須藤外務大臣は失脚した。そのニュースを台湾で――しかも病院のベッドの上で聞いていた嵯峨は、確かに自分がかかわった事件のはずなのにどこか他人事のような気持ちでそれを眺めるだけだった。達成感も充足感もない。お膳立てされた舞台の上で、台本を書いた者の計算通りに動いていただけだ。きっとこれは、自分ではなくてもよかったのだろう。事が大きくなりすぎて、結局事件そのものは東京地検特捜部の管轄になってしまっているし――まあ、これは台湾へ渡る前からその気配を感じてはいたのだが。
 彼や周防を駒とした老人にはなんらかの思惑があったらしく、嵯峨は利鳳が経営している大病院の豪華すぎる個室に押し込められた。おまけに費用はすべて楊が負担していると聞かされて、ありがたい反面恐ろしくもあった。
「とんだ慰謝料、いや、口止め料か」
 テレビの電源を落とし、リモコンを放る嵯峨の顔が歪む。
「……いてェ」
 腕を動かしたり息を吐くと、脇腹に痛みが走る。傷口はまだ完全には塞がっておらず、毎日の鎮痛剤が欠かせない。おまけに食欲も減退したせいで少し痩せたようだった。これは入院中でまったく酒が飲めなかったせいもあるかもしれないが。
 先に帰国している周防が少しだけ羨ましかった。自分も早くここから解放されて、慣れ親しんだ祖国の土を踏みたい。煙草だって、楊の計らいで差し入れはされるもののお世辞にも旨いとは思えない。
 帰りたい。
 ……帰りたいとは思うのだが――日本ではきっと、現職の外相が汚職によって失脚したという特大級のニュースで連日持ちきりに違いない。となれば、周防は現状一番の立役者としてマスメディアから注目されている可能性もある。自分が同じ立場だったらと想像するだけでぞっとしない。その点についてだけは、嵯峨は負傷による帰国足止めが怪我の功名だったと安堵するのだった。どうせなら日本での騒ぎが落ち着くまでここにとどまろうかとすら思えた。別の未練がそう思わせるのかもしれないが。
 一人きりの病室で嵯峨は目を閉じる。外出もままならぬ状況では暇をもてあますばかりで、時間の流れが恐ろしいほどに遅かった。
 負傷から丁度10日後、抜糸手術が完了した。そのまま退院することもできたが、どのみち台湾では戻るべき場所もない嵯峨は帰国の当日までを病室で過ごすほかなかった。
 結局、台湾での最後の日までに病室を訪れる者はいなかった。帰国の手配を済ませそれを伝えに来た楊の秘書を名乗る男以外には。
 允花にも――会えなかった。

§


 不意に風が吹き、長く伸びた灰を散らした。
 それと同じタイミングでポケットの携帯電話が着信を告げる。番号は庁舎のものだ。
「――はい」
「ああ、嵯峨さん」
 まだ昼休みは残っている。咎められるいわれはないがと思いつつ応答ボタンを押すと、予想通り相手は事務官の浅井だった。どこかほっとしたような浅井の声色に、ちくりとした罪悪感が湧き上がる。台湾から戻った嵯峨がどこか覇気に欠けているのを、浅井は見逃してはいない。無神経にそれを問い詰められることはないが、気遣いのようなものを向けられている――その事実が、嵯峨をじわじわと苛んでいた。
「ああ、どうかした?」
 明るい声を出しているつもりだし、実際浅井以外の同僚には気づかわし気な視線を向けられることすらない。にもかかわらず心配されるのは、彼女の勘の良さのせいだろうか。
「まだ昼休みだと思うけど」
 いつも午後の始業5分前には戻っているので、こうやって連絡を受けたのは初めてだった。が、どうやら連絡の理由はそんな些細なことではないらしい。
「すみません。その……刑事部長がお呼びです」
「――部長が?」

 午後の始業直前に、嵯峨は上司の部屋へと招かれた。
「特捜部への異動の話が来ている」
 特別刑事部長の執務室で、嵯峨はそんな言葉を聞かされた。特捜部――特別捜査部への異動。全国で東京・大阪・名古屋の三か所にしか設置されていない特捜部への異動というのは、栄転と言っても過言ではない。
「はあ」
 が、嵯峨の反応は薄い。かすかに眉を動かしたくらいで、そのほかには変化したところもない。嵯峨のことだから快哉を叫んだり飛び上がって喜んだり――いくら彼でもそこまで幼稚ではないだろうから、これは物の例えだが――するかと構えていた刑事部長はやや拍子抜けし、怪訝な顔をした。嵯峨の反応が淡泊すぎて戸惑った、それだけではない。彼が急な話に困惑しているというわけではなく、単に興味がなさそうな素振りに思われたのが不可解だった。
「東京地検だ」
「はあ」
「……君に、異動の話が、来てるんだぞ」
「ええ」
 念押しするように一言一句を力強く区切っても、嵯峨の反応は変わらなかった。
「君は――いや……」
 東京地検特捜部と言えばエリート中のエリートで構成されている。特別刑事部に所属する嵯峨もかつてはそれを夢見ていたはずなのに、この関心の薄さはなんなのか。いっそ気味が悪いとすら感じて、部長検事は話を切り上げることにした。きっと突然すぎて理解が追い付いていないのだろう――と、希望的観測交じりに判断して。
 一度組んだ腕を解き、彼は机上に肘をつく。
「……年度末を控えて君も疲れとるんだろう。まあゆっくり考えてくれ。断ることはないだろうが――」
「いや、行きますよ」
 が、いやにはっきりとした嵯峨の返事がそれを遮る。まったく前後の脈絡が感じられずに嵯峨の顔をじっと見てはみるが、そこに自暴自棄や投げやりな態度などは見て取れなかったため、部長検事は「そうか」とうなずくにとどめた。まったく、この若い検事はよくわからん――と、内心でぼやきながら嵯峨を返し、彼は煙草に火をつける。
 流れる紫煙の中に、嵯峨が赴任した当時のことが思い出された。ああ、あの頃から生意気な若造だった。きっと先程の態度は、「やっと自分の実力が評価されたのか」とでも言いたかったがために違いない。そう結論づけると、苦笑が浮かんでしまう。ようやく問題児を放逐できるのかと思うと肩の荷が下りるというものだ。
 窓の外はどんよりと曇ったままだが、彼の気がかりは霧消した。

§


 もちろん、嵯峨はそこまで単純な心の作りではない。
「特捜部に行かされるんだってよ」
 ウイスキーの入ったグラスを傾けながら、他人事のように笑うのはほかならぬ嵯峨本人だった。聞かされているのは、隣で同じく水割りを舐めている周防克哉だった。
 台湾の一件以来、二人はたまに酒を酌み交わす仲になった。場所は決まってはいないが、今日は青葉区のバー、パラベラムのカウンターの最奥に陣取っている。
「……あまり乗り気じゃなさそうだな」
 グラスを傾けたまま、周防は嵯峨のほうに目を向ける。口元こそ笑っているが、琥珀色の液面を見つめる目は諦観しているようにも思えた。それを見ているのが忍びないと思ったのか、周防は自分のグラスへと視線を戻す。
「君はそういう話には、喜んで飛びつくと思っていた」
 水で割ってもなお強い酒が口腔を熱くする。これをそのまま飲んでいる嵯峨は平気なのだろうか。
「犬じゃねぇんだからよ」
 不服そうな一言は、残り僅かな酒と一緒に飲み干される。カウンターの中に向かって手を上げると、心得たバーテンがグラスを満たした。
「……自分で勝ち取ってなんぼだろ、こういうのは」
 かれこれ三杯目のグラスに口をつけた嵯峨の口調がいつもよりも弱弱しく思えた。
 表向きでは、あの事件には利鳳は関わっていないことになっている。珠阯レ地検に裏帳簿を送ってきたのも台北警察局だった。日本で事件の真相を知るのは嵯峨と周防くらいのものだ。利鳳の規模と楊のやり口からすれば、二人を亡き者にしてもおかしくはなさそうだが――三か月が経った今もそんな気配は微塵もない。
 おそらく、楊は二人の口をふさぐための手段として脅迫を選ばず、台湾での活躍に対する「褒美」を与え、その裏にある意図をほのめかすことで釘を刺しているつもりなのだろう。もしかしたら本気で感謝しているのかもしれないが、考えたところで答えが出るはずもない。真意がどのようなものであれ、与えられた報酬に無邪気に飛びつくほど二人は割り切れてはいなかった。
「……そうだな、それは、わからないでもない」
 周防にも思うところはあるのだろう。グラスを揺らしながら、彼はしばらく沈黙していた。
「いつか本当のことがわかればと思っていたのは事実だ。けれど、それがこうも唐突に降りかかると……どうしたらいいのかわからない。それが、率直な感想だ」
 周防への「褒美」が与えられたのは嵯峨よりも少し早かった。逮捕・送検された須藤元外相の捜査が進められる中、10年前に珠阯レ市内で発生した連続放火事件の真犯人が彼の息子であることが発覚した。その放火事件は捜査にあたっていた刑事の汚職疑惑で幕引きとなっていたらしいが、それもすべて須藤の差し金――つまりはその刑事に濡れ衣を着せて捜査をうやむやにしたのだという。こうして、晴れて名誉回復となったその刑事のことは全国紙でも報じられた。その刑事が、周防克哉の父だった。
 底の厚いグラスを抱える両手には、かすかに力が込められているようだった。嵯峨は、周防にかける言葉を知らない。長い年月を苦悩の中で過ごすということがどんなものなのか、彼は幸いにして知ることがなかったのだから。曖昧な相槌を返すことしかできない自分が甘ったれのように感じられて居心地が悪かった。
「あの爺さん、とんでもねぇぜ」
 誤魔化すような嵯峨の苦笑に周防も少し遅れて頷く。
 常識的に考えて、汚職事件の捜査過程で息子の起こした放火事件が扱われるわけはない。これは「誰か」が意図的に指示したものだ。
 言わずもがな、楊に違いない。台湾では「政府に一つ貸しが」と言っていたので、あの老人は台湾政府にも顔が利くのだろう。その後の詳らかな事情は知ったことではないが、日本政府を通じて法務省と警察庁に圧力がかけられた。話としてはそういうことではないか、と、二人の間では結論が出ている。父親の身に降りかかった出来事について薄々察していた周防にとっては間違いなく喜ばしい出来事なのだが、それだけで済ませられるほど単純でもない。かといって異議を唱えるというわけにもいかなかった。第一、周防一人がそうしたところで何になるのだろう。たとえそれが法に則った正しき行いだとしても、結局10年前の汚職と同じに、権力を握る人間の思うがままに事が運んでいるだけだ。
「それで、君は断るのか?」
 嵯峨の栄転もおそらく楊の差し金に違いない。となれば、反骨心は人一倍の嵯峨が「いけ好かない老人の言いなりになってなるものか」と反抗して異動に従わないというのはありそうな話だと、周防は考えた。しかし、予想に反して嵯峨は首を横に振る。
「行くよ。四月からは東京だ」
 煙草を口に咥えて火をつけ、浅めにふかす。目を細める彼の眼鏡に、昏い照明が映りこんでいる。
「爺さんの思い通りになる悔しさは、まあ、あるけどさ。別に今回のことは、俺じゃない誰かでもよかったんだろうってのはわかってるし、結局俺は何一つこの手ではつかめなかった。必死こいて突入したのだって出来レースだったのかもしれねぇよな」
 嵯峨がしゃべるたびに、煙草の先端は赤く灯った。鮮やかな火の色は、ホテルに突入した夜、集まった警察車両の群れを思いださせる。
「ただな……今思えば、俺が台湾行に選ばれたのもあの爺さんが絡んでたんじゃねぇかって思うよ。中国語ができるからってだけじゃなく、やっぱりあの晩、張が現れたのは――そもそも俺がアイツと知り合いだったから、そうじゃないかって」
 出資しているテレビ局の代表に、日本の検察官の知り合いがいる。その事実を利用しようとしたのではないかと嵯峨は周防に説明した。
 だから、今回の事件に巻き込まれたことには理由があったと思いたい。それが自分でなければならなかったと、そう信じたかった。
「ま、それは俺の、勝手な願望にすぎねえな」
 すべては終わったことで、考えるだけ無駄なのだ。
 言外に滲ませて嵯峨は目を細めながら煙草をふかす。深く吸い込んだ後、時間をかけて吐き出す様は思い出を懐かしむようにも見えた。
 それに、と、付け加えて、彼はグラスを傾ける。
「考えてたんだけどよ、あの爺さんが本当に、心底悪人だとは思えねぇ」
 話の流れに逆らうような言葉に、周防は眉を寄せた。
「それは、なぜ?」
 嵯峨は性悪説を支持しているし、根拠もなく人を信じる男ではない。そう評価している周防は、純粋な疑問をぶつけた。
「政府にだって顔が利くし警察局だって動かせるようなあの爺さんだ。允花が邪魔だと感じたのならさっさと殺してしまったってどうにか揉み消せたに違いない。いや、むしろあんなまどろっこしい手段を取って俺たちまで巻き込むよりはずっとその方が手っ取り早いんじゃないか? だからよ、そうしなかったのは、やっぱり楊の爺さんも――允花を憎からず思ってたんじゃないかって」
 それが純粋に孫を思ってのことなのか、それとも愛した妻が目をかけていたからなのか、真相は定かではない。ただ、理由はどうあれ彼が孫をないがしろにはしないだろうということは確かだと断言できる。それに気が付いたのは、允花が嵯峨の元を去った翌日だった。
 結果的に嵯峨を選ばなかったことが彼女の幸福だったのだと思うと、この痛みも無駄ではなかったのだろうと、そう思えた。
「ま、あいつの言う通り、俺の職務上脛に瑕持つ人間と付き合うのは不味い。あんな年下に説教されるのは情けねえ限りだったけど」
 病室でのやり取りのことだろう。周防は、嵯峨の冗談めかしたセリフにも何も返さなかった。
「……いいんだよ。長いものに巻かれるとか、そう言われたら返す言葉もない。ただ、これはあいつがくれた“結果”なんじゃないかって、そう思えて、な。俺は特捜に行かなかったら、この話を蹴ったら……あいつとのつながりが全部消えちまう、あいつを感じられる何かが、全部この手からこぼれていく、そんな気がしてさ……」
 女々しいって笑うだろうけどよ。そう自嘲して嵯峨はグラスを呷り、もう一杯とバーテンに手を上げる。
「東京で、やってみせるさ。今度こそ自分の手で満足いく仕事をしてみせる。――それに天下の東京地検特捜部だぜ? 忙しけりゃ余計なこと考えずに済む」
 そうして傷跡が薄くなっていくように、いつか允花のことも忘れてしまうのだろう。それは悲嘆すべきものではなく、痛みを伴う福音に思えた。未来を思って嘆くほど彼は子供ではない。ありとあらゆるものは、いつか形も熱も失っていく。わかっているから冷めているのか、冷めているからわかってしまったのか。器用なようで不器用な嵯峨の本質に触れたような気がして、周防は――おそらく酒のせいもあって――額を覆ってしまった。
「……上手くいかないものだな」
「は?」
 妙に情感のこもった声音に、嵯峨は怪訝な顔を向けた。周防の表情はうかがえないが、口元だけがなぜか悔し気に歪んでいるのが見て取れる。
「彼女だって同じ気持ちだっただろうに、状況がそれを許さなかったというだけで……!」
 あの場に居合わせた周防はすべて理解しているのだろう。嵯峨にとってはできれば忘れてほしい出来事だ。忘れるのが無理なら聞かなかったことにしてほしかった。実際これまでにあの「一緒に来い」のセリフについて言及されたことはなかったが、酔っぱらってしまった周防の理性ないし常識のストッパーは緩んできているらしい。
「……勘弁しろよ……何? どうした突然?」
 とにかく男同士でねちょねちょしたコイバナなどごめん被る。少なくとも嵯峨の望むところではない。カウンター内でグラスを磨いていたバーテンにチェイサーを頼むが、この調子だと焼け石に水か。
「僕は自分が不甲斐ない……!」
「いや、お前は関係ねえだろ……」
 嵯峨の口から苦笑が漏れる。正義感の強いお人よしは、他人の実らぬ恋に胸を痛めてくれているらしい。嵯峨は嘲笑するわけではなく、むしろその素っ頓狂な気遣いが少しありがたかった。
 新しい煙草を咥え、嵯峨は周防の肩を励ますように叩く。なんだか立場が逆のような気がするがどうでもいい。感謝の意はきっと伝わっただろう。

§


 金曜の夜だけあって、街はまだ人でにぎわっている。青葉区内で一番の繁華街である青葉通りには夜の10時で閉める店はほとんどない。2軒目のはしご酒を求めてか、パラベラムの中もすでにほろ酔いの客が増え始めていた。
 そんな酔客たちをよそに、嵯峨と周防は店を後にする。次の店を探すためではない。いつにないペースでグラスを重ねた周防が完全に撃沈してしまったせいだった。
「おい、しっかり歩け」
 嵯峨は面倒だと言わんばかりの態度を隠さないものの、一応肩は貸してやっている。よく「幼児は眠ると重くなる」と言うが、大人でも同じだろうか。ずっしりとした重みに嘆息しながら、丁度通りかかったタクシーに向かって手を上げる。
「港南区の……――ええ、警察寮まで。よろしく」
 押し込むようにして周防を乗せ、運転手に万札を手渡す。迷惑をかけるかもしれないから釣りは要らないと言った真意は、自分が面倒に関わりたくないためか。遠ざかっていく赤いテールランプを眺めながら、嵯峨は軽い自己嫌悪を噛みしめた。
 周防と飲みかわすのはこれが最後になるかもしれない。嵯峨が生まれ育った土地でもない珠阯レに戻ってくることは、異動を除けばもうないだろう。周防ともこれきりになる可能性だってある。そう考えると妙な幕切れになっちまったかなと、今更気づいてもそうこぼすことしかできなかった。
 底冷えのする二月の夜は、酒の入った体にはかえって心地よく感じられた。周防ほどではないが彼もまた酔いが回っている。このまま官舎まで歩けば、たどり着くころにはきっと頭も冴えているだろう。
 道行く人の顔をなんとなしに眺めれば、誰もが満ち足りているように見える。羨望を感じないこともないが、自分はきっと“そちら側”には行けないのだろう、そういう冷たい納得だけが心の底に落ちてくる。
 まただ。年齢を重ねると、時々益体のない焦燥に見舞われる。すでに両親は亡く、兄弟や親しい親戚がいるわけでもない。天涯孤独は言い過ぎだけど、自分を顧みてくれる誰かの心当たりがあるわけでもない。だから自分がどうしようもなく頼りなく感じられることがある。人のぬくもりが恋しくなるときもある。瞬間的に解消できることはあるけれど、そうした後は決まっていっそうむなしくなるだけだった。
(ああ、そうか)
 台湾で出会った彼女は、自分に似ていると感じたのかもしれない。社会からつまはじきにされたような頼りなさがどうしても気にかかったのは、抱えた孤独を隠そうとするいじらしさをかぎ取ってしまったから、だろうか。
(でも、もう違う)
 允花はきっと幸せになる。身元のしっかりとした保護者が現れたのだ、まあ、公序良俗的な意味でちゃんとしているかどうかは疑問だが、今後危ない目に遭うこともつらい思いをすることもないだろう。
(幸せになるさ、あいつは、今まで苦労した分を取り戻すくらい――)
 コートの襟を深く合わせながら歩く嵯峨の足が止まった。見上げた先は、ショーウィンドウの中。すでに閉店してはいるが、展示品だけは白いライトに照らされていた。
 滑らかに織られた生地、繊細なレースの飾り、ところどころで光を乱反射する鱗のような装飾。
 純白のロングドレスが、白い溜息に霞んでいる。
「……」
 どうしてそんなものに目が留まったのかは、嵯峨にもわからない。けれど見てしまった瞬間、いずれ允花にも訪れるだろう未来を思い描いてしまった。
 いつか誰かが、自分以外の男が、彼女の手を取るのだろう。幸福そうに笑いあって、色とりどりの将来を語らいながら二人は結ばれるに違いない。
 その時、彼女の記憶の中に自分はいるだろうか。
(――忘れてるさ、俺のことなんか)
 きっとその方がいい。覚えていてくれるなら、それはうれしいことではあるけれど――まだ十代の允花は、たった数日一緒にいただけの男のことをずっと覚えてはいないだろう。これから彼女は自分の可能性を探り、未来を拓いていく。その過程に自分がいることはきっと、望ましからぬことだ。
 わかっている。それでも――
(……きれいだろうな、きっと)
 着飾った姿を脳裏に描くくらいは許されてほしい。まったく未練がましい、それは自分が一番わかっている。最初はちょっと疎ましいくらいに思っていたのに、ちょっと好意を向けられた程度でほだされるとはなんと単純なことか。十代の気持ちなんて簡単にコロコロ変わるようなものだし、年上にだって興味本位で近づいているだけだ。
 これまで何度も自戒のために繰り返した文言も、きっと東京での日々が始まれば思い返すこともなくなる。そうすれば未練も後悔も、鈍い痛みとともに薄れていくのだろう。体に残った傷跡がそうなるのと同じように。薄くなるだけで、きっといつまでも残ったままなのだ。
 しばらく立ち去れずにその場にとどまった嵯峨の背後を、人々が行き過ぎていく。きっと名も知らぬ人々のすべてに、様々な感情や思いが宿っているのかもしれない。それは嵯峨の孤独感をわずかばかり慰めるような気がした。まったく、身勝手な共感だった。
 コートのポケットに突っ込んだままの手が冷えていく。こんなところで立ち尽くして風邪をひいてはいい笑いものだ。振り切るように踵を返し、彼は官舎への帰路を急ぐ。途中のコンビニで酒を買おうと考えながら。まともな思考のまま、今日という夜を過ごしたくはなかった。
 歩き出した嵯峨の背後でタクシーが停まる。夜の繁華街ではそう珍しいわけでもないので、ドアが開かれ転がり落ちるように客が降車する物音にも、当然彼は気に留めることもしなかった。
「――薫さん!」
 だから、自分が呼び止められたのだとは思えず、立ち止まることすらしなかった。
 いや、自分を呼び止めるその声の主がここにいるはずがないので、幻聴か空耳だと思い込んでいた――というほうが適切かもしれない。
「薫さん!」
 しかし二度も声をかけられることがあるだろうか。すれ違う通行人が怪訝そうな顔で自分と声の方を見比べているので、どうやら幻聴でもないし呼び止められているのは自分で間違いないようだ。
 立ち止まり、振り返りながら嵯峨は自嘲する。心残りがあるのは否定しないが彼女の声に聞こえてしまうなんて情けない。それとも周防だけでなく、自分まで飲みすぎたのだろうか――
「え……」
 目を疑った。疑うしかなかった。
 数メートル先を、花嫁姿の允花が駆けてくる――いや、さすがにウエディングドレスはない。あれはただ白いコートを着ているのが一瞬そう見えてしまっただけで、違う、そもそもどうして彼女がここに――?
 混乱したままの嵯峨と、允花の距離がなくなっていく。
 嵯峨に判断できたことは、少なかった。
 どうしてここに彼女がいるのかわからない。どうして泣きそうな顔をしているのかわからない。何を想ってこの腕に飛び込んできたのかもわからない。戸惑ったまま、彼の両手はコートのポケットで硬直している。
「――允花?」
 返事はなかった。
 全身に押し付けられた肉体の柔らかさ、首に回された腕の熱、震えるような息遣い。
 考えていたことと言えば「なんかこういうシーン、ドラマであったよな?」なんて、自分には関係のないことだった。今この瞬間、目の前にまぎれもない本人がいるというのに、彼の目も意識も、それを受け止めようとはしなかった。
 なぜなのかは、わからない。酔いの回った自分の感覚を信じようとしていないのか、一度この手を離れてしまった瞬間の恐怖が忘れられないからか。
 それでも――
 たとえ言葉が出てこなくても、視線を交わすことができなかったとしても、2本の腕だけは意識に構わず動いていた。本能がそうさせたのだろうか。嵯峨にはわからない。その腕にきつく抱いたたった一人の愛しい存在以外に、もう確かなものなどありはしなかった。

2020/12/20