台北恋奇譚

 あたり一面真っ白な光の中、彼は長い長い階段を上り続けている。
 いつからそうしているのかわからない。もう何日もそうしているような気もするし、ついさっき歩み始めたようにも思える。気づいたときにはもう、こうして歩いていた。まるで時間という概念がそぎ落とされたようだった。
 階段はどこまでも続く。どれだけ目を凝らしても最果てはその兆しすら姿を現さない。だからだろうか、益体のないことを想い出してしまうのは。

§


 もう10年ほどは前になるか、同じ名前のヒロインが登場するドラマがあった。それが理由というわけではなかったとは思うが、普段はテレビドラマなんて見もしないのにその番組に限って最後まで見てしまったことをよく覚えている。主人公の冴えない男が発したセリフが流行語にもなったほど、話題になったことも。
(懐かしいな……俺、学生だったっけ? もう働いてたっけ?)
 だんだんと意識がはっきりしてきた。そうだ、学生だった。下宿先に置いていたもらいもののテレビはたいそうな年代物で、よく画面が乱れてイライラした。一つ思いだすと、連動するようにいろいろな光景がよみがえってきた。
 死んだ婚約者を何年経っても忘れられない女。そればかりではなく、また大切な人を失うことを恐れて一歩を踏み出せない女。その姿を見て、今よりもずっと若かった自分が何を思ったのか、嵯峨薫は覚えてはいない。それでも、悲しそうな横顔が唐突に脳裏に現れては消えていき、だんだんと違う顔に変わっていく。
(なんでこんなこと、思い出したんだろうな)
 きっと、自分がその死んだ婚約者の立場だったら允花はどんなに――なんて、思いあがった心配をしているから、だろう。
 左胸と腹とを撃たれた傷みすらもう感じない自分がどんな状況なのかは、なんとなく理解していた。
 長い長い階段をのぼりながら彼は自嘲する。淡い光で満たされたこの道をなんと呼ぶのか、誰も知らないに違いない。仮に知っている存在がいるとしたら、神様ってやつだろうか。嵯峨は、再び歪んだ口元から息をこぼした。そんな歌があったな、と、思い出したからだった。
 生きていたときの記憶が去来するのも走馬灯というのだろうか。だったらやっぱり、この長い階段は天国への道なのか。
「美味い酒と、美人がいるんだっけか」
 ずいぶん昔に流行ったという曲のフレーズを口ずさんでみる。その曲のとおりなら、まあ天国ってやつも悪くはない。少なくとも地獄に落ちるよりは断然マシ――
 
「その歌のとおりだと君は酒を取り上げられることになるぞ」
「うわっ!?」

 いつの間にか、足元に黒猫がいた。なんと不吉な……と眉をしかめたくなったが、死んだ身の上で不吉もなにもないだろう。というより、目下気にするべきはその口から出た人語の方だ。
「な、なんだ、お前!?」
 相手は猫の姿をしているのに話しかけるとは、自分の動揺もかなりのものらしい……と呆れる反面、いやいや、案外死後の世界というのは、種の隔たりなどものともしない相互理解が可能なのかもしれない、などと突飛な考えもしてみる。いずれにせよ、嵯峨は狼狽えていた。その足元にちょこんと座った黒猫がまるで値踏みするような視線を投げているように見えたのは――いや、やはり錯覚だろうか。
 おかまいなしに、黒猫は言葉を紡ぐ。
「妙な歌を知っているくせに中身はきちんと覚えていないな? まったく……大体が飲酒運転で死んだ歌なんて公序良俗に反する。感心しないな――」
「あっ! お前周防だな!? そうだろ!」
 この口ぶりこの四角四面な言いよう、間違いない。間違いないが――
「なんでお前がここに……? あっ、まさかお前まで撃たれて死んだのか!?」
 猫になっているのはさておき、その可能性は否定できない。
 警察や検察は職務の性質上恨みを買いがちなものである。十中八九ホテルで嵯峨を襲ったのは天道連か死海幇の残党に違いない。だとしたら、警察官の周防だって狙われてもおかしくはない。畜生、死ぬ前に知りたかったなぁ……と、肩を落とす嵯峨を見て黒猫も同じ仕草をする。
「落胆するくらいなら、諦めなければいいだろう。まだ間に合う。まだ、できることはある」
「は?」
 嵯峨は思いっきり怪訝な顔をした。黒猫の口ぶりは、まるでまだ自分が生と死の狭間にでもいるような言い方だ。
「諦めるなって、俺は死んだんじゃないのか? これは天国に続いてるんだろう?」
 これ、と、指さすのは不確かな足元、遥か彼方まで続いている真っ白な細い階段。ここに自分の足が乗っている以上、すでに命はないのでは?
「で、こっから落ちたら、地獄に真っ逆さまってやつじゃねぇの?」
 そして抜け出すには蜘蛛の糸を……と、嵯峨が切り出すよりも早く、黒猫は嘆息した。猫がため息を吐くというのはどういうことなのか嵯峨にはさっぱりわからないが。
「君は論理的な現実主義者だと思っていたがどうやら僕の見込み違いだったらしいな。こんな絵に描いたような光景を死後の世界だと認識するなんて……いや、そもそも死後の世界が存在することを疑わない時点でどうかしている」
 毎度のことだがひどい言い草である。確かに、黒猫を周防克哉だと断じて疑わない自分をどうかしていないとは思えないが、ともかく。
「失礼なヤツだな。俺だって死後の世界が存在するなんて思っちゃいねぇよ、いなかったよ。けどこうして目の前に広がっているなら、そりゃもう受け入れるしかないってもんだろ?」
 現実主義者としては目にして体験したものならば受け入れてしかるべきだ。そう抗弁すると、黒猫は嵯峨の足の間をくぐって階段を軽々と昇っていった。そうして嵯峨の7段ほど上の方から、悠然とした態度で呼びかける。
「だからそれ自体がおかしいんだ。そもそもこの光景が現実だとどうして思うんだ? ただの夢かもしれないのに。
 君は自分がもう死んだものと信じて疑わないからそういう発想に至るんだ。僕にはそれが理解できない。なぜそんなに諦めがいいんだ? 生きようと、生きたいとは、思わないのか?」
 その問いかけに、嵯峨は言葉を返せなかった。
 生きたいと願わないわけがない。死にたくなかったと思っていないわけがない。
 確かにこれは、自分が生み出した幻覚か夢か、とにかく無意識下での非現実なのかもしれない。だとしたら自分の往生際の悪さがこんな猫まで出現させて、挙句にそれをあげつらうのだから何を言う気にもなれなかった。
 けれど、今更自分の願いを認識したところでどうなる? 仮に生きていたとして――

「悲しませたくない人がいるんじゃないのか? それに、君自身が生きていたいと、そうは思わないのか?」
 黒猫は追及をやめない。名前こそ出てこなかったが、彼女を泣かせたくはなかったことなど言われずとも承知している。
「俺は……」
 それでもうつむいて言葉を濁したままの嵯峨に、とうとう黒猫は業を煮やしてしまったらしい。
「はあ、はっきりしない男だな。仕方がない。荒療治だが、諦めて歯を食いしばれ」
「は? 何を――!?」
 歯を食いしばるなんてまるで今から殴るような口ぶりに顔を上げた瞬間、彼の顔面はなめらかな毛皮に包まれた。
 どういう状況なのかは、傾いだ自分の身体がよくわかっている。数段上にいた黒猫が嵯峨の顔面に向かって飛び掛かったので、彼はバランスを崩して階段の下へと真っ逆さまに、現在進行形で落下中なのだ。
「てんめぇ! なんてことしやが――」
 殺す気か! いや、死んでいるんだったか? マイナスにマイナスをかけたらプラス?
 落下しながらとりとめのないことを考えている、つまりは混乱している嵯峨は、暗転する視界の中にきらりと光る何かを見た。
 それが何かもわからないくせに、逃したくはなくて手を伸ばす。そう、今度こそ、つかみ取りたいと願いながら。

§


「――!」
 その感覚には何度か覚えがある。
 痙攣するような衝撃で覚醒するときは、必ずと言っていいほど落下する夢を見ているものだ。
 開かれた瞼は、僅かにオレンジ色をした天井を見上げていた。窓の外からの夕日の色らしい。
「…………かおるさん?」
 傍らから、女の声が聞こえる。かすれたような声の後ろには、点滅するような規則正しい電子音もある。身体はひどく怠く、指まで動かせないのではないかと思うほどだった。嵯峨は僅かに首を動かす。周りの状況がさっぱりわからない。わからないながらも、おそらくは病院のベッドではないかと推測する。
 果たしてその予想は正しかった。視線を身体の方に向けると真っ白な寝具が目に入り、右側に移すと、椅子に座った允花と周防の姿が目にはいった。二人とも憔悴しきった顔だった。允花なんて頬は涙でぐっしょり濡れているし、目元は見ているほうが気の毒に感じられるほど真っ赤に腫れていた。その顔がいっそうひどく歪んでいく。
「よかっ、ひっ、かおるさん、ううっ、目、さめて……よかったぁ……」
 そのまま允花は、崩れ落ちるようにベッドに突っ伏して泣きじゃくってしまった。
 嵯峨はうっすらと目を細めた。主に罪悪感と、感謝のために。
 目の前で人が撃たれるなんて恐ろしいものを見せられて、ずいぶんと怖い思いをしただろう。別に嵯峨の責任ではないが、申し訳ないと感じるのは事実だった。そして自分が目を覚ましたことに安堵し、喜んでくれているらしいことは、素直にありがたいと感じた。もしもあのまま死んでいたら、允花はきっと、もっと深く悲しんだに違いない。夢だか臨死体験だかわからないが、たたき起こしてくれたあの黒猫には感謝すべきなのだろう。
「――、……」
 嵯峨の右手を握ったままの允花に「ごめん」と一言いいたかったのに、まだ唇は上手く動かなかった。麻酔か何かが残っているのだろうか。生きているということは、自分は手術や治療を受けたに違いない。思考はそれなりにはっきりしているが、体のほうはまだ追いついていないらしい。
 それを知る由もない周防は、言葉を探しながら呼びかけた。
「大丈夫か? いや、この質問は変だな……ええと……僕の言葉はわかるか? ああ、無理に言葉を出さなくてもいい。わかるなら、頷いてみてくれ」
 珍しく狼狽している彼にとりあえず首を縦に動かして見せると、周防も安堵したらしく浮かしかけた腰を椅子に落ち着ける。
「そうか……とりあえずと言ってはなんだが、意識が戻ってよかった」
 眼鏡がないので表情はわからないが、周防にも心配をかけたに違いない。いまだに泣き止まない允花の手を握り返してはみるが、あまり力は入らなかった。
「……今、何時」
 なんとか出せた声もかすれていたが、周防は聞き取ってくれたらしい。
「十六時だ。君が撃たれたのは今日の午前中で、あの後救急車に運ばれ手術も無事に成功した。重傷には変わりないが、一命はとりとめた、というわけだ」
 端的な説明を聞きながら、嵯峨は允花を見た。淡い色の衣服は、どす黒い血でべったりと汚れたままだった。きっと負傷した嵯峨を抱きかかえたからだろう。そのまま着替える余裕もなかったらしい。
 じっと見ているのは気分がいいものではなかったので目を逸らすと周防と視線がぶつかる。嵯峨は何を言うでもなかったが、察したのだろう。
「……君を襲ったのは天道連の構成員だ。二人とも、その場で射殺された」
 重苦しい口ぶりに嵯峨は眉を寄せた。
(その場で?)
 それはおかしい。
 あの場に警官がいたとは思えない。それにアメリカなどとは違って台湾では銃の所持は基本的には禁止されている。民間人でも許可を得れば携帯できるらしいが、そんな人間が都合よくあの場に居合わせて咄嗟に――なんて偶然があるだろうか?
 目を眇める嵯峨に、周防はうなずく。
「疑問に感じるのはわかる。だが僕もそれについてはまだ聞かされていない」
 さっぱりわけがわからなかった。聞かされていないというが、一体誰に?
 混乱している嵯峨の耳に、病室のドアが開かれる音が届いた。
「お目覚めかな」
 ノックもなしに現れたのは、杖をついた老人だった。医者ではないだろう。医者と看護師は老人の後ろの白衣の人影に違いない。
 正体不明の人物はゆっくりと部屋を横切り、允花たちとは逆側の、嵯峨のベッドの傍らに腰を下ろした。そちら側にはやけに大きな椅子――というよりは、一人がけのソファーが据えられている。目が覚めた直後はそんな観察をする余裕はなかったが、どうやらこの病室はずいぶんと豪華な一人部屋らしい。やけに広いし、壁には大きな絵画すらかかっている。まるでスイートルームだ。
(一般病棟じゃなさそうだな……なんでまた、こんな部屋に……?)
 口止めか、それとも何かの取引のためか。
 自分をこの病室に押し込んだ“誰か”の思惑がわからないまま、嵯峨は場の雰囲気が緊迫していくのを感じていた。
 誰もが無言だった。
 入ってきた医師は嵯峨の容態を確認し、看護師は点滴や何かの機械を確認している。老人は目を伏せたまま、その作業が終わるのを待っているらしかった。
 医者の話によれば、傷は幸い太い血管を逸れた上に臓器にも到達しておらず、弾の摘出手術も無事に成功、一週間もあれば抜糸も可能だろうし、そうなれば退院の手続きもできるらしい。それまでの絶対安静を指示されたときはさすがに参ったが、命があるだけでも御の字だろう。
 医者と看護師は老人を残したまま退室した。出ていくときも老人に向かって頭を下げていたが、一体彼は何者なのか、今回の事件にかかわっているのか。疑念ばかりが膨らんでいくが、ふと嵯峨は、ドアの傍らに人影があることに気づいた。相変わらずぼやけた視界では顔もわからない。と、右手が強く握りしめられる。
 允花だった。しかし彼女は嵯峨の方ではなく、ドアの脇に佇む人物を見開いた目で睨みつけるように見ている。どうやら込められた力は無意識のものらしい。そういえばホテルでポーターの顔を見た時もこんな感じだったような……と、鎮痛剤の点滴が刺さったままの嵯峨の腕の向こうで、老人が咳ばらいをする。
 歳は七十くらいだろうか。見た目は確かに老いているものの、その顔つきには未だ精悍さが宿ったままらしい。強い視線を真っ向に受け、嵯峨は目を眇めた。睨みあうこと数秒、嵯峨が誰だと尋ねるよりも先に老人は口を開いた。

「私はヤン、利鳳の会長をしていると言えば、わかってもらえるだろうか?」
 さすがに嵯峨も目を剥いた。
 利鳳はアジア一の大企業だ。その会長直々に足を運ぶというのは一体どういう理由があってのことなのか。強いて言えば、嵯峨がつい昨日まで宿泊していたホテルの運営会社は利鳳だが、逆に言えばその程度のかかわりしかない。
 さっぱり経緯がわからないまま、嵯峨も周防も何も言えなかった。楊は流暢な日本語を使ってはいるが、彼の放つ気迫のようなものに圧倒されて口をはさむことは到底できそうになかった。
允花
 沈黙を意に介さず、老人はベッドの向こうに視線を投げる。呼びかけられた允花は、困惑したままその真意を待った。

「私はお前の、祖父だ」

 再び嵯峨の右手が強く握られる。そっと允花の表情をうかがうと、その唇がかすかにふるえているように見えた。
 允花の祖父ということは、彼女をかわいがっていたという祖母の配偶者だろうか。いきなり現れた理由も経緯もまったくわからないが、わざわざこんな場面まで出てくるのだから、悪意があってのことではないと思いたい。それは、允花のこれまでの不遇がようやく報われるのではないかという期待が、嵯峨の中に少なからずあるための希望的観測かもしれないが。
「おまえには追って話があるが、まずは彼らに説明をしなければなるまい」
 楊は重苦しそうに口を開く。彼ら、と、名指しされた嵯峨は楊を見据え、周防は居住まいを正した。
「元をたどれば今回の騒ぎ、君が銃撃されたことも、息子のしでかしたことが原因だ」
「……允花の、父親のことか?」
 老人は頷く。
「勘当したとは言えあれは利鳳の直系。允花、お前もだ。一族が認知していないとしても誰がいつ嗅ぎつけるとも知れん。それが父親の借金のカタにマフィアの一味に成り下がっているなど……名を汚す醜聞でしかない」
 迷惑だと感じているのを隠さない一言だった。允花はスキャンダルの火種になりかねない。それは楊と彼の会社にとっては重大な問題である――そう、言いたいのだろう。
 理屈はわからないでもないが、納得は難しかった。それにその言い草には腹が立ったが――嵯峨には何も言えなかった。何を言うべきなのかわからなかったのもあるし、彼の言動にひっかかるような正体不明の違和感があったためだった。
 当の允花もしばらく楊の顔を見つめていたが、威圧感に推し負けたのか、それとも醜聞扱いされたことを後ろめたくでも思ったのか、結局は静かに顔を伏せてしまう。
 嵯峨は右手に力を込めようとした。允花の手をもっと強く握ってやりたかったが、術後の肉体は完全には回復していなかった。
 黙ったままの嵯峨を一瞥した後、周防が身を乗り出す。
「ちょっと待ってください。醜聞だと言うならあなたがたが、彼女の父親の代わりに借金を返せば話が収まったのではないですか? そうでなくても弁護士を使うとか――」
「論外だな」
 老人は周防の考えを浅薄だと言いたげに鼻を鳴らし、嘲笑した。
「利鳳――いや、一企業がマフィアに金を渡すことができるとでも? 話を収めるどころか醜聞を世に知らしめるようなものだ」
「それは……」
 周防は反論しようとしたが、何を言うでもなく口を噤んでしまった。
 楊の言うことは正しい。まっとうな企業が反社会的勢力とつながりを持つなど論外だし、逆に天道連の方から口止め料やらの恐喝を受ける可能性だってある。だから、允花を救出するのなら――もちろん、楊が本心から救出するつもりかは不明だが――表立っての行動は避ける必要がある。
(ああ……そういうことか)
 これまでに嵯峨が感じていた不審な疑問点が一つずつつながり、消えていく。妙に協力的だった台北警察局は、おそらく楊の思惑通りに動いていたに違いない。
「あんたらは……俺たちを利用したのか」
 楊は目を細めた。
「そうだ。元は警察局を使うつもりだったがやけに二の足を踏む。調べてみればマフィアからの金がそれなりに流れこんでいたし、そんな体たらくでは逆にあちらに取り込まれる可能性もある。そういうときに君たちが現れた。渡りに船とはこういうことを言うのだろうな」
 嵯峨は――そして周防も、不快感に眉を寄せた。文字通りの意味ではないにしろ、船扱いされて気分がいいわけではない。おまけに、こちとら汚職事件の捜査のために渡航しているのだ。それを好機だと言わんばかりの態度はさすがに目に余った。大体、いくら相手がマフィアでも、自分たちのお家騒動に巻き込んでつぶすことにためらいはなかったのか。
 楊は自分が睨まれていることを十分理解した上で続ける。
「一掃したところで、感謝こそされても恨まれる筋合いもない。社会的に意義のあることだったと思うがね」
 まるで人間扱いしていない言葉、傲慢が服を着て歩いているようだと思った。確かにアジアで一二を争う大企業の創設者ともなれば、考えも常人とは異なるのも当然かもしれない。だから血のつながった息子を勘当できるのだろうし、亡き妻が愛したはずの孫娘さえ物のように扱えるのか。
 嵯峨の右手を握る允花の手が緩んでいく。離れてしまうのがなぜか恐ろしくて、嵯峨は懸命に握り返した。さっき医者に忠告されたばかりだが、傷口が開き血が噴き出ても構わないとすら思えた。
 腹が立ったせいか、嵯峨の声は元の調子を取り戻しつつあった。
「警察局だけじゃないな……張もあんたにとっては、駒の一つか?」
 偶然夜市で再会した張――あれも偶然を装った計画の一つだったのだろう。利鳳は彼の経営する総華電視のスポンサーだ。允花と並んで観たテレビ番組のCMでその名前を何度も見た。允花を雇うと言ってくれたのも、考えたくもないが友情や厚意が理由ではないのかもしれない。嵯峨が受付に預けた伝言の中身が楊に伝わっていた可能性が極めて高い。
 楊は頷くだけだった。やむを得ない事情があったにしろ、友情を利用されたようで不愉快だった。
 しかし感情的になってばかりはいられない。気になることは、もう一つある。
允花
 嵯峨の声に振り向いた允花の目に涙はないが、生気までも乏しくなっている。一瞬言葉に詰まりそうになりながら、嵯峨は追及を優先した。
「そこに立ってるのは、ホテルのポーターだろう?」
 顎を軽く動かして示した先は、病室のドア。そこの傍らに立つ人影を示されて、允花の手がぴくりと動く。微動だにしない男が楊の手の者、それも随分彼に重用されているらしい人物だということは察しがついた。
「俺を撃ったチンピラを殺したのは、あいつだな?」
 あのとき聞こえた銃声は四つ。そのうち二発は嵯峨に命中し、残りの二発は天道連の男たちを殺したのだろう。四発とも自分に向けて撃たれたと思い込んでいたくらい、あの銃声は近くから聞こえた。つまりは近くにいた“誰か”の仕業で――撃たれたとき、嵯峨と允花の近くにいたのはあの男だけだった。
 頷く允花の表情が苦しげなのは、目の当たりにした光景を思いだしたせいだろうか。つられるように眉根を寄せながら嵯峨は続ける。
「そいつは……お前が見たマッサージ師じゃないのか」
 允花の目が見開かれた。予想は的中したらしい。
「あんたが仕向けんだろう」
 老人を振り返ると、彼は僅かに顎を引いた後に頷いた。満足そうに眉を上げている様は明らかに嵯峨を見くびっていたことの表れだった。
允花がカジノのスタッフに身をやつしてから、監視をつけていた。あの場所がどういうものかは私だって理解していたからな」
 その言葉は確かに意外だったけれど、耳にした嵯峨は心から安堵した。いろいろと理屈をこねまわしてみても、孫としての情愛はもっているんじゃないか、と。監視をつけて機をうかがい、例え嵯峨たちが現れなかったとしても、準備ができたところで允花を救出したに違いない。
 光明を見た気がして、嵯峨は口元を緩めた。
「なんだ、あんた結局孫を心配――」
「これ以上、血を汚されてはこちらとしても困る」
 楊の言葉は嵯峨の言葉を切り捨てた。
「息子もそうだ。学生の身でどこのものとも知れぬ女を孕ませて……然るべき相手を見繕っていたというのに何度言っても理解しようとしない」
 だから勘当したのだと老人は嘆息する。周防はさすがに聞き捨てならなかったのか、また腰を浮かしかけていた。

 確かに。確かにそれは、彼の血筋にとって大きな問題に違いない。金や権力を目当てに近づいてくる女性も少なくはないだろうから、身の上のしっかりした相手をあてがうのは合理的だ。むやみやたらにあちこちに子供を作られても困るというのも心情として当然のことだろう。
 しかし年頃の少女を前にして、言うことがそれなのか? 心配するべきところが違うのではないか?
「……過保護な爺さんだな。俺がこいつに手ぇ出してたらどうすんだ?」
 皮肉を言ったつもりだったが、老人には通じなかったらしい。
「言ったろう、監視はつけていたと」
「どういう意味――」
 思いだした。あれは、ルームサービスを運んできた男だった。まさかルームサービスに乗じて直接監視していたわけではあるまい。あの部屋にはおそらく監視カメラか、少なくとも盗聴器くらいはあったに違いない。考えてみれば当然だろう。あのホテルは利鳳の傘下にある。楊が手を回すことなど造作もないことだ。嵯峨が允花に狼藉を働こうとしたら何をするつもりだったのか、それは知りたくもないが。
 しかし――
「……俺があのホテルに泊ることだってわかってたって言うのか?」
 それは確実性に欠けるのではないか? 嵯峨が眉を顰めると、楊は「それは否定しない」とうなずいたものの、やはり傲岸を隠さない顔でまっすぐに嵯峨を見据える。
「だが可能性はかなり高いと踏んでいた」
 確かに、カジノのあったホテルから締め出されたのは夜だ。客の心理として、近辺のホテルを選ぼうというのは容易に想像できる。とはいえ台北翔華飯店の近くにあるホテルはリビエラ・オリエントだけではない。
「偶然の勝利だろ。というかだな、そんな不確定要素に頼らなくても、あの時点で允花を保護してりゃよかったんじゃないのか? 警察を装って允花に近づくことなど簡単だっただろうに」
 老人はため息を吐いた。それは、これまでで一番重く苦し気なものに感じられた。
「営業停止が即日で決まったのはこちらとしても想定外だった。くわえて、あの時我々は動くことができなかった……というより、別の思惑で動いている馬鹿共があの混乱に乗じて事を起こそうとしていたのを阻止することを優先していたのだから」
「別の、思惑?」
 楊は瞼を閉じ、ややあってから、ゆっくりと開いた。
「私が天道連をつぶそうとしているのを、その原因も含めて察知したものがいる。息子――允花の父親ではない。利鳳の代表になったばかりの、長男だ」
 嵯峨は、タクシーの運転手から聞かされた話を思い出していた。前代表と新代表がもめている。確かにあの男はそう語った。そのあたりの事情がなぜ允花にかかわってくるのか。尋ねるまでもなく、老人は内情を吐露する。
「息子はあのカジノをつぶそうとする私の行動を、允花を保護しようと思ってのことだと誤解した。私の妻――つまりは允花の祖母は、孫をずいぶんとかわいがっていたことを知っていたからな。私が情に絆されたとでも思ったに違いない」
 会社の引継ぎと相続問題でもめている父と息子、そこに現れたのは亡き母がかわいがっていた孫。その状況が導き出す答えなど、嵯峨にも周防にも想像がついた。

「君を襲った男たちは末端も末端、そこらの不良に毛が生えた程度のものだ。銃を調達しようにも幹部連中はもう捕らえられている。
 そんな小物に情報と武器を流したのは、長男の派閥だろう」

 顔も見たことはないが、嵯峨はその男の顔を殴り飛ばしたくて仕方がなかった。 

「実際に息子がやったことかはわからん。だがあれは臆病な男だ、私が允花を後継者にでもしようものなら自分の地位が脅かされるとでも考えたのだろう。あれがやった可能性は高い」

 そんな不確実な情報だけで、一人の少女を亡き者にしようと考えたのか?

「ごろつきどもは、天道連を一掃した立役者である君たちを殺せば天道連内部で重用されるだろう、大方そういう風にそそのかされたに違いない。利害関係が一致した以上手を組むのも当然だ」
 
 あんたは腹が立たないのか。愛した女がどれだけ允花を気にかけていたか知らないのか。

「息子のことだ、証拠は残していないだろうから私の推測にすぎないが……まず間違いない。刺客たちはその場で殺してしまったので今となっては知る由もないが」

 何がアジア一のコングロマリットだ。何が醜聞だ。お前たちのやったことの方がよっぽど醜聞じゃないか、人道にもとるじゃないか。

「それに君たちに万が一のことがあれば外交問題にもなりかねん。今回は政府に一つ貸しを作れた。そういう意味でも感謝している。――うぇん

 楊は、目を見開いたまま口もきけないほど憤る嵯峨に気づいていないはずもない。しかし敢えて気づかぬふりをしているのか、それともその態度に対応する義理などないと思っているのか、ドア脇の男を呼び寄せるだけだった。
 文と呼ばれた男は、重そうなバインダーファイルを周防に手渡した。
「それは天道連の裏帳簿だ。須藤外務大臣へと流れていた金が記されている。喉から手が出るほど欲しかったものだろう? 私からの謝礼として受け取ってほしい。
 拒まれたところで、すでに写しは検察庁に送らせてもらったがね」
 まるで嵯峨と周防の意志など考慮するつもりすらないような言い草だった。公権力の実行者であっても、彼にとっては雑兵か路傍の石に過ぎないのか。それも腹立たしかったが、允花のことで何か一つでも言わなければ気が済まなかった。しかし――憤りで冷静さを欠いた嵯峨には何も思い浮かばない。
「話は以上だ。――失礼する」
 楊は一方的に話を切り上げると腰を上げ、来た時と同じような不遜な態度で部屋を横切りその場を後にした。重いドアが閉じられた後は、息苦しいような沈黙だけが残されている。

 嵯峨も、允花も、周防も――誰も口を開けなかったし、その場を動くこともできなかった。
 楊は允花に「話がある」と言っていたにも拘わらず、彼女を連れていくことはしなかった。理由はなんとなくわかるような気もしたが、今までの彼の話を聞いて楊という男に思いやりや気遣いのような感情があるとは到底思えないのも事実だった。
 嵯峨は允花の顔を見ていた。真っ白な顔で唇を震わせている痛ましい表情は、いつ「わたしのせいであなたが怪我をした」と言い出してもおかしくはなかった。
 そんな思い込みの自責の念など聞きたくはなかったせいだろうか。

允花、俺と一緒に日本に行こう」

 考えるより先に言葉は口から飛び出していた。けれど、嵯峨にはそれを撤回する気もなければ、言ってしまったことに対する後悔もなかった。むしろ、これこそが自分の言うべきことだったのだという確信すらあった。
 允花がゆっくりと彼のほうを振り返る。
「――どうして?」
 困惑を浮かべた二つの目が揺れている。そこにあるのは悲しみだけで、あの夜のような輝きは欠片ほどもなかった。それが不思議だった。嵯峨だって允花が二つ返事で頷いてくれるとは思っていなかったが、反応が予想外だったので口ごもってしまう。
「どうしてって……お前、あんな言われ方して、あんなふうに扱われて、つらくないのか」
 楊が允花をかわいがるとは思えない。だからといって飼い殺しにするとか、まさか今更政略結婚の道具にすることもないだろうが、この先自由に生きていけるとは到底想像できなかった。

――それなら、自分と日本に渡ったほうがいくらかマシじゃないか。

 思い付きでしかないような提案はおこがましいし、自分勝手だとわかっている。それでも允花を助けたかった。自分を好いてくれた少女を、放ってはおけなかった。
 きっと自分についてきてくれるだろう。この手を取ってくれるに違いない。嵯峨はそう確信していたのに、なのに、允花の顔には拒絶が浮かんでいる。
「……允花?」
 悪い予感を振り払いたくて呼びかけてみても、允花は顔をうつむけるだけ。
「……つらくない、って言ったら、嘘になるよ、でも」
「でも?」
 
「……わたしは、あなたの負担にはなりたくない」

 搾りだすような声は、嘘をついているようには感じられなかった。
 だから信じられなかった。
 あれほど食い下がってきたことも、涙の気配をにじませた訴えも、ありありと思いだせるのに。

「――負担なんて、」
「数か月の間だけでも、それが自分の意志じゃなかったとしても、わたしはマフィアの仲間だったんだよ。そんな人間と親しくするの、いけないでしょう? 薫さん、検察官って、そういう仕事じゃないの?」
 殴られたような錯覚を感じた。
「――……それは」
 明確な服務規程違反かどうかは微妙なところかもしれないが、知られても問題ないと断言するのは難しい。むしろ知られた場合、嵯峨がいわゆる「出世コース」から外れてしまう可能性は大いにあるだろう。
 言われるまで気づかなかった“リスク”は嵯峨を躊躇させた。そんなことすら思い当らなかった自分に動揺したし、リスクと允花を天秤にかけた挙句躊躇してしまった自分を認めて愕然とした。
 允花一人養っていくくらいの稼ぎはある。だから安心しろと言いたかった嵯峨は、己の考えの浅はかさに打ちのめされた。

 何の覚悟もできていなかった。人一人を丸ごと引き受けるということを、真剣には考えていなかった。ただ聞こえのいい言葉で上っ面だけの善意を包んで、エゴイスティックな欲望を満たそうとしただけだった。

 結局俺は、自分のことしか考えちゃいない。自分が満足できる方法でしか、允花を助けようと考えない。
 允花だってこれまでの――天道連とかかわる前の――生活や人間関係だってあるだろうに、身一つで自分についてこいなんて、それを一方的に捨てろと言ったようなものだ。

 考えろ。考えてもみろ。

 俺は彼女のために、すべてを捨てられるのか?

 何も言えない嵯峨を見限るように允花は目を伏せる。
「ね? だから、駄目だよ……わたしは、好きな人を苦しめたくはないから」
 允花は嵯峨の手に左手を重ねた。その時の彼女の目を、冷え切っていく温度すら感じさせそうな瞳を、嵯峨はきっと忘れることはできない。
 包み込むような動作の後、白い手のひらは嵯峨の手をゆっくりと引きはがしていく。嵯峨は何も言えないまま、されるがままだった。この期に及んで食い下がることもできなければ、諦めのいい大人のふりをすることもできなかった。
 解けてしまった手のひらが静かに離れていく。立ち上がった允花は、それでも穏やかに微笑んで見せた。
「でもちょっとだけ、うれしかった。ありがとう…………さよなら」

 そうして彼女はすべてを断ち切るように踵を返し、病室を後にした。ドアが閉じられる音の後、夕日と同じように部屋の明るさも沈んでいく。
「……」
 何もかもが終わった、そんな実感だけが胸の中に重く沈んでいく。
 嵯峨は指一本動かせないまま、目を閉じた。指を動かさなければ、あの細い指の温度も柔らかさもまざまざと思いだされて、まだそこに允花がいるような気さえした。

2020/10/25