台北恋奇譚

 タクシーの車窓から夜景を眺めつつ、嵯峨は非現実感だけを感じていた。こんなことになるとは半日前には想像もしなかった。二度と会うこともないだろうと思っていた相手が目の前に現れ、あまつさえ――どこかへ連行されている。タクシーに乗り込んだのは自発的なものなので、連行とか拉致とか、そういう物騒な言葉は不適切だろうけれど。
「で……? どこに連れて行くんだ?」
 ドアの淵に肘をつく嵯峨の問いかけに、隣に座る允花はにっこりと笑う。
「ホテル・プレアデスって知ってる?」
「知ってるも何も、」
 最近鳴海区にオープンした五つ星ホテルのことは知識として知っている。縁もなく知っているだけで行ったことはないが。
「そこに向かってるのか?」
 確かにタクシーの行き先は臨海地区らしいが、なぜまたそんなところに?
「おじいさまが待ってるの」
 怪訝な顔の嵯峨は、その返答を聞いてしばし硬直した。あの老人が自分を呼びだしたらしいという事実が心臓にかけられた冷水のように感じられたのが一つ。それとは別に、怒涛のように彼の中に流れ込んでくる様々な情報をさばききれなかったのがまた別の理由。
「うん、そうか、允花
「なに?」
「もしかしなくても、プレアデスのオーナーはあの爺さん……利鳳だな?」
「うん」
「お前、あの爺さんとは問題なくやれてるのか?」
「うーん、多分? あれからしばらくは同じ家に住んでたし……」
 なんでもないことのように允花は言うが、正直あんな血生臭い事件を起こせる人間たちと一緒に暮らしたりできるものなんだろうか。鼻白んでいる嵯峨が何を考えているのか感じ取った允花は、やや不本意そうに口を開く。タクシーの運転手を気にしているのか、中国語での会話だった。
「あのね、襲撃は会社の、伯父さんの派閥?の人たちが勝手にやったんだって」

 允花はそのまま、あの後のことを語り始めた。
 感情の昂ったまま、允花は利鳳に乗り込んだと言う。それも血にまみれた服で。
 社長である楊の息子――允花にとっては父の兄、伯父にあたる――は腰を抜かすほど驚いたらしい。ジャクリーンのような様相だけではなく、允花が若いころの母親に瓜二つだったからだ。
「でもほんとに椅子から転げ落ちなくてもいいよね……わたし、ちょっとショックだった」
 本気で少し落ち込んでいるのか、允花は声を落とす。落ち込んだと言ってもそれは冷静になった後の話だ。その瞬間は怒りと悲しさとで、曰く感情がぐちゃぐちゃになり泣き出してしまったらしい。
 伯父である男性の気持ちはわからないでもない。目の前で母親に瓜二つの少女が、自分を責めながら血まみれの服で泣きじゃくっている。その光景は確かに地獄だ。良心が痛めつけられるという意味で。楊の息子は允花の顔も知らなかったらしく、顔を青くしたり目を白黒させたりせわしなかったと楊が語っていたと聞く。
 嵯峨は心配していたのとはやや異なる顛末に拍子抜けしつつ、こうも思った。
(あの爺さん、ほんとはそれが目的だったのでは?)
 台北で耳にした代表退任に関する息子との軋轢がどのようなものだったかはあずかり知らぬところだが、腹に据えかねた楊が息子に一矢報いようと何食わぬ顔で允花を連れてきてもおかしくはない……いや、さすがに孫娘を自分の溜飲を下げるために利用するというのは人としてどうなのかと思うし彼がそこまで人でなしとも思いたくないが。
 なお、天道連残党に武器を流したことを問い詰めたところ、彼はまともに答えることすらできなかったらしい。なので、結局その日はまともな話し合いができずに終わり、後日改めて場が設けられることとなった。それによると、楊社長は允花の存在は知っていたものの、襲撃については指示すらしていなかった。
 あれは彼の派閥の人間が勝手にしたことだったということが後々になって判明した。会長の孫が後継者に指名でもされれば社長に用いられている自分たちの立場だとか役職だとかが危うくなる可能性を危惧でもしたのだろう。彼らがどうなったのか允花は知らない。知らない方が、きっといいのだろうと嵯峨は眉を寄せた。

「だから詳しいことは知らないけど、あの後は別に、問題も何もなかったよ。わたしは静かに暮らしてた。おじいさまは、また学校に行かせてくれるって言ってくれたけど――」
 それは考えうる限りで最も好ましい顛末ではないのか。と、嵯峨は胸をなでおろしかけたが、允花はなぜか満ち足りぬ表情のまま、両手を膝の上で握りしめている。

§

「どうしても君と添い遂げたいと言って聞かんのだ」
 真面目腐った楊の言葉に、この爺さんもたいがい孫馬鹿だな――と、嵯峨はその場で頭を抱えたくなった。
「そういう話は一方的な感情で解決するものではない。相手の都合もあるだろうとは言ったのだが」
 嵯峨は何も言えなかった。そりゃあそうだがだからと言って本当に日本に連れてきてその相手本人を問い詰めるようなことをするだろうか、普通。いや普通じゃないのかこいつらは。この、世界有数の利鳳グループ会長は。
 嵯峨は胃痛すら感じていた。ホテル・プレアデスの最上階、スイートルームのソファは嵯峨の身体を受け止めている。テーブルを挟んで向かいには老人が同じく腰を下ろしており、部屋の中には黒服が3人控えている。逃げ出そうという意志すらなくす光景だった。
 允花は別室に姿を消していた。当人がいては言いにくいこともあるだろうという、老人のはからいだった。そういう気配りができるのならもうちょっと話し合いの場の選定に気を遣ってもらいたいものだ。
 嵯峨は深呼吸する。とにもかくにも、会話をしなければここから出ることも叶わない。
「ちょっと待ってくれ。俺の意志を尊重してくれるのはありがたいが、俺がはい喜んでって言ったらあんた、允花をここに置いていくとでも?」
 いくらなんでもそんなことがあるだろうか。当人同士の気持ちが重要とは言え允花はまだ未成年だ。いや台湾では成人扱いかもしれないけど。
「俺はただの公務員だ。家柄もない。釣り合うとは思えない。俺と添い遂げるようじゃ、あんたが必死に允花を保護したのも水の泡じゃないのか?」
 自分で言って惨めではあるが、楊が気にするのではないかという疑問のほうが大きかった。別に政略結婚の道具にすることはないだろうが、それなりの相手をあてがうのが保護者としての心情なのでは?
 楊は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「これも因果というものかもしれん」
「はぁ?」
「……私の妻は日本人でね、それも、かなりの家柄の令嬢だった」
 それが一体何の関係があるのか。嵯峨は目を細めながらも、一応耳だけは傾けることにした。

 曰く、允花の祖母にあたる女性は代々政治家を排出してきた家の生まれで、楊はそこに出入りしていた下働きの者だったという。今よりもずっと排他的で家柄の貴賤に敏感だった時代でも、彼女は楊のような労働者たちに気配りを忘れることはなかった。年の頃が近かったためか、楊とは特に親しく言葉を交わすこともあった。
 だからだろうか。望まぬ相手との婚約が決まった日、彼女は楊に縋った。
 自分を連れて逃げてくれないか、と。
 様々な感情が波のように楊を襲った。
 そんなことをしていいのか。相手は同じ、政界入りが約束されている名家の御曹司だ。情はなくても何不自由ない将来が約束されるだろう。それをすべてぶち壊して、彼女をさらっていいと思えるのか? 本当に彼女を愛しているのなら、最も願うべきはその幸せなのではないか?
 結局、楊は彼女を連れて出奔した。涙ながらに訴えられ、差し伸べられた手を振りほどくことなど到底できなかった。
 当時英国領だった香港へと必死の思いで渡り、二人はがむしゃらに働いた。どういうわけか日本からの追手が来ることはなかったが、二人が日本へと戻ることもそれ以降はなかった。貧しかったけれど、それを補ってあまりあるほどの幸福だった。大きくなった会社を息子に任せ、余生を二人で過ごそう、そんな矢先に、彼女は事故で急死した。

 嵯峨は何も言えなかった。老人の喪失感はいかばかりのものだろうか。最愛の妻を亡くした彼は、本当は允花を手放したくはないのでは? 妻に生き写しと言われるほどに似ているのなら、猶更だ。
 楊は薄く笑う。
「私は彼らから大切な娘を奪った。その私が孫娘を奪われることに一体何の文句が言える
?」
 先ほど「因果」と言っていたのはそういう意味らしい。
(頑固というか、融通がきかないというか……)
 嵯峨はしばらく口を結んでいた。今の話が影響を与えたわけではない。ずっと未練を抱えていた自分の心は誰よりもよく知っている。だから、言葉に詰まることはなかった。
「……本来なら、俺から挨拶に伺うべきだったでしょうが、こうして足を運んでいただいたことに感謝します」
 深く一例し、皺の刻まれた顔を仰ぎ見る。
「許していただけるのなら、俺は允花と一緒になりたい。そう思っています」
「――そうか」
 細められた老人の目が鈍く光ったように見えた。悪人ではないのだろうと感じていた自分の予想は外れてはいなかった、そう思うと、嵯峨はどうしても言わずにはいられなかった。
「けど、これっきり允花に会わないつもりじゃないでしょうね?」
 老人は目を丸くしている。どうやら彼の中では今生の別れだったらしい。
「俺はもう両親もいないけど、允花はそうじゃないんだから……なんていうか、会えるときに会うようにしないと、絶対後悔するんじゃねぇかな……いや、これは俺の個人的な考えですけど」
 何やら気恥ずかしくなって、嵯峨は咳払いする。
「とにかく……允花がそうしたいって言ったら、台湾にも行きますよ。……だから、ホテルの視察でもいいから、たまには顔見せに来てください」
 老人は小さく笑い、大きく頷く。
「……そうか、そう言ってくれるのは、ありがたいことだ。では、ひ孫を見るまで長生きしなければならんな」
「――」
 そのうちひ孫も生まれるかもしれないし、とは、さすがに言えなかった嵯峨は、楊のほうからその言葉が出るとは思わず閉口してしまう。
「……成人するまで手は出しませんよ」
「ほう?」
 挑戦的なその相槌に何が込められているのか。「お前はそんな禁欲的な男なのか?」いや、「うちの孫が魅力に欠けているとでも?」だろうか。
 どっちでもいい。一体どこに「孫に手を出せ」と唆す保護者がいるのか。まあ冗談に違いないと結論づけて、嵯峨は立ち上がる楊に倣った。
「せいぜい長生きしてください」
「君もせいぜい出世してくれ」
 結局悪態で応酬してしまうあたり、二人とも性根がねじ曲がっているのかもしれない。允花が見ていたら「似たもの同士」と笑うだろうか。嵯峨は差し出された右手を握った。
「あ、そうだ。まさか東京地検への異動、あんたの差し金か?」
 老人は鼻を鳴らす。
「東京? 允花は春から東京の大学に通うことになるから好都合じゃないか」
「……あんたなぁ」
 嵯峨が「NO」と言っていたら允花とともに台湾へ戻るような口ぶりだったくせに。この分だと嵯峨の答えなど想定済みで動いていたに違いない。
 どこまでこの老人が噛んでいるのか――いや、どこまで自分たちは彼の手の上で踊らされているのか。嵯峨には呆れることしかできなかった。

§

 隣の部屋のドアを開けると、允花が窓の外を眺めていた。楊は別件の用事があるとかですでにホテルを出ている。日付も変わるというのに年齢を感じさせないアグレッシブさだ。
 取り残された嵯峨は「ここに泊っていくといい」と保護者の公認を得てしまったのだが、さすがにはいそうですかと甘受する気にもなれない。
允花
 コートを脱いだ背中に呼びかける。振り返る動きに合わせて揺れる髪も、こちらに微笑みかける顔色も、台湾での日々と比べ物にならないほど健康的だった。
「お話、終わった?」
「ああ」
 允花と並んで窓辺に立つ。臨海地区から見る都心部の夜景は、なかなかに悪くはない。繁華街や観光スポットから離れた開発途中の鳴海区にこんな豪華なホテルを建てるなんてと、内心鼻で笑っていた嵯峨も煌びやかな夜景にその考えを改めた。未だ工事車両が多い鳴海区も開発が進めば高層の建物も増えるだろう。しかし増えたとしてそのビルの群れすら、ホテル・プレアデスの最上階からこの夜景を奪うことはできまい。珠阯レ市内で現状一番の高さは、当分あるいは永劫変わらぬものだろう。
「……春から東京だって?」
 それを最初に言わないのも人が悪いと思う。なんだかんだで允花も楊の孫というか、似てきているのではないだろうか。
「うん」
 嵌め殺しの窓に触れ、允花は小さく頷く。
 聞きたいことは、山ほどあった。進学先のこと、進みたいと思っている道のこと、それから――
(一緒に暮らそう、なんてのは、気が早ぇよなぁ……)
 窓の外を見る。夜景に負けそうなほど小さい光が、点滅しながら飛んでいく。どこへ向かう飛行機だろうか。考え事をしているうちに、それはもう見えなくなってしまった。
「薫さんも東京なんでしょ?」
「誰かさんのおかげでな」
「おかげ?」
 允花の声は意外そうな色を含んでいた。嘘をついているとは思えない。
「……ん?」
 てっきり、楊の仕向けたあれこれを知っているものと思っていたのだが、この反応から察するに、允花は何も知らないらしい。
 失言だった。嵯峨は口を覆うが、今更そうしたところで遅い。允花もさすがに察しがついたらしく、みるみるうちに目元が朱に染まっていく。
「おじいさまってば……」
 そう言いながらもまんざらでもないのは、彼女なりに保護者公認のお墨付きを得てうれしいのだろう。両手で頬を覆っているのは愛らしい仕草だが、嵯峨はなんだか、外堀を埋められている気分しかしない。
「まあここに泊っていけなんて言う爺さんだしな――」
「えっ!?」
 失言再び。これも允花は聞かされていなかったらしい。
「と――泊まるの?」
 さっきまでとは比べ物にならないほど顔を赤くして、目も潤ませて、嵯峨をまっすぐに見つめている。
 これはまずい。
「いやいやいや! 泊まらない! 俺は帰るから! 着替えもないし、な? 安心しろ!」
 両手を上げての降参にも似たポーズを取るが、
「帰っちゃうの……?」
 今度は肩も落として眉も下げてわかりやすく落胆している。おまけに、
「台湾では何度も一緒のベッドで寝たのに……?」
 嵯峨をさらに動揺させる。
「あ――あんときとは状況が違うだろ」
「どう違うの?」
 そこを追及するかな……と、嵯峨は天を仰ぎたくなった。同時に、もしかして誘導尋問なのでは? という疑念も膨らんでいく。とはいえ、仮に誘導尋問だったとしてそんなものをされる非は嵯峨のほうにあるので責めるわけにもいかなかった。
「……好きな子と同じベッドで、我慢できるかわからねぇし……」
 情けない敗北宣言だった。そう感じる一方で、ずっと前から抱えていたものを吐き出せたことが純粋に嬉しいとも思えた。
 允花は何も言わなかった。その代わりにか、嵯峨の胸元に額を当てる。
「……我慢、しなくていいのに」
 少し遅れて、小さな両手がそっと添えられる。ワイシャツごしにじんわりと伝わってくる体温が彼をそこに縫い留めて、放さない。
 花のような香りを、嵯峨は抱きしめる。目を閉じれば、あの台北での日々が甦るようだった。遠い追憶として想うことしかできないと信じていたものが、この手の中で自分を求めている。
 帰りたくはなかった。このまま、互いの気持ちに身をゆだねてしまってもいいのかもしれない。そう思う一方で、それでもまだ、このもどかしさを失くしたくはなかった。
「大人を惑わすんじゃないよ……」
 二人の距離は、額に唇が触れそうなほど近い。今日は、ここまで。
 焦る必要なんてどこにもなかった。これからは、ずっと一緒なのだから。

2021/2/15