台北恋奇譚

(――朝、か)
 夢を見ていた気がする。どんな内容だったかももうおぼろげにしか覚えていないが、かつて手放した――いや、つかめなかった“もしも”の幸福な光景が瞼に焼き付いていた。だからだろうか、夢の中身を忘れまいとして手を伸ばしそうになるのを失笑で諦める。甘ったるい感傷なんて自分には似合わないのだから。
 見上げた天井はようやく見慣れた気がするのに、今日を限りでお別れだ。もちろん天井の壁紙やはめ込まれた照明の飾りガラスを惜しんでいるわけじゃない。もっとやわらかくて、きらびやかな何か。それは決して自分のものではないのに、どうしてこんなにも満たされないのか。いや、自分のものではないから、そう感じるのだろうか。天気も体調もすこぶる好調だが、目覚めの気分だけは最悪だった。
「…………」
 嵯峨は何かに耐えるような顔で体を起こす。隣には誰もいない。今日は允花が先に目を覚ましたのだろう。それを裏付けるように脱衣所の方からはかすかな物音が聞こえていた。髪をブローするドライヤーの音、人工大理石の洗面台とプラスチックのコームが奏でる金属のような音。允花はまだ、そこにいる。
 安堵のため息は、そのまま自嘲に変わっていく。
 別に允花と何かを誓ったわけでもない。気持ちが互いを向いているのだと確認しあったわけでもない。そのくせ一端いっぱしの喪失感と甘ったれた未練をずるずる引きずるつもりでいるのだから自分というのはなんと女々しいことか。
「はー……、情けねぇ」
 溜息、自嘲、その後に頭を大きくかきむしる。なんとなく見た手のひらには根元だけ白い髪が乗っていて、一層気が滅入るのだった。
 気落ちしているのを振り払おうとしているのか、嵯峨は勢いよくベッドシーツを跳ね上げる。立ち上がってカーテンを開けると、朝の白い光の中に細かな埃がチラチラと舞い上がった。ミニチュアの街に降る雪のようなそれを見るともなしに眺め、とりあえずは一服とばかりに嵯峨は煙草を咥えた。
「おはよう」
 見計らったようなタイミングで、着替えも済ませた允花が脱衣所から姿を現す。もしも両目が腫れていたらどうしよう、などと自惚れた心配をしていた嵯峨は、その穏やかな笑顔にやや失望しながら口元だけで笑った。窓辺にもたれた自分の顔が、逆光でよく見えないことを祈りながら。
「……うん、おはよう」
 火を点けたばかりの煙草を一口吸い、肺に送り込まずにそのまま吐き出す。灰色の煙は換気扇へと一直線に向かって消えていった。
 允花は着替えを丁寧にたたみ、ショッパーの中にしまっていく。帰り支度……というよりは荷造りだろう。これから彼女が向かう場所は、まったく見知らぬところなのだから。
允花
 急に小さな背中が頼りなく感じられて、つい呼びかけてしまう。振り返った允花の顔には悲壮感もなければ不満も見て取れなかったので、嵯峨は声をかけておきながら口ごもってしまう。
「どうしたの?」
 首を傾げて允花が立ち上がる。その動きに合わせて揺れるミントグリーンのスカートを、嵯峨はしばし目で追ってしまった。今日の允花はひざ下まであるスカートにオフホワイトのニットを合わせている。清潔感のある清楚な装いはこれまでで一番彼女らしいと思えた。
「ああ……いや、その服、いいな、その――似合ってる」
 どうしてそんな言葉が飛び出したのか、後になってもよくはわからなかった。他に言うことがなかったからかもしれないし、もしかしたら、ブティックで何も言えなかったことが後悔としてひっかかっていたのかもしれない。
「あ、ありがと……」
 なんにせよ、允花にとっても予想外だった一言だったらしく、大きな目は驚きに見開かれていた。そうして――当然と言うべきか――允花は贈られた言葉を噛みしめるように両手を頬に当ててうつむいた。明らかに“嬉しさを隠せない”素振りだった。さすがに嵯峨がそれについて何を言うこともできず、気まずさに耐えかねて入れ替わりに脱衣所へと向かうしかなかった。ドアを閉めた後で、允花はスカートのすそを翻してくるくると有頂天になっているのではないか、などと邪推するのは思い上がりだろうか。
 溜息に込められた感情はわからない。振り切るように顔を洗ったところで気持ちの方は晴れないか――と、鏡に映った顔を確かめる。
「……ひでぇ顔」
 失笑がこぼれるのも当然だった。嵯峨は寝不足でも体調不良でもない。なのに、鏡の中の男は見たこともないような顔色をしていた。

§


 朝食をレストランで済ませると、二人はそれぞれの荷物をまとめて客室を後にした。スーツケースの上に大きなアタッシュケースを乗せた嵯峨とは対照的に、允花は紙袋ばかりをいくつも肩に下げている。今更ながら妙な取り合わせの二人組だと嵯峨が小さく笑うと、允花は怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたの?」
「ん? いや……」
 唇に微笑を浮かべたまま、嵯峨は言葉を飲み込む。厚い絨毯が敷き詰められたエレベーターホールは、沈黙すらも吸い込んでしまうようだった。
「――あっという間だったな、って思ったんだけど、よく考えたら一緒にいたのはせいぜい三日だけだったんだ、そりゃ、あっという間だよな」
 エレベーターはまだ来ない。その間がもたなかったのか、嵯峨は結局、考えていたことを口にした。
 ずいぶんな時間を共に過ごしたような気もするのは、きっとその間に起こったことが大きすぎたせいだろう。間違いなく自分の人生を変えるような出会いだったと、允花は日々を振り返りながら瞼を伏せた。
「そう、だね」
 忘れられない日々だ。もちろん決して忘れるつもりなどはない。呆気なく散った初恋は、いつまでも自分の心にいとおしい傷跡として残り続ける。しかしそれも、時が経つにつれて薄く淡くかすんでいくのだろうか。
 だとしたら、大人になんてなりたくはない。
「――允花?」
 到着したエレベーターに乗り込むことを躊躇してしまい、その場にとどまった允花を嵯峨はやさしい目で見ていた。帰りたくないと駄々をこねているとは、思われたくはなかった。
「なんでもない」
 允花は微笑み、右足を大きく踏み出す。
 思いだせ。決意したじゃないか。昨夜枕をみっともなく濡らしながら、「せめてお別れは笑顔で済ませよう、笑った顔だけ、覚えていてもらおう」と、そう決めたのだから。
 だから、こんな子供っぽさはもう見せるまい。
 前を向いて、唇をきゅっと引き結ぶ。允花のそんな様子に嵯峨は何も感じないわけではなかったが、やはり彼も同じように、言うべき言葉を見つけることはできなかった。

 エレベーターを下りた先は開放的なラウンジになっているが、今朝はやや人気が少ないように思えた。おそらく旅行客は、日曜日だった昨日のうちにあらかたここを去ってしまったのだろう。食後のコーヒーを楽しむ老夫婦や、待ち合わせでもしているらしいビジネスマンを横目に二人はフロントへと向かった。かすかに聞こえるクラシックの調べは穏やかに、その場のすべてを包んでいた。
 カウンター内に詰めていたのは、チェックインの際に対応してくれた女性スタッフだった。
「おはようございます。チェックアウトですね」
 今日も今日とてきっちりと後ろに撫でつけられた髪には一部の乱れもない。このホテル自体が彼女と似たようなものだったな、と、嵯峨は小さく笑った。
「あの部屋、よかったよ」
 鍵をカウンターに置きながらの言葉に、彼女は軽く目を細める。
「ありがとうございます。お気に召していただけて光栄です」
「たまには身の丈に合わない贅沢もしてみるもんだ」
 彼女はその言葉には微笑みだけで返し、嵯峨へ請求の明細を提示する。目玉が飛び出るほどの金額を請求されるかと思っていたものの、記載されていた額は予想の半分ほどだった。
「これ、間違ってない?」
「あの日にチェックインいただきましたお客様は、オーナーからの指示で宿泊料をサービスさせていただいております。もちろん、全額ではありませんが」
 安すぎるんじゃないかと訝しんでみれば、そういうからくりだったらしい。嵯峨は感心した。オーナーの親切さというよりは、したたかさに、だ。本来の宿を追い出されて困っていたところに親切にされたなら、この次の機会もここにと考える客も少なくはないだろう。商機を逃さぬ徹底ぶり、さすがはアジア一の観光王か。
 クレジットカードの支払い票にサインをしたためると、控え書類は厚手の封筒入りで渡された。なんだか持て余すようなそれをコートの内ポケットにしまい込むと、見計らったかのようにポーターが近寄ってくる。
「お帰りは桃園空港へ?」
「ああ、その前に寄ってほしいところがあるんだけど――まあとりあえずタクシーを回してくれるかな」
 空港に向かう前に周防をピックアップすることになっている。ポーターは頷くと、インカムを通じて配車の指示を済ませた。
「お待たせしました。荷物はタクシーまでお持ちします」
 曲線の美しいカートに荷物を載せると、彼は嵯峨と允花をエントランスドアへと促す。
 嵯峨は歩き出す直前、フロントを振り返って片手を上げる。カウンター内のスタッフは、一糸乱れぬ丁寧さでお辞儀を返してきた。
 まあ、いつか機会があれば、またここに――。
(やめとくか)
 いらぬことまで思いだして、苦しくなりそうだ。嵯峨は思い出を振り切るように踵を返し、ロビーを横切っていく。傍らの允花は何も言わない。別れの時はすぐそこに迫り、二人の距離はこれまでのどのときよりも、遠かった。
「行こうぜ、允花
「…………」
 どこか上の空に思える允花の態度は別れを惜しんでいるためかと、嵯峨はそう考えていた。
 けれど、強張った表情は感傷によるものではない。
「――どうして」
 その問いかけを残して歩みを止めた允花は、明らかに動揺していた。
「どうして、あなたがここに――」
 エントランスのドアまであと、5メートル。
允花?」
 振り返ると、足を止めた允花がポーターを見ていた。ただ見ているだけではない。その目には驚愕と、混乱と、そして怯えが浮かんでいた。
 なぜ、そんな顔をしているのだろう?
 嵯峨の視線はポーターに移る。制帽を被っているために顔つきははっきりとはわからなかったが、なぜか嵯峨にとっても、その顔は見覚えのあるものだった。
(――なんだ? なぜ、俺はこの男を知ってる?)
 ホテルで見たわけではない。もっと別の場所だ。
 思いだせそうなのに、思い出せない。
 いつ、どこで、俺はこの男を見たのか?
 嫌な予感がしていた。思いださなければいけない、それだけはわかるのに、記憶の底を洗っても手掛かりすらつかめない。
 焦燥感のせいか、嵯峨は立ち尽くしたまますれ違うポーターの顔を目で追うことしかできなかった。

 それから起こった出来事のことを、彼は一生忘れないだろう。
 思い返すたびに、それはまるでスローモーションのようにゆっくりと再生される。

 光を反射する床に響く靴音、ロータリーから聞こえてくる甲高いブレーキ音、允花の目が恐怖に見開かれる様。
「薫さん!」
 絶叫する彼女の目は、嵯峨の背後、エントランスドアの向こうを見ていた。
「え――?」
 一体何があるというのか。純粋な疑問で振り返った嵯峨は目を疑った。
 スーツを着崩した二人の男が自分に銃口を向けている。

 ――撃たれる。

 ああ、もう間に合わない。そう感じたのは理屈ではなかった。覚悟ができていたのかはわからない。いや、そんな次元の話ではない。なにしろこんな光景が自分の人生に降りかかるなんて、この期に及んで信じられないくらいなのだから――咄嗟に両手を広げることができたのは、奇跡みたいなものだったのかもしれない。

「――允花下がれ!」

 その叫び声をかき消すように銃声が二つ、そしてまた、二つ。
 これまでに感じたことのない痛みが嵯峨の身体を貫いていった。予想していたよりも大きな衝撃に、片足は後ろに下がり視界がぶれる。居合わせた客たちの悲鳴を聞きながら、考えることなど一つだけだった。
允花には、当たっていないといいが)
 その場に崩れ落ちながら、彼はガラスが砕けるような音を耳にした。きっと狙いが外れてエントランスのドアか、花瓶にでもあたったのだろう。
 下手糞め、ざまぁみろ。と、言いたいところだが、強がるには厳しい状況らしい。何発かは確実に嵯峨の身体に命中しているのは間違いない。しかし痛みはあまりにも強すぎて、どこに何発命中したのかは瞬時にはわからなかった。
「が、っ……!」
 仰向けに倒れた拍子に眼鏡が外れてどこかへ飛んで行った。ぼやけた輪郭でもシャンデリアはまぶしく、激痛に耐えかねて嵯峨はきつく瞼を閉じる。銃撃され数秒が経ってようやく、嵯峨は自らの状況を理解した。どうやら痛むのは左胸と腹らしいので確かめるように触れてみると、手のひらはぬるりとした血でたちまち汚れていった。なるほど、下手なりに少なくとも2発は命中させたらしい。横を向くと、クリーム色の床がみるみるうちに赤く塗り替えられている最中だった。
(なんだよ、これ……)
 銃撃は止んだ。取り押さえられたのか逃げたのか判然としないが、騒然とし始めたエントランスの気配から察するに、当面の危機は去ったらしい。しかし、安心していいのだろうか。
「は……」
 傷を認識したとたん、痛みが増したような気がした。力の入らない手のひらが自分の血に染まっていくのは、彼に初めて感じる種類の恐怖感をもたらした。
(……死ぬのか、俺は)
 わからない。ただ、いつこの意識が途切れてしまうのかという怯えで息が荒くなっていく。呼吸を止めてはいけないと理解していても、浅くなっていくそれのせいで焦りが止まらなかった。
「――!!」
 誰かの悲鳴が聞こえる。鉄のにおいに混じって、甘くやわらかい香りが降り注ぐ。天使が花弁を振りまいたなら、こんなふうなのかもしれない――。いいや、違う。これは、天使などではない。知っている、自分は、この存在の何たるかを痛いほど知っている。
(ああ、允花……)
 目を開けたはずなのに、視界はぼんやりとしたまま判然としない。シャンデリアから放たれる光が曖昧な輪郭を作っているだけで、どんな顔をしているのかもわからなかった。
「……! ――!!」
 彼女が何を叫んでいるのか、嵯峨にはよく聞こえなかった。ただ、泣いているのだろうな、ということだけはおぼろに理解できた。
 泣くなよ、と言いたかった唇は、かすれたまま何も告げられなかった。
 柔らかい手のひらに触れられる。傷の痛みすら忘れそうなほどに心地よく、たとえこのまま落命したとしても、悪くない状況なのではないかと、そんなことすら思えるほどだった。
 床に座り込んだ允花の膝に頭を乗せられて、嵯峨は血の気の引いた顔で笑った。何も見えないが、あたたかい雫がいくつも降り注いでいる。
「……怪我、ないか」
 今度は、ちゃんと言葉にできた。
 允花は大きく首を縦に振っているようだった。
「そうか、よかった……」
 それなら自分が負傷した甲斐もあったというものだ。尤も、犯人たちの狙いは自分だけだったかもしれないので、これは勝手な思い込みと願望に過ぎない。幼いころに抱いていたかもしれない、ヒーロー願望のような何かが満たされた、そんな気がしただけだ。
(でも、ヒーローなら、これで死んだりはしねぇかな……)
 きっとそうだ。正義の味方や物語の主人公はこんな山場で退場したりはしないものだ。残された人を悲しませるようなことはしない。

 だから、俺はきっとヒーローではないのだろう。

 喘ぐような呼吸を繰り返しながら嵯峨は目を細める。わかっていた。自分は允花の何物にもなれない。彼女をこの先笑顔にする誰かではない。その事実は彼を酷く苛む一方で、わずかばかりほっとさせた。それでもこんなひどい場面に遭遇させてしまったことは、目の前で血を流して今にも死にそうな顔をしていることは、きっと彼女の一生の傷になるだろう。やさしい允花のことだ、いらぬ罪悪感を抱いてしまうに違いない。
 手のひらが頬に触れている。その小さな手を自分の手で包みたかったのを、嵯峨は堪えた。白い手を汚したくはなかった。いや、そんなものは今更の詭弁だろうか。
「ごめんな、服、汚れたろ」
 こんな風に怪我人を抱えていては、淡い色のスカートも真っ白なセーターも、見る影もなく汚れているに違いない。允花は「そんなこと、いま、関係ない」と嗚咽交じりに否定する。その声すらもう遠い。

 ああ、また、泣かせてしまった。こんなことなら、一度くらいはそのささやかな願いをかなえてやればよかった。せめて抱きしめてやるくらいなら、口づけるくらいなら――それは、一体誰の願いだっただろう?

 視界が狭まってくる。駄目なのか、と、直感した途端――人間というのは、なんとあさましいのだろうか――嵯峨は隠していた本心をどうしても、伝えたくなった。
 伝えなければ死んでも死にきれない。嵯峨は允花の手首をつかみ、その目に向かって口を開いた。
允花、俺は…………俺は、ほんとは――」
 結局、その先が言葉になることはなかった。
「かおる、さん……?」
 意識が途切れてしまったのも理由の一つだった。けれどそれ以上に、允花の未来に死んだ自分がしがみつくのはあまりにも残酷じゃないかと、そう、思い直したからだった。
 忘れたほうがいい。こんな願いを叶えてまで、自分はみっともない存在になり下がりたくない。
「やだ、いや、薫さん、どうして」
 それが正しいことなのかはわからないし、嵯峨にはもう知る由もない。
「誰か、誰かたすけて、おねがい、誰か――!!」
 後にはただ、允花の悲痛な叫びだけがこだましていた。

2020/9/22