台北恋奇譚

 張は話が終わるや否や、ミーティングがあるからと言ってホテルを去っていった。夕食を共にする暇もないほど忙しいとは思わなかったし、にもかかわらずホテルまで足を運ばせたのを嵯峨が詫びる暇すらなかった。

 部屋に戻る間、嵯峨も允花も口を開かなかった。
 エレベーターの中で盗み見た允花の顔は、相変わらず感情が読めない。勝手に話を進めたことをもっと怒るだろうと思っていたが、さっきからずっとしおらしく黙ったままだ。もしかしたら、口を開くのもできないほど腹を立てているのかもしれない。あるいは、他人の目と耳がある場では抑えているのか。
 なんにしろ、どういうわけか允花の態度は嵯峨に不満を感じさせるものだった。
 女に感情的になられるのはもちろん望ましくないが、子供らしさをこれっぽっちも見せないというのは健全ではない。そうは思う一方で、どこか納得もしていた。17という年齢がどんなものか自分の記憶を手繰っても思い出せないけれど、女のほうが男よりも早熟だと言うくらいだから、案外世間一般の17歳女子はこのくらい聞き分けがいいのかもしれない。
(それに、允花だって本気で俺について日本に来たかったとは限らないしな)
 あれは咄嗟に口から出ただけのことだろう。日本に行きたいというのは、現状から抜け出したいという意味での逃避交じりの願望に過ぎない。だとしたら、張のところで働くことで、允花の望みはかなうはずだ。
 ついでに、もし周防の懸念どおり允花が腹に何か抱えているのなら決死の覚悟で食い下がってくるに違いない。にもかかわらず、項垂れたままのまさに意気消沈といった面持ちをしているのは、周防の心配が単なる杞憂だったことの現われだ。
(そう見せて、もしかしたら計画を練り直してるのかもしれない――)
 ため息が漏れる。
 嫌になった。疑おうと思えばどこまでもいつまでも疑える。そうなった人間は疑心暗鬼に陥って、正常な判断を失うのが常だ。
 それに、もっと感情的な部分で、嵯峨は允花を疑いたくはなかった。
(――やめだ、やめ)
 首を横に振って苦い息を吐く。どのみち考えても答えなど出ないのだから、考えるだけ時間の無駄だ。
 これで一件落着。仕事は終わって面倒事も解決した。万々歳だ。友人には面倒をかけることになるし允花には有無を言わさない形になってしまったけれど、これが今の嵯峨にできる精一杯だった。心のどこかでは、「これだけしてやったのだから」と思わないこともない、それは事実だ。そしてその感情の欠片は、自分の独善を正当化しているようでひどく居心地が悪く、嵯峨が口を開けないのは結局、そのいびつな罪悪感のためでもあった。

「薫さん」

 客室に入りドアを施錠すると、先に入っていた允花が振り向かずに呼びかける。彼女の顔が向いている先にはカーテンが開いたままの窓があり、夜に沈んだ台北の街を煌びやかに収めていた。まるで絵画か写真のような光景の中央には、允花の顔が反射している。その笑顔とも泣き顔ともつかない視線と嵯峨の視線が交わって数秒。
「明日、帰るの?」
 吹っ切れたような明るい声音だった。体の前のほうで組んだ両手はきつく結ばれているのだろう。
「……気づいてたのか?」
 帰国の予定は話してもいない。誰かから聞いたのか、そう尋ねると夜景の中の允花は首を横に振る。
「ううん、勘。張さん、忙しいのにわざわざ来てくれたみたいだから、薫さんたちには時間がないんだろうなって、そう思っただけ」
「そうか」
 察しのいいことだ。尤も、允花は張の慌ただしさだけでなく、自分の挙動不審からもそれを察したのかもしれない。返事をしたきり何を言えばいいのかわからない嵯峨は、彼女のほうへ一歩だけ踏み出す。
「ありがとう」
 歩みが止まったのは、脈絡もない謝辞のせいだ。
 スカートを軽く翻して振り返り、両手を後ろで組んで笑っている。その仕草は、彼女がカジノで声をかけてきたときと同じだった。もうずいぶん前のことのように感じられ、喉の奥に鉛の塊が引っ掛かったようで息が詰まる。
「わたしのこと助けてくれて、なにからなにまでお世話になりました」
 丁寧なお辞儀だった。彼女を育てたという祖母は上品な女性だったに違いない。あのブローチだってそう易々と買えそうなものとも思えなかった。もしかしたらお前、いいとこのお嬢さんだったりするのかもな。なんて思い付きは、当然口にできるような雰囲気ではないし、そんなことよりも言うべきことは別にある。
 嵯峨もようやく力ない笑みを浮かべた。
「別に、いいんだよ。そうじゃなきゃ今頃お前だって――」

 “警察にしょっ引かれてただろうさ”

 唐突に去来する考えに、嵯峨の表情が強張る。
(何か、おかしい)
 昨日警察局を訪れたとき、取り調べ室と思しき部屋の中には見覚えのある若い女性の姿があった。
 彼女は台北翔華飯店のカジノにいた。あの店のカクテルウェイトレスだった。
 潜入と称して遊興していた嵯峨の記憶に残っている。昨日は「きっと何かしらの情報をつかんでいたから参考人として呼ばれたのだろう」と、そう片付けていたのだが――嵯峨たちが来るまで表立った行動を起こさなかった台北警察が、カクテルウェイトレスの一人を重要参考人として特定できていたのだろうか? むしろ、全員に対して事情聴取を行って然るべきではないのか? そうだ、あの警部だって言っていた。カジノの従業員も事情聴取に呼べと。
 だったら――
(なぜ、允花は呼ばれない?)
 まさか従業員のリストから外れていたわけはないだろうが――と、思考を巡らせる嵯峨の顔を当の允花が心配そうにのぞき込む。
「……どうしたの?」
 周防の懸念が当たっていたのだろうか。いや、そんなはずはない、允花には腹芸なんかできるわけがない。
「いや、なんでもない」
 考えすぎだ。きっと、允花は後回しにされているとか、カジノで働きだしたのが遅かったからリストから洩れていたとか、そういう事情に違いない。嵯峨はそう結論付ける。希望的観測が多分に交じったものだというのは十分に理解していたし、どうして自分がそこまで彼女をかばいだてしたがるのかも、薄々感づいていた。
 頭を振って、考えを戻す。嵯峨は心配そうな顔の允花に眉を下げて笑いかけた。
「とにかく、これは俺が好き勝手にやったんだから……いいんだ」
 そう、自己保身に過ぎない。数日ともに過ごした相手が路頭に迷ったなんてことになったら、こっちは寝ざめが悪くて仕方ないというものなのだから。
「張は頼りになる男だ。何不自由なく……ってわけにはいかないだろうけど、それなりの暮らしならできるはずだ」
 もしテレビ局での仕事が合わなかったとしても、少し我慢して金をためて、それから自分の好きなように生きたらいい。
 そう続けるつもりだったが、やめた。允花だってそのくらい理解しているだろうし、そもそも自分には彼女の人生に干渉する権利も義務もないのだから。
 允花は嵯峨の言葉を察したわけではないだろうが、大きく頷く。
「わかってる。薫さんがいなかったら、わたしは本当に路頭に迷ってた」
「だからもういいって」
 恩人扱いをやめろと言うわけではないがそう持ち上げられるのもどこか居心地が悪い。嵯峨が辟易した表情になると、允花は笑う。
「あの……落ち着いたら、日本に遊びに行ってもいい?」
 一瞬、言葉に詰まってしまう。
「――ああ、そんときゃ俺と周防とで案内するよ」
 そんな日がいつか来るのだろうか。当たり障りのない言葉を無理やり引き出して、嵯峨は允花を追い抜くように窓辺に近寄った。星のカケラをぶちまけたような眼下の光景が酷く目にいたい。振り払うようにカーテンを閉じる手つきがひどく荒々しいことは、彼自身がよくわかっていた。

§


允花……寝たのか?」
 風呂を済ませて戻ると、さっきまでソファーに座っていたはずの允花の姿がない。その代わりにベッドが彼女のかたちに盛り上がっている。
 最後の夜なのだから夜更かしでもなんでも、言い出されたことに付き合うつもりだった嵯峨は若干拍子抜けしつつ、まあ一日歩き回ったことだし疲れたのだろうと小さく笑う。その笑い声すら、静まり返った部屋の中では悪目立ちした。
 夜は更けていく。二人ともこのまま眠りにつけば、次に言葉を交わすのは朝の光の下だろう。白く清浄な光は、きっと後悔や未練すらきれいに洗い流してくれる気がした。
 味気ない終わり方かもしれないが、妙な心残りが生じることもなくてかえってよかった。そう、思うことにした。そのほうが、きっと誰にとっても最善だと思った。
 ソファーの背もたれにタオルを放り、嵯峨は允花に近寄る。
 三日目の夜も、允花はベッドの同じ場所で眠っている。嵯峨が窓側、允花のその逆というのは初日から変わらない。たった三日でも習慣というものは生まれてしまうものかと思うし、たった三日でこの少女の存在は自分の中で大きくなっている。
「……」
 長い髪を広げて眠る様は、まるでおとぎ話のお姫様のようだった。口づければ今にも目覚めて、その両腕で自分を目覚めさせた相手をかき抱くに違いない。
 けれど――その目を覚まさせるのは自分ではない。
 頬に触れようと伸ばした手を引っ込めて、嵯峨は首を横に振る。せめて、まともな大人のままで彼女の前から去りたかった。
「……おやすみ」
 ばかげた空想を鼻で笑い、部屋の明かりを消した嵯峨もまたベッドに身を滑り込ませる。眠っている允花を起こさぬよう静かに。
 時刻はまだ11時を回ったところだった。普段なら床に入ることもない時間帯だが、たまった疲れは睡眠で解消しておくべきだろう。風邪をひいた周防のことを思い出しながら、窓のほうを向いたまま嵯峨は目を閉じた。明日の夜には一人きりで自宅の布団に潜り込んでいるのかと思うと、なんだか信じられない気がした。

 しばらくそのまま眠る努力をしていたつもりだったが、どうにも寝付けない。允花は昨夜もすぐに寝てしまったし、寝つきがいいのだろう。うらやましく思っていると、背後で衣擦れのような音がした。
(寝がえりか)
 マットレスがかすかに傾いでいる。すぐに静かになるだろうと思っていたが、身じろぎしている気配がいつまでも途切れないし、音が近づいているような錯覚すら感じられる。何をしているのかと気になったが、振り返ってはいけない気がした。見てはいけないというよりは、彼女と同じ方向を向いてしまったら、きっと取り返しがつかなくなる、そういう確信があった。
 それに、半分くらいは予想していたことでもあった。
(――……)
 嵯峨の背中に允花が触れたとき、彼は一瞬瞼を震わせるだけだった。さほど驚きはしなかったのは予想が的中してしまったせいでもあるし、それがもたらした失望のせいもある。
 允花の手のひらが背中に触れている。今朝だって同じように触れられたけれど、今の彼女の手はそれよりもずっと、熱い。その熱は何よりも雄弁に少女の望みを訴えている。
 寝たふりをしようと思った。知らぬ顔をしたかった。望まれていることにも、その本心にも気づかない顔をしたまま彼女の前から去りたかった。
 けれどそんな欺瞞すら許されることはない。手のひらだけではなく、允花は額を摺り寄せるようにぴたりと嵯峨に寄り添っている。
 たまったものではない。肉体のやわらかさ、震えるような息遣い、全身の神経が背中に集中してしまう。理性は拒んでいるはずなのに、本能がそれに従わず、彼女を余さず味わいたがって感覚が研ぎ澄まされていく。
「――なんのつもりだ」
 もう、知らぬ顔などできなかった。嵯峨の瞼は閉じたままでも眉間には皺が刻まれている。なんのつもり、なんて尋ねてはみたものの聞くまでもない。苛立ちは允花の愚かさと、自分の動揺に向けられている。
「……抱いてください」
 震える声がそう告げる。怯えているのだろうか。いや、何の覚悟もできていないくせに、年齢不相応に背伸びしようと意地を張っているとしか思えない。
 嘆息するしかできなかった。いくら最後の夜だからって、こんな結末は望んじゃいない。
「だから、俺はお前にそういうことさせるためにしたんじゃ――」
「違うの! ……そうじゃ、ない」
 きっぱり否定するわりに、允花はその理由を言い淀んでいる。
「昨日は……確かにそういうつもりも、あったけど、でもちがうの。わたしが、わたしがそうしてほしいから、だって……」
 熱のこもった声が背中を湿らせているような気がした。どうにかして逃れたいのに、指の一本すら嵯峨には動かせない。

「だって、あなたが好きだから」

 泣いているようだと思った。もちろん、背中に熱い雫を感じているわけではない。感じられるのは、允花の震える声だけだ。
 その震えた声のまま、允花は続ける。
「好きなのに、でも、薫さんは明日、日本に帰っちゃう。わたしを置いて。……だから、もう会えないなら、思い出がほしい……」
「――……」

 何を言ったらいいのか、瞬時にはわからなかった。ただ、無性に腹が立って仕方がなかった。
 あまりに一方的すぎる。好意らしきものを押し付けて、その返事すら聞かずに自分の望んだことばかり叶えようと、いや、叶えてもらおうとするのはあまりにも子供じみたワガママだ。嵯峨の意志を確認するつもりすらなく、ただ黙って言うことを聞けと言わんばかりの態度は腹に据えかねる。
「ああそう。それで、俺の意志は無視ってことか?」
 嵯峨の声は冷たくとがっていた。誰よりも彼自身が、自分がそんな声を出していることに驚いていた。
「馬鹿にするな。お前、男なら無条件で女を抱けるとでも思ってるのか? 俺が、俺もそういう男だって言うのか?」
 暗い部屋の中に、感情を押し殺せない声が響く。
 これまで允花が嫌悪していた「女を金で買う男」と同列に見られたのが許せなかった。そして同時に悲しかった。あるいは、その怒りと悲しみは、例え自分が愛されていなくても、体だけでもつなぎとめようとする允花の浅はかさに対するものだったのかもしれない。
 そんな考えは正してやらなければならない。それが大人のやるべきことだ。今の自分のように激高することは全く適切ではない。理解しているのに、嵯峨の拳はシーツの上で硬く握られたまま震えている。これ以上口を開けば感情だけがこぼれていくとわかっているから、何を言うこともできない。
「わ――わたし、そんな、そんなつもりじゃなくて……」
 允花は怯えている。嵯峨は背中で、その声も手も震えているのをまざまざと感じ取っているのに、言葉は見つからなかった。
「ふざけるなよ。俺は――」
 俺は、なんなのだろう?
 言うべき言葉がどんな種類のものかはわかるのに、具体的なものが一つも浮かばない。そのくせに、頭の中に描かれるのは允花の顔、笑った顔も困ったような顔も、まるで洪水のように押し寄せては嵯峨の感情を洗い流していった。
 傷つけたくはなかった。汚したくもない。ただ彼女には、幸福な未来を広げていてやりたかっただけなのに。
「……無理だよ」
 どうしたらいいのかわからなかった。だから、一言で拒絶することにした。
 なぜ無理なのか、一つ一つ説明することすらできない気がした。
 お前のその気持ちは一時の気の迷いだとか、雰囲気に流されるように抱かれたところで後悔するだけだとか、言えたとしてもそれは自分自身の言葉ではないように思えた。
 どうしてそう感じるのか、きっと自身の感情に向き合ったのなら、すぐに答えは出るのだろう。
「無理だ、こんなこと、俺には……」
 こんな悲しいうわべだけの方法でつながっても、むなしいだけだ。自分も、彼女も。
 允花はしばらく黙っていたが、ややあって口を開く。
「薫さん……まだ、好きなんだね」
 誰を、なんて、言えなかった。敏い子だ、昨夜の話の真相なんてとうに気づいているのだろう。
 氷を当てられたような動揺と、鉛を飲み込んだような息苦しさのまま、嵯峨は一言も発しなかった。何も言わなかったのは、そうすることで生まれるだろう誤解が、いちばん穏やかにこの場を収めてくれると思ってのことだった。
 沈黙を肯定と受け止めた允花は、そっと背中から手を離す。
「そっか……ちょっと、うらやましいな……」
 はにかんで笑っているような声が少しだけ遠ざかる。
「薫さんにずっと好きでいてもらえるその人もだけど、ずっとその人のことを好きでいられる薫さんが、ちょっとうらやましい」
 振り返りそうになるのをとどめて、嵯峨は奥歯を噛みしめた。
 きれいなばかりじゃない。美しい感情だけで彩られているものでもない。恋焦がれるというのは、お前が考えているよりもずっと残酷で惨いものなのだ。
 そんなことは、言わなくてもわかっているのかもしれない。允花は美しいものだけを見ていたくて、「うらやましい」などと言ったに違いない。
 嵯峨が何も言えずにいる一方で、允花は深呼吸のように息を吐いた。
「なんだか、薫さんらしいや」
 笑い声が混じっていたが、無理やりそうしていることなど火を見るよりも明らかだった。
「まっすぐで、嘘つけなくて、そういう人でよかった……初めて好きになった人が、あなたでよかった」
 その言葉は何よりも清らかだった。だからこそ嵯峨の胸を深く抉る。まさにこの瞬間に允花に嘘をつき自分をだましているからこそ、罪の意識に押しつぶされそうになる。
 違うのだと言いたくても言えない。撤回など許されない。

 幾重にも重ねた嘘で、一体自分は何を守ろうとしているのだろう?
 
「変なこと言ってごめんなさい。今夜のことは、忘れてくれると、うれしいな」
 今度こそ涙に震える声で、表情だけは笑いながら、彼女は最初の定位置に戻っていった。
 嵯峨に背を向けて、閉じたはずの瞼から透明な涙を溢れさせているに違いない。見てもいないのにそんな光景を思い浮かべて、嵯峨は薄く瞼を開けた。眼前のカーテンは嵯峨がその手で閉めたときのままで、背後の様子が映る窓は覆い隠されている。

 これで、よかった。俺は大人として正しい選択をしたはずだと、嵯峨は言い聞かせた。
 変に気を持たせることほど残酷なことはない。きっと自分では彼女を幸福にすることはできない。仮に日本へ連れ帰ったとして、してやれることなど何一つとしてありはしない。
 だから、これでいい。誰にも知られないまま、この痛みはなかったことにしてしまう。それが彼なりの、大人として妥協した結論だった。
 声を殺して泣く気配が感じられたとしても、何を言うこともない。何をするでもない。
 馬鹿みたいだと思った。自分が、だ。傷ついたのは允花のはずなのに、何本もナイフを突き立てられたようにあちこちが痛む。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、一体これが理性と本能が相反している状態なのか、それとも感情という感情が入り乱れているだけなのかすらわからない。混乱しながらも、嵯峨は耐えた。今すぐ振り返って涙を拭ってやりたいのを懸命に耐えることしかできなかった。何もしなくても傷つくだけだが、勢いにまかせて行動したところで、どうせ何もかもを壊すだけしかできないのだから。
(耐えろ、やりすごせ)
 簡単なことだ。指の骨が浮き出るほど強くシーツを握りしめるだけで、時間と感情は過ぎ去っていく。
 そう、半年前と同じだ。大丈夫、一度経験したことだ。癒えない傷はないし、埋まらない心の穴なんてない。
 再び瞼を閉じる。一刻も早く眠りに落ちてしまいたかったのに、允花の涙声がそれを阻む。
「薫さん……明日、空港まで、見送りに行っても……いい?」
 この期に及んで何を言い出すかと身構えたのが申し訳なかったのか、それとももっと根本的な罪悪感のためか――
「……うん」
 拒むことはできなかった。
「ありがと……おやすみなさい」
 懸命に平静を装う允花の声を、いつまでも覚えていようと思った。それが罪滅ぼしにでもなると思っているのかもしれない。偽善だ、欺瞞だ、わかっている。でも、彼女の清らかさを、まぶしいまでの純真さを、自分だけはいつまでも覚えていたかったし――それがいつまでも失われずにいてほしいと願ったことだけは、偽りのない事実だった。

2020/9/14