台北恋奇譚

 警察があらかた引き上げると、カジノの中もようやく落ち着いてきた。とはいえかなり大がかりな突入があったのだから、あちこち壊れたり汚れたりして一流カジノと名高かった店内はもはや見る影もない。
「……どうしよう」
 嫌々ながらとはいえ働いてきた職場、たった一つの居場所がなくなったように思えて允花は途方に暮れる。
 自分はこれから、どうしたらいいのだろう。
 呆然と座り込んでいたのだが、横から伸びてきた手に二の腕を掴まれ立たされた。
「おい、大丈夫か?」
 その人物は嵯峨なのだが、腰まであった髪がない。サングラスも普通の眼鏡に変わっている。トレードマークになりかけていたゴールドスーツの上着は允花に貸しているので、今は黒いシャツしか目に入らない。
「……誰?」
 なので、允花は思わず眉をひそめながら誰何してしまう。嵯峨は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたが、すぐに苦笑しながら少女に顔を近づけた。
「俺の変装も捨てたもんじゃないな」
「あ……へ、変装?」
「そう。鬘にサングラスに。別人に見えるか?」
 そこまで言われてようやく気が付いた。台の上にはサングラスと鬘が無造作に投げ捨てられている。あっと声を上げそうになった允花は、とっさに口を押えてしまった。
「うそ……」
 別人もいいところだと思った。あの胡散臭さはどこへ行ったのか、目の前には知的でさわやかと言ってもいいような好青年が立っている。前髪を斜めに流して整えられた髪と、品のいい銀縁の眼鏡。シャツは黒のままだが、あのサングラスと長い鬘がないだけでまったく悪いイメージがない。目を丸くする允花に気をよくしたのか、嵯峨は自賛するようにうんうんと数度うなずく。
「だろ? 後で周防のヤツに言い聞かせとくか。俺だって――」
「あ――あなた、なんなの!?」
 胡散臭さこそなくなったものの、目の前の男が何者なのかはわからないままだ。允花は眉を寄せて警戒を強めながら問うが、嵯峨にとっては所詮相手は小娘、なのだろう。余裕ぶった態度を崩さず、ズボンのポケットから赤い煙草のボックスを取り出す。
「嵯峨薫。日本から来た検事だ」
「日本! ……検事?」
 一旦飛び上がるほど驚いた允花は考え込むように首をかしげた。
 ころころとよく表情が変わる娘だ。允花に苦笑しつつ紙巻の煙草に火をつけると、嵯峨はうまそうな顔で一口吸った。やはり吸い慣れた煙草が一番だ。一仕事終えた顔にはそんな感情が浮かんでいる。
「検事って、なに?」
「警察みたいなもんだよ」
 允花の顔からさっと血の気が引いた。
「わ、わたしも捕まるの……?」
 おびえるような目をされると中々居心地が悪い。嵯峨は灰皿に煙草をトンと当てて灰を落とし、やや真剣な目で彼女を見つめ返した。
「それは、俺をだましてたことを言ってるのか?」
「え……」
 気づいていたのかと困惑する允花に、さらに嵯峨は何かを言おうとして口を開きかける。
が、そのタイミングでカジノの入り口付近から嵯峨を呼ぶ声がした。周防だ。
「まあ話は後だ。とりあえずここ出ようぜ」
 嵯峨に伸べられた手を、允花は拒めなかった。

§

 数時間前。
『まずは俺が潜入する』
『またか? 取引が行われるのはわかっているのにわざわざ?』
 嵯峨の提案に周防は乗り気ではなかった。無理もない。情報を掴んだ以上、周防の言うとおり今後も潜入を行う必要などないのだ。
 しかし嵯峨は允花の事情を知ってしまった。明日自分がカジノへ行けば、イカサマに巻き込まれる。それはほぼ確実だし、最悪多額の損を被るかもしれない。
 でも、行かなければ? もしかしたら、允花はスケベ親父の毒牙にかかってしまうかもしれない。ただしそれは、確実な予定ではない。
 そもそも一言二言会話した程度の相手にそこまでしてやる義理もない。頭では理解していても、黙って見ているという選択肢は取れなかった。理由――しいて言うなら、同意を得ずに盗聴器を仕込んだ罪悪感が理由だろうか。
『……それでも内部に入ってるやつがいるほうが色々便利だろ』
 自分でも苦しい言い訳だとは思う。周防に正直に話せばいいのかもしれないが、潔白な彼がそんな話を聞いて冷静でいられるとも思えなかった。というか、さすがにコンビを組んで日が浅いのでお互いの考えは未だ手探り状態、何が原因でスイッチが入るかわかったものではない。
 と、悶々とあれこれに考えを巡らせているのだが、周防は知ってか知らずか、大方知らないからだろうが、金ピカのスーツ、というよりそれを着ている嵯峨を色眼鏡で見ている。
『しかしそのナリではそろそろ目をつけられていそうなものだが』
『つけられてるだろうなあ』
『……わかっているなら別の人間に頼むべきだろう』
 口調は厳しいがあれで気を揉んでいるのかもしれない。嵯峨は年下の相棒に苦笑する。
『平気だよ、多分。まぁとにかく、俺が中から合図したら突入の準備をしてくれ』
 ベッドの上に放り投げていた箱から一本抜き、火をつける。周防にも薦めたが、片手を上げるだけで辞退された。
『突入か……しかし、怪しくはないか?』
『何が?』
『日本から来た僕たち二人だけで調べたにすぎない上に確実性も高くはないと言うのに、こうも気前よく警官隊を動かしてくれるのはおかしくはないか?』
 そこは嵯峨も同意見だった。顎のあたりを撫でて思案していると、先に周防が口を開く。
『あまり考えたくはないが、はめられている可能性も――なんだその顔は』
『いや、てっきり綺麗ごとだけの甘ちゃんかと思ってたんだが、案外そういうことにも頭は回るんだな』
 評価したつもりだったが褒め言葉だとは受け取ってもらえなかったらしい。周防はしかめっ面になって大きく息を吐いた。
『……君は僕が最初から思っていた通りに、失礼で傍若無人な人間だな』
 嵯峨は嵯峨で、へへっと軽く笑って皮肉を受け流した。
『ああ、よく言われる。ついでに頑固だともな。
 とにかく俺は明日も潜入するし、合図をしたら突入の指示を頼む』
『もう何を言っても無駄なんだろうな。わかった。ただし無茶はするなよ』
『なんだ、心配してくれんのか?』
『……本当に失礼な奴だな。朴念仁は君のほうじゃないか』
 別にそこまで言ってはいないのだが。と、思うだけで口に出さず、嵯峨は周防が出て行くのをベッドから動かずに見送った。
 窓の外では、うっすらと空が白みはじめていた。

§

「無茶苦茶だ」
「でも上手くいったぜ」
「運がよかっただけだろう」
「運も実力のうちだ」
「また減らず口を……」
 ホテルの外、パトカーがひしめく中でぽかんとしている允花を他所に、嵯峨ともう一人の男が日本語で何かの言い合いをしている。言い合いというよりは、男――周防が叱責するのを嵯峨が面倒そうに聞き流しているだけだが。
「大体、彼女はなんなんだ」
 びしっと指差されて、はて自分でも何なのだろうと考えてしまう。性風俗店に行くよりは、と言う意味では自分で望んで働いていたのだから被害者だというほどおこがましくはないが、犯人一味といわれるのも困る。
「なんなんだって、……なんだろうなあ」
 言われてみれば、といった顔の嵯峨にがくっと肩を落とした周防は、ずれた眼鏡の位置を直しつつ再び口を開いた。
「わざわざ連れてきたからには理由があるんじゃないのか?」
「理由……ねえ……」
 嵯峨は允花をじっと見る。おびえたように一歩後ずさる彼女が逃亡するおそれありと思ったわけではないのだが、どうにも放っておけなくてここまで連れてきてしまった。ただ、それだけだ。
「事件に関係があるなら警察に引き渡すんだ」
「まぁ、参考人にはなるかもしれんが……」
 嵯峨は允花をじっと見つめる。允花はいやいやをするように首を横に振る。
「わ、わたしはただ、あいつらに言われて! やりたくてやったんじゃない!」
「なんだって?」
 中国語だったので周防には通じない抗議の言葉に、嵯峨は苦笑する。
「犯人が全員捕まってるんだから別にいいだろ。ほっとけよ。もし彼女が何か知ってるんなら、警察だって重要参考人を野放しにするほど無能でもねえだろ、う……し……ぶえっくしょい!」
嵯峨は豪快なくしゃみをした。允花は肩をすくめて驚いたが、すぐに「シャツ一枚では寒いのだろう」ということに気づく。
「これ、返します……」
「あ、そっか、忘れてた」
 允花は羽織っていた彼の上着を脱いで返した。ずっしりとした重みとともに、生地にしみついた煙草の香りが遠ざかる。肌寒いせいだけではない心もとなさに、允花は頼りない顔をしてしまった。それが寒さをこらえるように見えたのか、二の腕をさする彼女に嵯峨は困ったような顔をした。
「見てるだけで寒いな。俺は平気だから」
 苦笑してまた上着を允花に返すと、嵯峨は腕を組んで思案する。
「なんか着るもんないの?」
 允花は黙って首を横に振る。自宅のない允花が寝起きをしていたのはカジノの奥にある仮眠室だが、この状況では中に入ることもままならない。どのみち、私物だってほとんどないのだから入ったところで状況は同じだが。
 そう言うと、嵯峨はガシガシと自分の頭をかきはじめる。
「参ったなぁ。お前、どっか行くあてはあるのか? って、ないよなぁ」
「平気……どうにかするから」
 とはいえ身内も友人もいない。頼れる大人なんて心当たりもない。
 ぎゅっと握り締めた手のひらを開いてみる。そこに残る嵯峨の力強い手のひらの感触が、どうしても消えなかった。
 もし、もしも――いいや、だめだ。思い浮かんだ想像はかき消さなければならない。
 嵯峨は黙りこくった允花を見下ろしていたが、周防に促されてためらいながら踵を返す。
「行くの……?」
「ああ。……契約の詳細は知らねえけど、マフィア相手の借金なんてなまともに返すこたねえよ。お前さんはもう自由だ。よかったな」
「え、なんで……」
 だましていたことだけでなく、なぜ借金のことまで知っているのか。気になることはいくつもあるのに彼は行ってしまう。
「じゃあな。風邪ひくなよ」
 大きな手がひらひらと振られた。
 このまま別れたら、きっともう二度と会えない。気がついたら、思わず袖を掴んでしまっていた。
「待って!」
 でも、引き留めてどうすると言うのだろう。どうして、引き留めたいと思ったんだろう。
「どした?」
「あの、ありがとう……」
 言いたいのはこんなことじゃない。どうにかしてつなぎ留めなければならない。
「俺は、当然のことをしたまでだよ」
 嵯峨は外面のいい笑顔を浮かべている。允花は思い切って口を開いた。
「それから、その……」
「ん?」
「お嫁さん! お嫁さんにしてくれる約束!」
「――は?」
 そんな口約束とも言えないような言葉遊びを本気にされたのだろうか。あまりにまっすぐな目で見つめられるので、嵯峨はたじろいで目を泳がせた。
「いやいやいやいや、俺は承諾なんかしてないし、お前だって冗談で言っただけだろ?」
「本気にしたらどうするのって言ったよね? 」
 嵯峨は閉口した。真剣な顔に罪悪感を覚えないわけはない。
 もちろん允花だってそんな言葉を真っ向から信じるほど子供でも純真無垢でもない。ただ、目の前に突然現れたチャンスを逃したくなかった、その一心だった。
 見つめあう、というよりはにらみ合うこと数秒。先に口を開いたのは、眉間にしわを寄せた嵯峨だった。
「……仮に俺が本気だったとして、それが成立する条件は俺が莫大な賭け金を手に入れたら、だろ? 見ろよ、俺が金なんか持ってるように見えるか? な?」
 屁理屈だとはわかっているが一応筋は通っているはずだ。とでも言いたげな嵯峨の顔を、允花は悔しそうにしばらく睨んでいた。が、それが唐突に消えたかと思うと彼女は唇に笑みを浮かべる。嵯峨が身構える間もなく、允花はふっと息を吐いて背伸びした。
「わたし、あなたがカジノからお金持って行ったの見たよ」
「なっ!?」
 耳元で囁かれた言葉には飛び上がるほど驚いてしまった。あの大騒動の最中、逃げ出した客が置きっぱなしにした札束をこっそりくすねていたのを、よりにもよって目撃されていたらしい。
「あ――あれは、正当な勝ちに基づく配当金だろ」
 最後に揃ったストレートフラッシュを引き合いに出すと、允花は目を細めてにやりと笑う。
「イカサマしたのに?」
「……お前」
 ばれていたのかと、嵯峨は頭を抱えた。
 允花はカマをかけてみただけだったのだが、当たってしまって逆に驚いてしまった。というより、呆れた。刑事だか検事だか知らないが、そんなことをしていいのだろうか、と。しかしいい話を聞いた。このネタを使わないわけはない。
「ばれたら大変?」
「そ、そりゃ……」
 当然。イカサマ云々よりも横領のような行為のほうが問題だろう。
 国内最難関試験の一つと言われる司法試験をパスしても、検事は公務員の安月給。弁護士と比べれても待遇には雲泥の差があるし、いくら残業したところで手当てなんて期待もできない。せめてカジノで少しくらい儲けても罰は当たらないはずだ。
 そう、つい魔が差して、遊ぶ金欲しさの犯行で――などと馴染み深いフレーズを頭の中でつぶやいてみる。
 だって黙っておけば誰にもばれないだろうし、額だって家や車が買えるほど大したものではない。オフの時間に小金を稼いだことにすればなんの問題もないし、いいじゃないかこれくらい。いや、だめか。
 允花がしかるべきところに垂れ込みをすれば、嵯峨の立場はなくなる。
「そりゃあもう、懲戒免職――あ」
 失言だったと口を押えてももう遅い。允花はにっこりと笑い、嵯峨の腕にすがりついた。
「そっかぁ……じゃあわたしが誰かに喋ったりしないように監視してなきゃね、ずっと一緒に!」
「……はぁ!? ちょっ……いや、おかしいだろ。お前さんが口を割らなきゃいいだけで別に俺と一緒にいるかどうかっていうのはこの際――」
 この期に及んで見苦しい言い逃れをする嵯峨を見て、允花は中国語の押し問答を眺めるだけだった周防にいきなり日本語で呼びかけた。
「おまわりさぁん、この人ね」
「なんだ?」
いきなり水を向けられた周防は、たじろいだものの允花の言葉を聞こうとする。
「あのね、」
「待て待て待て待て! お前なんつーことを」
 周防に知れたらタダで済むはずがない。が、周防とて何と言っても警察官である。少女の意味深な言を見逃しはしなかった。
「君、日本語が話せるのか? 何か知っていそうだな? そいつが何かしたのか? したんだね?」
 なんで確定なんだ。嵯峨は唖然としてしまう。眼鏡の奥の目が鋭く光ると允花もさすがにたじろいでしまった。一歩後ずさりそうな允花を、しかし周防は逃さない。
「詳しく聞かせてもらえるかな?」
「ちょ、いや、何もしてねえって!」
 迫力に気圧されたのか嵯峨が焦ったように声を荒げる。その姿に、ますます怪しいと疑念をあらわにする周防は、嵯峨を指差してきっぱりと言い放った。
「僕は彼女に聞いているんだ。少し黙ってろ」
「お前それが年上に対する、」
「うるさい。それで?」
 ばっさり切り捨てられた嵯峨は閉口して肩をすくめるしかない。允花允花で、今更「日本語わかりません」などと言い逃れられる雰囲気でもないことはわかりきっていた。かと言って正直に打ち明けて嵯峨の立場をなくすことはできない。
 こういうときに悪知恵が働いてしまうのはわずか一か月とは言えマフィアの元で働いていたせいだろうか。とにかく、考えはまとまった。

 妻云々はさておき、この男たちを利用して日本へ行こう。物価も高く治安もいい日本なら、台湾とは比べ物にならないくらいのいい仕事があるに違いない。少なくともマフィアにタダ働きさせられることはないだろう。

 まったくもって少女の安易な考えに過ぎないのだが、允花は日本へ行けばすべて解決無問題くらいには信じきっている。そのために一番いいのは周防を味方にしてしまうことだ――と、彼らのやり取りを見て允花は判断した。悲しいかな、第三者にも察せられるパワーバランス。
 そこから先は、ためらいもなかった。
 允花は指先を口元に持っていってしなを作り、恥じらいを浮かべた目をそっと伏せる。
「わたし、この人に『結婚しよう』って言われたんです」
「おい! 言ってねえだろそんなこと!?」
 覚えのない――まったくないわけではないが、だいぶ脚色された――ことを言われて嵯峨は思わず絶叫してしまう。その大声に何事かと怪訝な顔をする現地警察も、日本語のやりとりには首をつっこもうとしないらしい。その代わり、周防が軽蔑の浮かんだ目で嵯峨をにらんでいた。
「……」
「おい周防! なんで信じるんだ!」
 允花は止まらない。よよと泣き崩れるような所作で嵯峨の腕にそっとすがり、愛し気な顔をした頬を寄せてくる。
「俺たちは出会う運命だった、やっと見つけたよって言ってくれて……わたしもわかったの、ああ、この人と巡り合うために、わたしはここにいたんだ……って……」
「おまっ……」
 なにそれ、どこの何ならそんな口説き文句が出てくるの? と、自分なら絶対に言わないだろうセリフが嵯峨から反論する気力を奪っていく。
「わたし、もう離れない」
「ええ……?」
 開いた口がふさがらないとはこのことか。よくもまあ悪びれもせずあることないこと言えたものだと感心すらしてしまった。
「嵯峨検事……」
 絶妙にネオンライトが反射して周防の眼鏡が光っている。感情の読めない顔から出た、初めて聞く「嵯峨検事」なる二人称に、当の嵯峨は怯えすら感じた。
「な、なんだよ……」
 くいくいと手招きされ、男二人は允花から少し離れたところで密談を始めた。
「本当に言ったのか」
「言ってねえよ! あいつの冗談にちょっと乗っかっただけ――……あ」
 しまった、と、口を押えるがもう遅い。嘘をつくのが下手どころか、嘘がつけない人間だというのは浅井の評だ。
「言ったんだな」
 ぐっと言葉に詰まってしまい、苦し紛れに言い訳を探してしまう。
「本気じゃないに決まってるだろ! だってあんな、なぁ? ……あ、そうだ、ほら! お前だってキャバクラの女にそういうこと言ったりするだろ? な?」
「そんなところには行かない」
 ぴしゃりと叩きつけられた言葉は、清廉潔白な周防らしい回答だと思った。いや俺だって行ったとしてもそんな冗談言わないけどね? と、嵯峨は口には出さずに言い訳する。
「あーなるほど……そういう……まぁそんな気はしたけど……」
 納得するように何度も頷く嵯峨に周防は長いため息を吐いた。完全に呆れられている。
「とにかく、彼女はお前のことを信じきっているじゃないか」
「はぁ? なんでお前はあれを信じるんだよ。大体あいつは、マフィアが牛耳ってたカジノで働いてたんだぜ? 言葉通りに受け取るほうがどうかしてる」
 周防のこの真面目さじゃ美人局にだってひっかかりそうだと思ったのだが、余計な不興を買いそうだったので黙っておく。
「ひどい言い草だな? いいか、真面目に聞け。あの子はまだ若い。年端も行かない女子を騙している自覚はないのか?」
「人聞きの悪いこと言うなよ、俺は騙してなんかいない」
「民法第九十三条。意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。説明するまでもないだろう、嵯峨検事?」
「ぐっ……ここは台湾だぞ。それに俺は意思表示してない、心裡留保が成り立つかよ」
 あのやりとりが厳密にどういうものだと判断されるのかは、争いの場でなければわからないだろう。プライベートでそんなところ(法廷)に赴きたくなどないが。大体、民事不介入は警察の十八番だろうが。と、ついでのように抗議しておく。
 そういう嵯峨の悪あがきを見苦しいとでも思っているのか、周防は眉を寄せて眼鏡の位置を戻した。
「まあ百歩譲って仮にそうだとしてだ、法的な問題はさておき、彼女が君の言葉を真に受けているのは疑いようのない事実だと思わないか? 大体、ああやって一途に慕ってくる相手を無下にできるほど君は血も涙もない男だとは思えないし、思いたくないがな」
 周防はどこか真剣な顔だった。彼なりに、嵯峨は無責任な男ではないと評しているのだろう。
「そりゃ……」
 允花が信じ切っているかどうかは、本当のところは嵯峨にだってわからない。マフィアの牛耳るカジノで働きイカサマの片棒を担いでいたからといって、その口から出てくるすべてが嘘だと断じるのは早計だし酷なものだ。だから、周防からそれを指摘されると苦しい。ついでに盗聴に利用してしまったのもまだ打ち明けていないし、大体、捜査のためとは言え盗聴していたなんて誰が聞いても気持ちのいいものではないだろう。心理的な負い目は嵯峨の方には山ほどあった。
 頭を抱えたくなって苦い顔をしていると、「結構」と周防が顔を上げる。
「だったら責任を取るんだな」
「は!? おま、まさ、まさかお前まで、け、結婚しろと!?」
 おもわずしどろもどろになった嵯峨の顔を、呆れた周防はさっと一瞥して嘆息する。
「言うわけないだろう。僕が言ってるのは、彼女をきちんと説得し、納得させた上で、台湾でまっとうな生活に戻ってもらえということだ」
 一言ずつ力強く区切られた言葉はまったく正しい。非の打ち所もない。綺麗事すぎて笑いすらこみ上げてきそうだった。もちろん一番の当事者なので笑っている場合でもなんでもないのだが。
「……なんでこんな、」
「できないなんて言わせないぞ。仮にも公僕の身でありながら青少年の健全育成に……」
「あーあー! わーかった! わかったから! やるよ、やりゃいいんだろ!」
 くどくどとした小言など聞きたくない。嵯峨はとうとう覚悟を決め、天を仰いだ。

2020/7/24 修正