台北恋奇譚

 明けて今日。嵯峨がカジノへ赴くと、見計らったように允花が近寄ってきた。予想はついていたもののげんなりするのは事実だし、自分が妙なことに巻き込まれるのも正直勘弁したい。まして今日は大捕り物まで控えているのだから。
晩上好こんばんは
 嵯峨の煩悶など知らず、彼女は両手を後ろに組んだ状態で軽く上半身を倒す。昨日と同じ様な胸元の空いたドレスを着てそんなことをすれば、影の深い谷間が強調されるのは当然で。大体見た感じではまだ二十歳そこそこだろうに、こんなことまで覚えさせられたのかと思うと断じて手放しでは喜べないのだが、嵯峨は作り笑いを浮かべて「ああ」と応えるにとどめた。
「お客さん、昨日はどうもありがとう」
「昨日?」
 とぼけてみせるが、允花は嵯峨の前で手のひらを広げてみせる。案の定そこには見覚えのある10ドルチップが握られていた。
「ああ、別に……」
 後ろめたさと気まずさで嵯峨は視線を落とした。それをどう勘違いしたのか、允花は嵯峨の腕を掴む。
「わたしね、お礼がしたいの」
「お礼?」
「うん。あ、変なことはだめよ?」
 だめよと言いつつ腕に柔らかい肉体を押し付けてくるのだから女というのは恐ろしい。
「しねえよ。で? お礼ってなに?」
 まぁここで自分がカモにならねば彼女はマーとの同衾を強要されかねないのだから、と、嵯峨は渋々自分を納得させることにした。
「うふふ。今日一日、ずぅっと一緒にいてあげる」
 全てのカジノがそうではないと思うが、ここのカジノはカクテルウェイトレスを――言葉は悪いが――はべらせておくことができる。法外に高い指名料のようなものからカジノへの手数料もあるので安くはない。それだけ支払っているのだから、部屋まで連れ込んで風俗店まがいのことまでさせる輩も少なくないと聞く。それが事実ならこのホテルは非合法の売買春を黙認しているということになるし、それだけでマフィアとの癒着だって信憑性が高くなるというものだ。
 嵯峨は目を細めた。狙いは外れてはいなかった。
「へえ……指名料まけてくれるってこと?」
「まさか! 全部タダ!」
 ヒュウ、と嵯峨は口笛を吹いた。一体自分からいくら巻き上げるつもりなのだろうかと思うとぞっとしない。
 今日はおそらく天道連と死海幇の取引があり、嵯峨の予想があたれば狙いに近い人物も現れるかもしれない。どうかすべてがうまくいきますように。借金背負ってタコ部屋だかマグロ漁船だか、なんてことは勘弁だ。
「じゃ、よろしく」
 作り笑いの嵯峨に、少女は何も知らない顔で笑う。夜は更け行き、カジノの中にも人影が溢れはじめるころだった。

§

 ポーカーの台に陣取った嵯峨と允花が茶番でしかないゲームに興じ始めて数十分。目の前には色とりどりのチップの山が瞬く間に築かれていった。
「すっごい、また勝ったね!」
「今のでいくらだ?」
「えーっと……オレンジの山が、じゅう、にじゅう……」
 千ドルチップの山を指折り数え、允花が答えた数字に嵯峨も驚くほかなかった。換金したならきっと、見たこともない札束の山が現れるだろう。
「はあ、こりゃちょっとしたマンションが買えるな」
「わあ、素敵!」
 咥えた葉巻を噛み潰しそうになった。こちらをだましておいてよくもまぁ言えるもんだ。
 客にわからない手段でディーラーやサクラの客にサインかなにかを示して彼を勝たせ、そうして気が大きくなったところで全額賭けさせて巻き上げるのが常套手段なのだろう。単純な手口だが、相手の心理状態の把握や仲間との連携は言うほど簡単ではない。今まで何人が犠牲になったことやら……と鼻白んでいる嵯峨の手に、允花が手を重ねてくる。
「ねえお客さん、結婚してる?」
「は?」
 脈絡もない問いかけに思わず振り返る。相変わらず少女とも女ともつかない顔は、何を考えているか読ませない。
「指輪してないし、独身かな?」
 しなやかな指が左手をゆっくりと撫でる。薬指の付け根を確かめるように何度か往復する動きは妙に淫靡なものをにおわせていた。
「――そうだよ。それが、どうしたの」
 投げやりにも受け取れる返事は動揺を悟られないためだったが、允花には彼の内心を含めて伝わっていないらしい。
「もしも、もしもね? あなたが次の勝負に勝ったら、それはもうすっごい金額になっちゃうと思うんだけど……」
「だけど?」
 そんなことにはならんだろう。と、嵯峨は鼻で笑う。允花の笑顔は営業用のまま崩れない――かと思ったが、一瞬だけその瞳が翳ったことを彼は見逃さなかった。ただし、それは瞬きをすれば見逃していたに違いないほどの一瞬だったので、追及することもできなかったが。
「もしそうなったら……わたしのこと、お嫁さんにして?」
 かわいらしく小首をかしげるのに合わせて、長い耳飾りが揺れた。それがピアスなのかイヤリングなのか嵯峨にはわからないが、この言葉が徹頭徹尾嘘でしかないことはわかる。
 腹が立った。この少女が自分をだまそうとしていることについてか、そんな浅はかな口約束に乗ってしまうほど愚かな男だと思われていることについてか、それとも彼女が自分をだましているのは本意ではないことを知っているから、彼女にそうさせたマフィアに腹が立っているのか。
 わからないまま、嵯峨は允花の腰を強く引き寄せた。
「きゃ!?」
 勢いのまま、允花は嵯峨の両足の上に尻もちをついてしまう。自然と抱きかかえられたまま見つめあうことになってしまったが、うろたえているのは允花だけだった。
「いいのか、そんなこと言って」
 嵯峨が何を考えているのかはわからない。サングラスの奥の目は見えず、口元は笑ってもいない。ただ腰を抱かれて、息がかかるほどに顔が近づいているだけ。こんな状況は普通ならおかしいと言われるだろうが、なにせここはカジノで、自分はそういうこともされかねないスタッフの一人だ。ねばついた視線を送る者はいても、咎めたり制止しようとする者はいるはずもなかった。
 嵯峨の手が允花の頬に触れる。手の甲でだけ軽く触れるそのやり方は、允花がこれまでに出会った誰よりも優しく、遠慮がちだった。
「な、なに……?」
 だから、余計に緊張する。無遠慮で、こちらを傷つけたって構わないとすら思っているだろう他の男とは全然違う。そんなふうに触れてくる男は允花の周りに一人だっていなかった。
 嵯峨は眉間に皺を寄せたまま口を開いた。
「そんなこと言って、俺が本気にしたらどうするんだ?」
 こんな真剣な声色で問い返されたら――それが叶わない幻だとわかっていても、いや、わかっているからこそ、委ねてしまいたくなる。でも、そんな未来が訪れないことは誰よりも允花自身が理解していた。
「わたし――」
 息苦しさに似た焦燥から逃れようとするよりも、二人の上に人影が覆いかぶさるほうが早かった。
「お楽しみ中、失礼」
 細い目の男が立っていた。背後には二人の男が控えている。付き人か護衛か、どちらにしろまとっている雰囲気はカタギのものではない。彼らの長袍から覗く色の悪い手からは硝煙のにおいがするような錯覚がした。
「云豹……」
 允花が怯えたようにこぼした名前に、嵯峨はサングラスの奥の目を細めた。天道連幹部直々のお出ましとは、どういうことだろうか。
「私も混ぜてもらおう」
 彼が片手を軽く上げると、テーブルの客は全員その場を去っていった。ある者は状況を理解していないような怪訝な顔で、ある者は云豹の正体を知っているのだろう、おびえた顔をして椅子から立ち上がる。
 がらんとしたテーブルをさっとスタッフが片付けると、云豹は嵯峨の正面に腰をおろし、脇に控えた部下らしき青年から葉巻の箱を受け取る。ゆっくりと時間をかけて火をつける間、誰一人として口を開くものはいなかった。
「随分強い御仁がいると聞いたもので。ひとつ、勝負を」
 さすがマフィア、有無を言わせぬ迫力。まずい状況だと言うのは容易に理解できた。それにしたって嵯峨から金を巻き上げるだけなら云豹ほどの人物が出てくる必要はないように思える。考えたくはないが、自分の身分がばれたのかもしれない。だとしたら、かなりまずい状況だ。
「嫌だと言ったら?」
「――言えるとでも?」
 片方の眉を上げてにやりと笑う云豹に、嵯峨は引き攣った笑みを返すほかない。
 勝負に負けて身ぐるみはがされて奥に連れて行かれるか、この場で痛めつけられて奥に連れて行かれるか。どっちにしろただではすまないだろう。
「いいぜ。ただし勝負は一回きりだ」
 云豹は少し驚いたように瞼を上げるが、すぐに嘲笑を口元に浮かべた。
「その言葉、忘れるなよ」

§

 台北翔華飯店――問題のカジノが入っているホテル――の裏手に、小奇麗なバンが停車している。ハザードも点滅していない白い車はかれこれ二時間ほどこの場にとどまっているのだが、人通りの少なさゆえに誰からも気に留められることもない。時折ホテルの従業員がゴミ捨て場まで往復するためにその前を通るのだが、スモークのかかった窓をあえて覗き込む者などいるはずもなかった。
「不味いことになったぞ」
 その中に詰めている数人の男のうち、周防克哉は盗聴器からの音声を聞きながら眉間に皺を寄せた。半分以上残っているマルボロを、山盛りの灰皿の中に突っ込むだけでもみ消しもしない。几帳面な彼がぞんざいな行動をするのは焦りのためだろう。
「貧乏くじもいいところだ」
 地検との合同捜査を開始してから、つまり嵯峨の暫定相棒になってから、苦労のしっぱなしで心休まる日もない。初日に街中を歩き回ったかと思えばいきなりカジノに潜入すると言い出すし、周防のことなど勝手にしろと言わんばかりの自己中心さ。チームワークという言葉を知らないのか。今だって周防は、嵯峨が身につけている盗聴マイクからの音声を拾って現地の警官に伝えている。残るならやれと嵯峨に押し付けられたのだ。
 当然カジノでのやりとりは中国語。日本語の達者な警官は周防にも内容を教えてくれるのだが、彼の顔色通り状況はあまりよくないらしい。よりにもよって天道連の幹部に目をつけられるとは何事か。呆れた顔の現地警官は軽口を叩く。
「日本の警察はずいぶんドラマチックな捜査をするんだな」
 一緒にするな。と声を荒げたくもなったが、ここでもめるわけにはいかない。
「……彼は警察じゃない、検察の人間だ」
 皮肉めいた言葉に屁理屈をこねると、警官は肩をすくめる。
 自分は止めたのだ、昨夜。潜入捜査に効果がないとは言わないが、もう少し情報を集めてからが普通じゃないのか。そう言うと、暫定相棒はにやりと笑い、「ちんたらしてたら獲物に逃げられるだろうがよ」とのたまう。彼は捜査を狩りか釣りかと履き違えているのではないか。
「まったく、頭が回るのは認めるが、他人にまでそれを強要するのはどうかと思うぞ……」
 一応周防は周防で市井に出でて情報を集めようと歩き回っていたのだが、大した情報を得ることはできなかった。そういう立場では強く物を言うこともできず、なおのこと腹立たしい。
 煙草を取り出そうとして、空だと気づく。むしゃくしゃした気持ちをぶつけるようにして空のボックスをつぶし、新しい箱を探すが何もない。あるのは現地のまずい煙草だけ。
「……」
 それでも、ないよりはマシだと封を切る。はやく日本に、警察署に戻りたいと思った。こんな不味い煙草を美味いと思い始める前に。

§

 わたしは、何も悪いことなんかしていない。
 嵯峨が腰掛けている椅子の背もたれをぐっと掴んだまま、允花はただ目の前で配られるカードを眺めていた。
 悪いことなんかしていない。借金をしたのは父で、その借金のカタに自分はマフィアに売り飛ばされた。ここで働いているのも天道連に無理矢理連れてこられたせいだ。この男から金を巻き上げるように指示をしたのは云豹だし、そうしなければ自分はあのスケベ親父の毒牙にかかっていたのだから。
 これは自分の身を守るための、そう、正当防衛というやつだ。
 だから、わたしは悪くない。允花は言い聞かせるように何度も繰り返す。なのに、胸が苦しい。
 ディーラーがカードを一枚ずつ配るのが、カウントダウンのようにも思えた。ここで働きだして、イカサマだらけの勝負の片棒を担がされて、手の内は大体わかるようになった。その事実は、自分が暗く汚いものに成り下がったように思わせるには十分すぎる。
 逃げ出したい。ここから、ここから逃げて、明るくて暖かい場所で生きたい。
 ずっと昔からそう思っていた。生まれ育った家もどん底のようなものだったから。だけど、何をすればこの現状から抜け出せるのかわからなかった。どこか遠くに逃げてしまうためには何をしたらいいのだろう。頼れるのは遠くに住んでいた優しい祖母だけだった。その彼女も、もうこの世にはいない。
 形見のブローチを握り締めて、允花は顔を伏せた。
 結局こうなってしまっては何の意味もなかったのかもしれない。いや、日本人の祖母のおかげで身に付いた語学の知識だけは助けてくれた。せいぜい売春宿に売り飛ばされるのが関の山だった小娘でも、時折カジノで重宝されるまでに引き上げてくれたのだから。
 それもいつまで続くかはわからないけど。
「……」
――わたしのこと、お嫁さんにして
 どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
 甘い言葉で調子に乗らせて、賭け金を巻き上げる。それが自分たちの常套手段だからだ。
――俺が本気にしたらどうするんだ?
 彼は、何を考えてあんなことを言ったのだろう。本気で勝つつもりなんだろうか。本気で、勝って、自分を妻として迎えようとでも思ったのだろうか。
 まさか。ありえない。
 あんな胡散臭い男、一度助けてくれたのは確かだけど、允花のお眼鏡にかなうとは言えない。髪は長いし服のセンスも変だし、ギャンブラーなのかそれとも他に生業があるのか知らないが、どちらにしてもまっとうな仕事をしているとは思えない。
 そもそも彼は勝てない。云豹が出てきた今となっては、允花がディーラーにサインを出す必要もない。そういうふうになっているのだ。
 ハートの6、クラブの4と2、スペードのエース、ダイヤの9。
 嵯峨の手元にあるのはそれだけ。わかってはいたがブタもいいところ、允花は落胆した。これでは勝ち目も何もない。そのくせ嵯峨は手持ちのチップを全部、賭けてしまった。「どうせ泡銭だ。一回で勝負といこうや」なんて、かっこつけているのか馬鹿なのかわからないことを言って。その額があれば允花は借金を払い終えて自由になれるだろうに。この男が何を考えているのかさっぱりわからない。
 心配そうな顔の允花に、振り返った嵯峨は苦笑した。一瞬彼の視線が背後の状況を確認するようにゆらいだ気がしたが、気のせいだろうか。
「そんな顔するな。ツキが逃げてく」
「……ばか」
 彼が言う「ツキ」なんて、仕組まれただけのものに過ぎない。
「ひでぇ言い草だな」
 なんでもないように笑う嵯峨を問い詰めてみたいと思った。どうしてそんなに余裕ぶっていられるのか。
「ま、俺は二日前からツいてはいたんだ」
「え?」
「持つべきものは友人だな。学生のころにこっちで知り合ったヤツと、偶然再会したんだよ」
 嵯峨が何を言っているのかわからなかったが、彼が上着のポケットの中で何かを操作したのは見て取れた。状況が状況なのでそ知らぬふりを通したが、云豹は苛立ったように彼らをねめつける。
「おい、何をこそこそ言っている」
 云豹は何か嫌な予感を覚えていた。
 ディーラーはこちらの指示通りに動いている。ブタが配られたのは確実だ。負けに決まっている。だというのに、目の前の男は余裕な態度を崩さない。逆にこちらが追い詰められているような気になってきた。
 キング三枚とクイーン二枚のフルハウスを伏せていた手に汗がにじむ。役がそろっているかどうかすら疑わしくなってきて、云豹はそれを返して確認しようとした。
「まあそう焦るなよ。もしかして――取引まで時間がないってのか?」
 嵯峨に声をかけられて、云豹の肩が震えた。何故知っている。鋭くなった云豹の目は、允花を向いていた。しゃべったのか? と。
「……?」
 しかし允花の困惑した顔が嘘を吐いているとは思えない。ではなぜ、この男は知っているのか。云豹の視線をのらりくらりとかわしながら、嵯峨は手元のカードを伏せて扇のように広げた。
「あたりか。なるほどね」
「……何を知っている」
「何も?」
「嘘を言うとためにならんぞ」
「おいおい、ほんとに俺は何も知らない。知ってたらわざわざ俺自らこんなとこにゃ来なかった」
 嵯峨は葉巻の箱の中から一本取り出すと、シガーカッターで先端をX字に切る。慣れてみれば葉巻も旨い。
「勝手な憶測さ。ちょっとしたツテがあってな、あんたら天道連がこのカジノに出入りどころか、ここを半ば私有化してるだろうことはすぐわかった。
 で、允花に絡んでた昨日のオヤジは死海幇の馬だな? あんな悪趣味な指輪を嵌めてるやつなんざ他にいるわけもねえ」
 周防が台北警察局から借りてきた現地マフィアに関する資料の中には馬春英の写真もあった。どうやらあの指輪は彼のお気に入りらしく、どの写真にも写りこんでいる。
 彼が葉巻にじっくりと火をつける間、誰も口を開かなかった。他のテーブルは大盛況らしく、歓声と落胆の声がひっきりなしに耳に届く。
 云豹は立ち上る紫煙を視界の端で追った。
「それが、なんだと言う」
「新興マフィアの天道連にとっちゃ、長いこと台北を根城にしてる死海幇は目の敵だ。にも拘わらず取引の場を設けたのには理由がある」
 テーブルに肘をついて身を乗り出す嵯峨は、口元だけに笑みを浮かべていた。
「……と、俺は踏んでる」
 真剣な目つきに気圧されそうな云豹は、それでも態度を崩そうとしない。相手の正体がわからない以上、荒っぽい手段に出ることもできない。
 それというのも、取引は今この瞬間に行われているからだ。念のためにとわざわざ幹部の自分が囮を引き受けているのだ、失敗など許されなかった。
 緊迫した雰囲気がテーブルの上に満ちたが、嵯峨はわざとのように明るい声でそれを乱した。
「なあ、これ全部賭けるし、俺が勝っても取り分は十分の一でかまわねえからよ、ドローは山の中から『俺が』選んでいいか?」
「は? ええ、あの……」
 ディーラーは、天道連幹部の云豹がやって来るわ、カモのはずの客が何やら不穏な話を始めるわで動揺しきっていたのだが、ここにきて当人が滅茶苦茶な要望を口にするのでとうとう冷静さを失ってしまった。
 おろおろとするしかないディーラーは、伺いを立てるように云豹の方を向く。それは彼がイカサマを指示されていたことの、ゆるぎない証拠だった。
 云豹は舌打ちする。すっかり相手のペースに呑まれてしまったではないか。
「好きにさせろ。――その代り、ご高説を伺おうか?」
 嵯峨はにんまりと笑う。
「喜んで。……最近街はこんな話でもちきりだ。いがみあってた天道連と死海幇がめっきりやり合わなくなった、ってな」
 周防が――主に語学的な意味で――苦労して掴んだ話だった。以前は特に血の気の多い若い者同士の小競り合いが絶えなかったのだが、最近はずいぶん静かになったという話は市内の至る所で聞くことができた。単に和解した、という単純な話ではない。そもそも血の気の多い天道連の若者たちの姿がどうやら減ってきているらしい。
「どうやら天道連は若い連中を日本に送り込んでるらしい。何してんだろうなぁ?」
 これは警察局の刑事の弁だった。入管にも確認を取ったところ、ほぼ確実だという。
「……」
 云豹の視線を物ともせず、嵯峨は手元のカードを四枚捨て、すでに美しい弧を描くように広げられていたスプレッドから一枚のカードを引いた。
「ま、日本で何をやってるのか、何をするつもりなのかは知らん。どうせろくでもねえことだろうが調べれば……調べなくても予想はつくな。
 台北、いや台湾は死海幇を筆頭に『由緒正しい』マフィアの巣窟だ。パイはすでに分配されてる。おまえらが海の向こうに権益を求めたっておかしくはない。違法薬物か武器か女子供の人身売買か、それとも臓器……なんにせよ非合法な取引で金を生み出す魂胆だろう。
 で、その金の一部を上納する……日本への進出を手助けした日本の『誰か』にな」
 二枚目、三枚目のカードを引き、伏せたまま手元に揃えていく。何の考えもなしに無作為で引いているようにしか見えないが、妙に自信に満ちているようにも思えた。
「ともかく天道連は今までにないような利益を生み出している。その金で今夜死海幇と取引するんだろうな。買うのは麻薬か銃火器か? それも日本で売りさばくんだろう? これまでにないくらい大きな取引だ。大金を動かせるとなれば、これまでただの若造の集まりと踏んでいた死海幇からの目も変わる。結果台湾での立場も強くなって天道連としては一石二鳥の結末だ。ま、もっとも死海幇も最近はジリ貧なのかもしれんな。馬春英は金を見せたら喜んで飛びつくようだし。今回の取引もあいつらにとっちゃ渡りに船だったんだろう。たとえそれが、泥船でもな」
 四枚目。最後のカードを引いた嵯峨は、その場に伏せられていたカードを端から一枚ずつ表に返していく。もともと手元に残していたのはスペードのAだけだ。新たに引いた四枚のうち、一枚目はスペードの10だった。
「これが俺の仮説だ。まったくけしからん話だぜ。その『誰か』は、自分の目先の利益のために誰がどれだけ犠牲になろうとかまやしねえってことだからな。同じ公――人間として反吐が出る」
 二枚目は、スペードのジャック。
 云豹は乾いた唇を戦慄かせ、搾り出すように声を出した。
「証拠は?」
「ない」
 三枚目は、またもスペードのクイーン。
 允花はまさかと息を呑んだ。向かいで同じようにうろたえている云豹の目には何の余裕もない。
「証拠はない。ただの推測だ。しかしもう少し当て推量を言わせてもらうと、これは俺と相棒のたった二人だけで掴んだ情報だ。……何が言いたいかわかるか? たかが二人の捜査すら、黒幕には妨害されなかった。お前たちは――」
 もしも残りの一枚がスペードのキングだったら。
「替えなんていくらでもいる、捨て駒にすぎないんだよ」
 嵯峨が最後の一枚を表に返そうとした瞬間、カジノ入口が騒然としはじめる。云豹は腰を上げて様子をうかがおうとするが、煙草の煙やらなにやらで霞んだ視界ゆえ状況は判然としない。
「何事だ!?」
「おお、来たな」
 一方の嵯峨はまるで何が起こるかはじめからわかりきっていたような態度だった。これまでの話だって全て呑みこめたわけではない允花は、右往左往することもできずただ立ち尽くすだけ。入口のほうはなおのことひどい騒ぎになっているようで、怒号と絶叫が次から次に飛んでくる。
「ちょっと、困ります! そういう、」
「関係ないやつは引っ込んでいろ!」
「警察!?」
 カジノスタッフが制止する声、警察らしき男たちが押し寄せる地響きのような音、混乱する客の悲鳴、そして――
「カメラ回せ! 馬鹿、こっちだ!」
「決定的瞬間です、台北警察局がマフィア同士の取引の現場に突入しました!」
 おまけにテレビカメラを抱えたマスコミらしき一団が後に続いてくる。呆けていた客たちは、よほど後ろめたいことがあるのかパニック状態になりながらカメラから逃げ惑う。結果としてカジノは大混乱、カジノの奥にはVIP用の個室があるらしく、取引を終えてそこから出てきたと思しき馬春英はわけもわからぬままにお縄を頂戴したようだった。押収されたトランクがその場で開けられ、目もくらむほどの札束が零れ落ちるのが見える。
クソ!」
 もはやこれまでとばかりに、云豹は椅子を蹴倒すようにして逃走を試みた。
「おっと、逃げるな!」
「がっ!?」
 しかしとっさに嵯峨が投げたガラスの灰皿が背中に命中し、もんどりうって転んでしまう。「大哥!」と部下たちが助け起こそうとするのだが時すでに遅く、なだれ込んできた警官の群れに天道連の一味はなす術もなく逮捕された。云豹はぐったりとして動かない体を両脇から警官に抱えられ、連行されていく。容疑は非合法の売春あっせんと未成年者略取、それから余罪がもろもろ五つほど読み上げられていたが、枝葉末節を気にする者などもうどこにもいなかった。
「ちょっと荒っぽいが、まぁ一件落着だな」
 警官たちに引っ張られていくマフィアたちを淡々と見つめる嵯峨と対照に、允花は目の前で繰り広げられる大捕り物が到底現実とは思えずにぽかんと口を開けて突っ立っているしかできなかった。しかし頭のどこかで、云豹が逮捕された、つまり、自分はもう自由なのだと理解し始める。すると体中から力が抜けるようにその場にへたり込んでしまい、しばし呆然と薄汚れた大理石の床を見つめていることしかなかった。その小さな肩に、嵯峨が上着を脱いでかけてくれたのにも気づかない。
 嵯峨は最後の一枚のカードを表に返す。
 にやりと笑う彼がみつめるのは、ジョーカーのカードだった。

2020/7/20 修正