台北恋奇譚

 嵯峨と周防は宿を別のホテルへ移すこととなった。警察が多数突入し、今後数日捜査が行われるホテルに好んで連泊する人間はいない。どのみちホテル側も営業停止の仮処分を受けた以上は望んだとしても宿泊することはかなわなかった。頭を下げて客を見送り青い顔で震えていたスタッフたちには、同情してもいいかもしれない。
 嵯峨も周防も翌朝も引き続き事件の後処理が控えているものだからここに泊まれればよかったのだが、営業停止となればそうもいかない。そういう理由で渋々引き上げた二人(と、それについてくる允花)だったが、深夜の宿探しをする羽目になったのは嵯峨たちだけではなかった。宿泊客の誰もが台北市内のホテルというホテルに殺到したものだから、結果として市街地では深夜まで軽いパニックが続いたのも当然と言っていいだろう。
 まず三人は台北翔華飯店から最も近いホテルに赴いたが、あいにく残り一つの空き部屋はシングル。嵯峨はここに允花を押し込んでトンズラしようとすら考えていたが、少なくとも允花には見破られていたらしい。
「お前さん、ここにしろよ、な?」
 真っ先に允花に部屋を勧めフロントで愛想笑いを浮かべる嵯峨を、彼女はにこりともせずじっとりと睨んだ。
「……わたしをここに置いていくつもりでしょう?」
「え? いや、そんな、何言ってるんだよ、はっはっは……」
 乾いた笑いを浮かべる嵯峨をよそに、周防はつらつらと私見を述べ始める。
「うーん。女性一人で泊まるのはあまり感心しないな。せめて僕たちのどちらかと隣同士の部屋がいい。嵯峨検事、この件に関しては君が責任を取ると言ったな?
 というわけで僕がここに泊まる。いいね?」
「はぁい、おやすみなさい」
 さっくりと話を進めていく周防の背中にかける言葉もない。一方允花は何が楽しいのか満面の笑みを浮かべていた。
「……きったねえ」
 お前が允花の隣の部屋で、俺がここでもいいじゃないか。と、言いたくなったが、「お前が撒いた種だろう」と一蹴されるのが目に見えていたので、嵯峨は結局黙って引き下がる。最年長の威厳もへったくれもないのが情けない。

 二番目に近かったのは、台北翔華飯店に負けず劣らずの一流ホテルだった。こちらも宿泊客が殺到したせいで軽いパニックが起こっている。フロント前で形成された列の先頭では、嵯峨と允花が口論していた。
「だから、一緒の部屋なんか無理だって言ってるだろ。俺とお前は別の部屋だ」
「やだ。一緒がいい」
「わがままなヤツだな……。別に置き去りにしねえって、な?」
「一緒じゃなきゃいや。大体、他にも困ってる人はいるんだから二部屋も取るのは非合理的。わたしたちが一部屋で済ませたら、もっとたくさんの人が泊まれるでしょ?」
 正論。ぐうの音も出ない。しかしそれは親密な間柄が前提であって、少なくとも嫁入り前の女がほぼ初対面の男と相部屋など社会通念上好ましくないに決まっている。
「けどな、」
 なおも説得を試みようとする嵯峨を遮る者があった。
「お客様、このフロアのこのお部屋などいかがでしょうか? スタンダートルームより、お部屋もベッドも広い作りになっておりますよ?」
 にこやかなフロントの女性からは、妙なプレッシャーを感じる。痴話喧嘩してないでさっさと決めろと言いたいのだろう。提示されたのはワンランク上のフロアの、キングサイズのベッドひとつきりの部屋。確かに狭いベッドよりはいいが……、と、嵯峨は渋面を作ってやんわりと抗議した。
「……せめてツインはねえの?」
「申し訳ございません」
「予備のベッドは?」
「こういう状況ですので出払っておりまして」
 きっちりと後頭部に向けて撫でつけられた髪と同様、にっこりとした表情を崩さない彼女にも、頑として意見を曲げない允花にももうこれ以上何を言っても無駄だった。そうこうしているうちに後ろに並んだ客が苛立ったような咳払いをする。嵯峨が折れざるを得ない状況だった。
 そういうわけで、結局二人は同じ部屋に寝泊りすることとなる。

§

「ごめんなさい!」
 允花は部屋に入るなり、体を二つ折りにして謝罪した。
「はっ?」
 虚をつかれたと言うべきか、呆気にとられたと言うべきか。嵯峨は眉を上げて間の抜けた声を返す。允花はしばらく頭を下げたままだったが、おそるおそる嵯峨の顔をうかがうように体をもとに戻した。
 その顔は先ほどまでのしたたかな女の表情から一転し、迷子のような頼りない子供それになっていた。
「変なこと言って、ごめんなさい。自分でもわかってる、バカだって。お嫁さんになりたいとか、そういうのは本気じゃないから……言わなくても、わかってると思うけど……。
 でもわたし、本当に日本に行きたいの、それだけなの!」
「え、いや、おい……」
「どうにかしてパスポートも用意するから! その後のことだって、自分でなんとかするから!」
 捲し立てるような言に口をはさむ余裕もない。なんでそうまでして日本に行きたいのか聞いてみたくもあったが、聞ける雰囲気ではない。嵯峨が返答に困っていると、允花は彼の二の腕を掴んでさらに詰め寄る。
「お願い、迷惑かけないから、あなたが困るようなことはもう言わないから! ……だから、お願い……追い出さないで……」
 允花が声を震わせると、耳飾りからぶら下がった飾りがしゃらしゃらと軽い音を奏でた。橙色をした部屋の照明が、金色に乱反射して眩しい。けれど、嵯峨が目を逸らしたのは眩しさのためだけではない。
 年下の女という、嵯峨にとって無条件で「守らなければならない」存在が、何もかも自分のせいだと頭を下げている。それをそのまま受け取って、「そうだお前のせいだ」となじるのは、嵯峨には到底できやしない。
 諦めたようにため息を吐くと、嵯峨は肩を落として笑った。
「……こうなっちまったのはもうしょうがねえよ。それに……」
「それに?」
「謝らなきゃいけねえのは俺のほうが先だ。昨日、お前さんの……ああ、ここに、」
 ここ、と指したのは胸元だ。
「チップ入れただろ?」
「うん」
「あれな、盗聴器だったんだよ」
「とう……盗聴器?」
 驚き以外の感情は、瞬きを繰り返す允花の顔にも声にも見つけられなかった。だからと言って、許されているわけではない。
「ああ。捜査のためとは言え、あそこまですることはなかったって、今になっては思うよ。盗み聞きされてたなんて聞いて、嫌な思いしただろ。言わなきゃよかったのかもしれねえけど、黙っとくのは性に合わなくてな……ごめんな。本当に、申し訳ない」
 今度は嵯峨が頭を下げる。ひっぱたかれても文句は言えまいと思っていたものの、かけられた言葉は予想外のものだった。
「――そんなこと、言わないで」
 頭を上げると允花がゆっくりと首を横に振っている。その表情は穏やかなものだった。
「謝らないで。あなたのおかげだもの。わたしを助けてくれたのは、あなただもの」
 薄暗い洞窟から、日の差す外へと連れ出してくれたのは嵯峨だ。允花はそう信じて疑わない。
「だから、ありがとう。嫌だなんて思ってないよ」
「お前……」
 お人よしなのか馬鹿なのかそれともどちらもが当てはまるのか。允花はそのうち騙されて身ぐるみ剥がれるのではないかと心配してしまう。もしくは、この性格のために天道連にとっ捕まっていたのか。
「ねえ、薫さんって読んでもいい?」
 笑顔を浮かべる彼女に、少したじろいでしまった。
 そもそも名前のほうで呼ばれることが少ないのだが、それに「さん」までつけられると背中のあたりがむずがゆい。
「……まあ、いいけど」
 でも、悪い気はしない。この部屋も悪くない。広くて静かで落ち着いていて、何より一部屋だけ残っていた喫煙ルームだ。あとは酒があれば言うことなし、なのだが、贅沢は言っていられない。
 ともあれ、なりゆきとは言え同室する允花もおつりがくるほどかわいらしい。にっこり笑えば花がほころんだようで、部屋全体の雰囲気も華やぐように思える。まぁ手を出すつもりは毛頭ないが、変な状況にならないよう祈らざるをえないくらいには魅力的だ。つられて笑みを浮かべそうになった嵯峨だが、そのあとに飛び出してきた言葉には顎が外れるほど驚いてしまった。
「わたし、允花。十七歳!」
「はぁ!? 十七ぁ!?」
 飲み物を含んでいたら噴出していただろうし、煙草を吸っていればむせていただろう。そのくらい、驚いた。允花のほうも嵯峨のリアクションに目を丸くしている。
「え? う、うん……あっ、でももうすぐ十八! 大人だよ!」
 確かに台湾では十八で成人扱いだ。それは事実なのだが……。
「……なに? どうしたの?」
 それが何か問題でもあるのかと言いたげだが、嵯峨としてはなぜそれが問題だと思えないのか逆に問いただしたいくらいだった。
「お前その歳で借金こさえてマフィアのお仲間になったのか?」
「ち、ちがっ! 借金はわたしのじゃない!」
「はぁ? じゃ、なんだ、男か? ヒモにでも貢いでいたのか?」
「ちっがう!!」
 顔を真っ赤にして反論する允花が大声をあげるが、しっかりと防音のされたグレードの高い部屋ならばどこにも迷惑はかからないだろう。
 嵯峨は寝不足の頭でゆっくり考える。ではこの少女の借金はどこから来たのか?
 允花は、値踏みするような彼の視線からさっと顔を逸らしてぼそぼそと答える。
「……親よ。父が借金して、わたしを売ったの」
「――そりゃ、」
 気まずさと驚きでいっぱいだった。まさか戦前の寒村じゃあるまいし、身売りなんて――いや、嵯峨が知らないだけなのだろう。これまで彼は経済大国日本で何の不自由もなく生きてきた。五体満足で、明日の生活にも不安など抱いたことはないし、家族にも友人にも恵まれ、エリートコースと言われるような人生を歩んできた嵯峨の目に映らなかっただけだ。
 居心地悪そうな允花の襟足が、少しほつれている。綺麗に結い上げられた髪も、騒動のためか少し崩れ気味だった。
「その、……すまん、嫌なこと聞いたな。悪かった」
「……ううん。平気」
 さびしそうに笑うその表情がすべてを物語っていた。自分の無力感と、現状を受け入れるほかないという諦めを、允花は多分誰よりも知っている。たった十七なのにこんな顔をしている允花を見ていると、同情よりもやるせなさのほうがこみ上げた。
 允花はふと不思議そうな顔になる。
「でも、どうして借金のことまで知って――あ、盗聴?」
「ああ。お前と云豹の会話をな、聞いたんだ」
「そう……」
 どの会話かはすぐに特定できた。ということは、自分が本来どこに連れて行かれる予定だったかも彼は知っているのだろう。あのカジノでカクテルウェイトレスとして働いてはいたが、体は清いままだ。そう訴えたかったが、やめた。そんなことは嵯峨だって興味もないだろう。
 嵯峨はカウチソファに腰を下ろし、その斜め前に向かい合うように置かれた小さな一人がけのソファを允花に勧めた。そこに座ろうとした允花はふと疑問に思う。
「……ってことは、今日騙されるってことも知ってたの?」
「あ? ああ、知ってたよ」
 それがどうかしたのかと平然と答える嵯峨に、今度は允花が呆れた。
「なのに来たの? 信じられない……」
 だって来ないとお前はスケベ親父に食われたかもしれねえじゃん。と言うのは恩着せがましいようで憚られる。ぐっと言葉を飲み込んで、嵯峨はしかめっ面になった。
「来ねえと捜査にならねえだろ?」
「そうかもしれないけど……あ、捜査って何? どうして日本の人が台湾で捜査するの?」
 たとえ日本で殺人を犯そうが、国外逃亡した犯人の逮捕権限は逃亡先の国の警察組織にしかない。そのあたりの知識は允花も備えているのだろう。少女の純粋な疑問に、嵯峨はざっくりとした説明で答えた。
「天道連と日本の政治家が組んで悪いことしようとしてたからな。俺と周防はその捜査に来たんだ」
 允花は華奢な肩をすくめた。
「なんかぜんぜんわからない。もーちょっと、詳しく話して?」
「えー……?」
 露骨に嫌そうな顔をするのは、一つに疲れがあったのと、もう一つ、允花が本当にマフィアと無関係なのか確信が持てなかったのがある。とはいえすでに明らかになっている情報を彼女に渡したところで何の害もないだろう。
「ねえお願い! いいでしょ? わたしだって一応当事者なんだもん」
 言いながら、テーブルの上の灰皿を嵯峨のほうへ押しやる。もう何度目かもわからないが、嵯峨は呆れた。
 飲み屋の姉ちゃんじゃあるまいし。

§

 概説を済ませると、允花はやっと事態が飲み込めてすっきりしたような顔をし始める。嵯峨の懸念は杞憂に終わりそうだった。允花はどうやら、単に純粋な好奇心で嵯峨の話を聞きたいらしい。
「じゃああの、突入してきたテレビ局の社長さんは、薫さんのお友達なの?」
「そうだよ」
 さらに興味津々で事件のことを尋ねる允花の顔はそれよりも幼く見えるが、体つきはそうは思えない。未成年のくせにけしからんほどグラマラス。カジノで密着されていたときはさすがに20は越していると思っていたのだが、年齢を知ってしまうとやたら気になってしまう。あんな体つきしておいて肌の色は赤ん坊のようなきめの細かいミルク色で、近くによるとベビーパウダーのような香りすら感じられる。子供かよ。ああ、子供だったっけ。本当に?
 ぐるぐると頭の中で渦を巻く考えと欲に思考を持って行かれそうになる。
 要するに、一番危うい年頃の肉体が目の前にあって、困っているし参っているのだ。おまけに着ているチャイナ服は体のラインをはっきりと見せつけてくるし、何より胸元は大きくくり抜かれて開いている。今更、盗聴器を仕込んだ時に触れたふわっとした感触を思い出してしまった。
 いかん。落ち着け。
 意図的に視界に入れないように、変な気を起こさないようにいつもよりも饒舌になってしまった嵯峨はべらべらとあれこれを口から滑らせた。
「規制緩和で数年前にできたばっかりの局だからなあ、一発デカいネタを取り上げたがってたところにこの事件だよ。大きくて歴史のある局は内部に構成員が入り込んでいるか、上の連中同士付き合いがあったりして手を出せなかったりするからな、こちらとしても好都合だったんだ」
 喋りはじめると気がまぎれる。人知れずほっとしながら、嵯峨は二日前の光景を思い返した。

§

 彼と再会したのは本当に偶然だった。
 潜入二日目の夜のこと。カジノのよどんだ空気にあてられた嵯峨はホテルを出て屋台街をうろついていた。夜の街ではさすがにサングラスではなく眼鏡にしなければ視界が悪い。赤い提灯がいくつも下がるエキゾチックな光景は、いっそ異様な風体の男も受け入れてくれるようだった。
 小腹もすいていたことだしと立ち飲み屋で一杯ひっかけていると、雑踏の中に懐かしい顔がある。目が合って数秒、お互い記憶をさぐるような表情をしていたのだが、ほぼ同じタイミングで互いの名を呼び、笑い出してしまった。
『しかしお前だとは思わなかった。なんだよその格好? どこで売ってんだ?』
『これか? いろいろ訳アリでなあ。欲しいっつったってやんねぇぞ』
『いらねえよ』
 立ち飲み屋から居酒屋へ場所を移し、二人は旧交を温める。彼は嵯峨と同じ大学に留学していた友人で、学部こそ違えど雀荘で知り合って以来親しく付き合っていた仲だ。台湾出身で、卒業後はこちらに戻って起業したらしい。
『すごいな、俺は宮仕えだってのに』
『言うほどじゃない。創業三年、従業員も少ない、そのくせ毎月カツカツだ』
 言葉通り、安い紙巻きの煙草をギリギリまで吸う友人は昔と変わらない。
『金がねえのを楽しそうに言うたあ、お前の部下は不憫だな』
『俺もそう思うぜ。ところで薫、どこに泊まってるんだ?』
『台北翔華飯店だ』
 嵯峨がホテルの名を告げると、友人は険しい顔になった。
『なんだよ、悪くはないホテルだと思うけどな』
『ああいや、なんでもない。あそこは言うとおり、いいホテルだよ。入ってるレストランのメシは旨いしな』
 はぐらかすような態度に、嵯峨はなにか引っかかるものを感じ取った。それも、あまりよくないもの。目を細めて友人の顔を覗き込み、嵯峨はすごむような笑みを浮かべた。
『おい、ごまかすのはナシだぜ? 何か知ってるんだろう』
『……お前、あのときからさらに勘が鋭くなったな?』
 両手を上げて降参のポーズをとる友人を、嵯峨は軽く受け流す。
『そうか? で?』
 何を知ってるんだと促すと、彼は声を潜めた。隣のテーブルのグラスを片付けていた若い男の店員は、何かを感じたのかさっと奥へと引っ込んでいった。
『オフレコだぞ。あそこ、支配人が売買春のあっせんをしてるって話だ』
『……へえ?』
 高梁酒のグラスを傾けながら、しかし嵯峨の脳は奇妙に冴えていた。
『その手の連中の間じゃ有名でな、令状が出てもおかしくないらしいのに、気配すらない。どうやらマフィアが一枚噛んでるんだと。警察の一部とも懇ろだって話もちらほら耳にする。ま、記者クラブで最近そんな話があってな、このタイミングで名前を聞くとは――』
『――どこのマフィアだ?』
 先ほどまで笑みすら浮かべていた嵯峨がいきなり真剣な顔をしたためだろう。友人は傾けようとしていたグラスを止めた。
『は? いや、それははっきりしてねえけどな、出入りがあるのは死海幇、次が天道連って聞くが、まあどっちかだろう。……おい、しゃべるなよ?』
『もちろんだ』
『……で、お前こそここで何しようとしてるんだ?』
 今度はこっちの番だと言いたげな好奇心に満ちた目を向けられ、嵯峨は苦笑した。苦笑しながらも、色々な思惑と打算が頭の中を即座に駆け巡っていく。
 人脈だろうがコネだろうが使えるものは何でも使う。明らかに何かを企んでいる笑みで嵯峨は友人を振り返った。
『なあ、多分どこの局にも知られてない特ダネがあるんだが、興味はないか?』
 我ながら意地の悪い聞き方だというのは分かっている。思った通りに友人は身を乗り出してきた。

§

「……で、匂わす程度に捜査のことを教えたら、あいつもあいつで義侠心が動いたんだろうな。どうやら自分でも調べたらしい。今日の取引のことは教えてもいないのにカメラとレポーターを送り込むって連絡が直前に来たんだよ」
「そういうわけだったの……」
「そ。まあ、捜査のことをべらべらしゃべるのはあんまりよくないんだけどな。たまにやるんだよ」
 マスコミ経由で公表された事実をもとに世論を味方につけ、その後の捜査をやりやすくすることは、検察ではままあることだった。
「ふーん」
「しかし十年近く経ってるのに人間変わらねえもんだな。あいつは学生のころから無茶ばっかりやっててなあ」
「……ふぅん」
 允花はあくびをかみ殺すように目を細め、ソファの上で膝をかかえてとろんと目を細める。両足を座面にあげているものだから、深いスリットの入ったドレスがぺらりとめくれる。
 すらりと伸びた生脚にしろ、その奥の影の中身にしろ、目に毒だ。わかってやっているのかなんなのか。ため息交じりに嵯峨は窓の外に視線を移す。そんなに隙だらけだと、食われちまうぞ。
「眠いんだろ?」
「え?」
「子供はもう寝ろよ。俺は報告書作るから。ああ、シャワー浴びたいなら先に入るといい」
 鞄の中からパソコンを出してテーブルに載せる。允花は何度かまばたきをしていたが、なにやら覚悟でも決めたような顔で立ち上がった。
「え、あ、じゃあ、お先に……」
 妙に固い顔だったのが気になるが、とりあえず言うことは聞いてくれるらしい。允花は立ち上がると、大きなピアスを外しながらバスルームへと向かって行った。後姿を見送っていると、赤いリボンがしゅるしゅると解かれて豊かな髪がうねりながら落ちてくる。その光景は妙に色っぽかった。寸の間、それをじっと目で追ってしまった自分にはしばらく気づけなかったほどだった。
「……関係ない関係ない」
 振り切るように目を閉じて、胸ポケットから煙草とライターを取り出す。
「さぁて、どうしたもんかねえ」
 ほどなくして聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、嵯峨は煙草に火をつけた。パソコンのモニタには数文字程度しか打ち込まれていない。寝不足の頭では思い浮かぶものもなく、嵯峨は明滅するカーソルをただ見つめるばかりだった。酒が欲しいがここにはないので、仕方なしに冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出してキャップをひねる。
「……なんだかなぁ」
 冷たい水が喉を通ると、少し眠気が遠ざかった気がした。
 現地警察及びマスコミが大々的に突入したおかげで一応は大事件として処理されるだろうし、天道連も死海幇も捜索の手が入ればいいとは思うが――日本の議員まで飛び火するかどうかは警察局次第だ。今回の事件を経ても根本的な解決には至っていないに違いない。どのみち、おそらくあの議員はまた別の組織と結託する、あるいは、すでにしているのかもしれない。いたちごっこだとは思うが、所詮警察も検察も後手に回るのが仕事みたいなものだ。割り切ってしまうしかない。
 それにしてもこうまで上手くことが運ぶとは思ってもみなかった。友人と出会え、彼が話に乗ってくれたのは想定外の幸運だったし、周防の言うとおり、警察局がすんなり動いてくれたのも意外とは言え僥倖だった。嵯峨も警察内部にマフィア関係者がいるのはほぼ確定だとは思っていたのだが、そうではないのだろうか。いや、そこまでクリーンであるはずが、あるわけが――
「そこまで疑うほうがおかしいのか?」
 誰もいない部屋に、答えるものもない。
 疑心暗鬼なのか、それとも勘が何かを訴えているのか、疲れた頭には判断できなかった。
「ま、それはそれとして……」
 一難去ってまた一難。允花のことはなんとかなだめすかす必要がある。必死に言い訳を考えるというのは中々情けないのだが、日本に連れ帰るわけにはいかない。
 とはいえ今日はもう疲れた。嵯峨はあくびをかみ殺し、煙草をもみ消す。
 覚えている光景は、それが最後だった。

§

「あれ……」
 シャワーを浴び終えた允花が戻ってきたとき、嵯峨はカウチソファで眠っていた。テーブルの上のパソコンは開きっぱなしだし、あたらしい煙草に火をつけようとしていた途中なのか、床の上にライターが転がっている。火のついていない煙草は指に挟んだままだ。よほど疲れていたのだろう。捜査の話をしてくれなんて駄々をこねた自分が子供のようで恥ずかしく、申し訳なく感じた。
 嵯峨を起こさないように、允花はそっと近寄る。とりあえず拾ったライターはテーブルの上に、指に挟まれた煙草はボックスの中に戻しておいた。手のひらに触れても、彼は目を覚ます気配もない。
「熟睡、してる……」
 荒らされていないベッドから布団を持ってきてかけてやろうかとも思ったのだが、どうにもこのカウチソファは嵯峨には小さすぎる。一方のベッドは広くて寝心地もよさそうで、人目がなければ文字通り飛び込んでみたいと思わせるほどだ。こっちで眠ったほうが疲れも取れるのは誰の目にも明らかだろう。
「うーん……」
 允花はその場で両手を腰にあてて考え込む。
 どちらかというと体格のいいほうに分類される成人男性の嵯峨を、まさか担いでベッドに運ぶなど允花には到底できそうにない。肩を貸すくらいならとも思ったが、身長差がありすぎるし、どの道一旦立ち上がってもらわないと無理な話だ。眠っているのを起こすのはしのびないが、允花はおそるおそる彼の肩に触れた。
「薫さん、ベッドで寝ようよ」
 そっと肩をゆすってみるのだが、反応はない。困った。
「ねぇ、ここじゃ狭いでしょ? ベッドで寝よ?」
 そこでようやく、彼が眼鏡をかけたままだということに気づいて、允花はそっと手を伸ばした。両手を使ってフレームをつまんでそっと持ち上げると、寝不足なのか腫れ気味の瞼が現れた。
「――」
 ちょっと、見とれてしまう。よくよく見れば整った顔立ちだ。允花は数秒、ぼうっとしてしまった。しかしそんなことをしている場合ではない、と気を取り直し、さっきよりも強めに彼の肩を揺さぶった。
「ね、起きてってば。あっちで寝よう?」
「ん……?」
 ようやく薄目を開けた嵯峨は、眼鏡を取られたためか眠気のせいか目を細める。それが允花にはどこか子供のようにも思えて微笑んでしまった。
「ふふ。ね、ソファじゃなくてベッドで寝ようよ」
「ん……」
 それは同意なのかただのため息なのかわからないのだが、允花が手を握って引っ張ると、嵯峨も力をこめて返す。
「ほら立って、ベッドまで歩ける?」
「うん……」
 かわいい。本当に小さな男の子のようだと思って允花は笑いをこらえながらベッドまで誘導した。俗に言う「あんよがじょうず」のように。なんとか立ち上がってくれたのはいいが、足元はおぼつかないし目はすでに閉じられている。そんなに眠いのか。というかよくそんな状態で歩けたものだ。いっそ感心しながら数メートルの距離を移動し終えると、允花は嵯峨の肩を支えながらマットの上に手をついた。
「はい、ここでゆっくり休んでね。おやす――!?」
 ぐるりと視界が一転し、背中から柔らかなものに落ちて行く。
 もちろん、允花は同じベッドで寝ようとも思っていなかった。寝心地のいいベッドは嵯峨に明け渡し、狭く薄い布団で眠ることに慣れている允花はカウチソファで休もうと思っていたのに、なぜか嵯峨と一緒にベッドの上に転がっている。
 転がるというより――これは客観的に見ると――半ば押し倒されていると言った方が適切かもしれない。
「あっ、あの、ちょっと、」
 允花は体の真正面から倒れこんだ嵯峨の下敷きになっている。天井にはめ込まれた小さな照明を凝視しながら、允花ははじめ、襲われでもしたのかと身を硬くした。
 が、その疑念も一瞬で霧散する。穏やかな寝息が聞こえてきたからだ。
 少し、呆れてしまった。
「……びっくりした……」
 ほっとしたのもつかの間、今度は嵯峨の体重をもろに受け止めているため圧迫感が苦痛になってくる。腕を解き、胸板を押し上げてじりじりと体をどけようと允花は試みた。
「よいしょ、っと、じゃあ今度こそ、おやすみなさ――わっ!」
 なんとか彼の下から抜け出すことに成功するのだが、今度は彼の腕の中に引きずり込まれてしまう。お互い向かい合うように寝そべって、ただし允花は嵯峨の両腕で抱きすくめられている。むにゃむにゃと寝ぼけて何か言っているがまったく意味をなしていない。
 今度こそ凍りついてしまった。何かされるかもしれないという恐怖心だけではなかった。こんな風に抱きしめられたことなど今までになかったので、どうしたらいいのかわからない。
 顔が熱い。同じくらい、体中が熱い。目の前には嵯峨の黒いシャツがあって、たった一枚の布越しに、大人の男の体温を感じる。
 でも、嫌ではなかった。染み付いた煙草のにおいも、強すぎる腕の力も。
 嫌ではないからこそ、つらかった。これは何かの間違いでしかないのだから。きっと彼は寝ぼけているのだろう。そう思うことにした。
「布団、かぶらないと……風邪ひくよ」
 もちろん返事などない。
 あらかじめ捲って足元のほうに寄せていた掛け布団を、器用に片足で手繰り寄せる。難儀しつつも嵯峨の体の上にかぶせてやると、彼は気持ちよさそうに息を吐いた。
 なぜかどうしようもないほどに、彼をいとおしいと思った。でも、これは多分気のせいだ。こういうことをされているからドキドキしているのであって、それが彼だからという理由ではない。
 それに彼は、誰かと間違えて自分を抱きしめているのかもしれない。寂しいけれど、自分が求められているわけではないのだ。
 そう思うと少し胸が痛む気がしたけれど、疲れていた允花はそれ以上深く考えることもなく眠りについた。

2020/7/26 修正