台北恋奇譚

 それから三十分後、台北市内のファッションビルに三人の姿があった。クリスマスを一ヵ月後に控えた商業施設はどこもかしこもきらびやかに飾り付けられ、道行く人の顔も心なしか明るく見える。
 多分、ここで浮かない顔をしているのは允花だけだろう。
「俺は17の女の服なんてわからねえからなあ」
「僕だってわからない」
「あの……」
 嵯峨と周防が話している、その間に挟まれて允花は狼狽えるばかりだった。一体何をするつもりなのかと何度聞いても無視されて、半ば強制連行されるように繁華街に連れてこられただけだ。
「まぁ女の服自体よくわからねえんだけどな」
「男だからしょうがないといえばそうだな」
「ちょっと……」
「けどここで足踏みしてたってどうしようもねえしな。適当に入ってみるか」
「それしかないだろうな」
「ちょ、ちょっとまっ――!?」
「ほら、つべこべ言ってねえで入るぞ」
「失礼するよ」
 結局二人から両脇を抱えられるようにして、嵯峨の言うとおり「適当に」選ばれた店の中に允花は連れ込まれた。
「いらっしゃいま、せ?」
 当然、店員は突如来店した奇妙な客に不思議そうに首をかしげている。カップルではないだろうし、友人同士と言うには組み合わせがちぐはぐだ。大体、店のターゲット層であるはずの少女本人が「わけがわからない」と言いたげな顔をしているのだから。
 店員が顔を強張らせると、嵯峨がにっこりと底のしれない笑みで先手を打つ。
「ああ、すみません。実は折り入って頼みが。妹がデートにこんな格好で行くって言うもんだから兄として情けなくて」
「えっ」
 なんでそんな設定になっているのかと允花は絶句してしまった。
「まあ、デートに?」
 それでこの状況に納得したらしい店員から不憫そうな目で見られているのが情けない。が、允花に言わせてもらえば自分だってデートだったらもう少し着飾るに決まっている。まあ今のと似たり寄ったりになりそうだし、全員から「何が変わったんだ」と呆れられるかもしれないけど。
「でしょう? だから兄二人でこいつを頭のてっぺんからつま先までお姫様にしてやろうって思って」
「お姫様……」
 允花は顎が外れるかと思った。なお周防は言葉が通じないため話の中身などつゆ知らずただ終始ニコニコしている。
「とはいっても男二人じゃやれることに限度がある。化粧とか、髪とかね。まぁその前に服を買わなきゃいけないんだけど、この店ならできそう……ですよね、大変身?」
 挑戦的な言葉と値踏みするような視線にむっとしたのか、それとも少女の変身というロマンティックなテーマに心動かされたのか、あるいは両方か。とにかくスイッチが入ったように、店員は握りこぶしを作ってみせる。
「もちろんです! お任せください、妹さんを見違えるほどに変身させてみせましょう! ええ! うちには美容学校を出たスタッフもおりますから!」
 どうやらヘアメイクも任せろと言うことらしい。
 店員は胸を張る。允花は眉を寄せる。嵯峨はしたり顔で頷く。周防は相変わらず訳も分からずに笑っている。
 四者それぞれの胸のうちが交錯する中、大変身への幕は切って落とされた。

「少なくともパンツではなくスカートで、ワンピースはいかがかしら?」
「は、はあ……」
「なんだって?」
「ワンピースはどうかってさ。おい、允花、短すぎるのは駄目だぞ、清楚に上品にな」
「そうだな、膝上は論外、せめて膝下五センチは欲しいところだな」
「……お前マジで妹いたら嫌われただろうな……」
「な、何を根拠に!」
「あ、娘ができたら年頃になったときに絶対今と同じようなこと言って嫌われる。間違いねえわ」
「失礼な!」

 人の気も知らないで好き勝手なことを……と、允花は店員の肩越しに恨みがましい目を向けた。が、嵯峨も周防も話に夢中でこちらを見もしない。
「何よ、連れてくるだけ連れてきて!」
 ぼそっとこぼした愚痴に、店員が笑う。
「いいお兄さんですね」
「……そうですか?」
「ええ。普通は妹をどこの馬の骨とも知れないヤツに! なんて言うものですよ。……あ、お客様が大事にされてないってことじゃないですからね!」
 慌ててフォローする店員に允花は苦笑した。大事も何も、実の兄でもないのだから気にするまでもない。
「あ、これかわい――」
 ハンガーにかけられていたワンピースをあれこれ物色していた允花だが、藍色の一着を手に取り、固まってしまった。
 デザインも色も好みのど真ん中なのだが、値段が十倍。允花が買ったことのある服の、軽く十倍以上する。
(た、高……! こんなに高いの!?)
 こんな服をとっかえひっかえ着ることができる女の子なんてこの世にいるんだろうか。……いるのだろう、こうして服の方は存在して待ち構えているわけだし。
 世の中にはすごいお嬢様もいるものだと允花が見当違いの感心をしていると、目ざとい店員がすっ飛んでくる。
「そちらこの秋の新作なんですよ〜こちらがお色違い、このあたりのお色ですとこちらのデザインもおすすめです〜」
 しかし店員は允花の考えなど知るわけもなく、あれやこれやと何着もの服を押し付け、挙句の果てに「試着室はこちらです〜」と、有無を言わさずに押し込むだけだった。
 
 一方の男性陣は雑談をするばかりだったのだが、しばらくして允花の姿が店内にないことに気づく。
「あ、ちょっとお姉さ……」
「妹さんでしたらご試着中ですよ!」
 店員を呼び止めようとして、嵯峨は呆気にとられた。にこやかに試着室を指差す彼女の腕に、コートだの鞄だの靴だのが山と抱えられていたからだ。その彼女も試着室のほうへ恵比須顔で足早に向かっているのであれも全部允花のためのものに違いない。
「あ、そう……」
 確かに靴も鞄も必要だろうけど、ああいうのって妙に高かったりすんだよな……こりゃとんでもないことになったかもしれない。と、嵯峨はこめかみのあたりを押さえてしまう。
「……金なら貸すぞ」
 周防もまた困ったように笑っているが、言葉の中にはからかうような色が窺えなくもない。
 ああ、どうしてこうなったのか。やはりカジノであんなこと言ったのがいけなかったのか。
「これに懲りたら安易に女性を口説かないことだな」
「口説いてねえよ」
 考えを読んだような周防の言葉には、力ない返事しか出てこなかった。口説いてはいないが、口説きたいと思えるくらいには着飾ってほしいと思う。
「――ま、いいか。あんな地味で貧相な恰好してるのは見てるだけで気の毒だ」
 そのセリフが意味するのは、同情というよりは自己保身かもしれない。差し伸べられる手を持っているくせにそうしないというのは、差し伸べる手を持っていないよりも後ろめたいものだから。
(浄財と思えば、まあ……)
 カジノからくすねた金のことは周防には言えないので、内心だけで自分を納得させることにした。
 ふと、昼間のことを思い出す。
「ああ、そういやアレ、調べたぜ。通話記録はなかったよ」
「ん、そうか。少なくとも電話での連絡はなかったか……」
「少なくとも、って」
 周防までスパイ映画めいた話をするのかと呆れるが、嵯峨とは対照的に周防は真剣そのものの表情を浮かべている。
「電話以外の手段で連絡したっていうのか? 矢文とか? 伝書鳩? それとも狼煙ってか?」
 忍者じゃあるまいしと笑うと、周防は「非現実的だな」と一蹴する。俺だって本気で言ってるわけじゃないと抗弁する間もなく、周防は仮説を述べ始めた。
「もっと単純に考えるべきだ。例えば対面での連絡だって可能だろう? 君がシャワーを浴びている間にドアを開けて誰かと接触することは十分可能なはずだ」
 今度は推理小説みたいになってきたな……とは言えなかった。
 確かに言われたとおりのことは不可能ではないし、夜の間だってずっと起きていたわけではないので、周防の推測を否定することはできない。しかし、
「そりゃそうかもしれねぇけど、大体、今更そんなことして何になる?」
 天道連はほぼ壊滅だ。死海幇だってここまで話が大きくなった今、トカゲのしっぽ切りを決めていてもおかしくはないだろう。こんな状況で、小娘一人に何を任せるというのか。
 周防は口元覆ってしばし考える。が、答えは出なかったらしい。
「……それはわからん。しかし、ああまで必死に我々と行動を共にしようと食い下がってきたのだから、相応の目的があると思うのは不自然ではないと思うが?」
 確かに、周防の言うことのほうが現実味のあるものだと思えた。日本に行きたいからと駄々をこねたのも、何らかの目的があってのことだと考えるほうが自然だ。
 しかしそれでも允花がそんな企みを抱えているとはどうしても思えない。どう考えても、彼女は腹芸のできる人間ではない。
「……考えすぎだ。捜査があまりにもうまくいったから、疑心暗鬼になってるだけさ」
 それは嵯峨自身にも当てはまることだった。今にきっとしっぺ返しがくるのではないかという不安感は、考えのどこかにひっかかっている。あまりにも非現実的かつ非合理的なのに、時折そういうオカルトじみた考えが当たったりするからまたタチが悪い。
 周防にも心当たりがあるのだろう。
「……確かに、僕も疑り深くなっていた。しかし用心だけは怠らないようにしよう」
「ま、そうだな」
 彼らしい一言を最後にその話は終わった。そのあとはたわいもない雑談に興じていたのだが、女の支度や買い物は時間がかかるものである。允花が試着室に入って数十分が経つころ、嵯峨がしびれを切らして腰を上げた。
「……煙草吸ってくる」
「堪え性がない男だな、君は」
 そういう周防の顔にも疲れの色が見えるので誘うのだが、彼はその場から動こうともしなかった。かといって、嵯峨が諦めるわけでもなく。
「つったってもう一時間だぞ? まだかかるに違いないし、ぱっと行ってさっと戻るから――」
 と、嵯峨が踵を返しかけたところに店員が浮き浮きした足取りで近寄ってくる。
「おまたせしました、妹さん、大変身です」
 タイミングは失したが、とにかく状況が動いたのはよしとしよう。今度は周防も立ち上がり、試着室のほうへと男二人は歩を進めた。
 店員妙に誇らしげな表情から察するに、允花はかわいらしく着飾ったらしい。まあ元の素材はいいしな、と、嵯峨が上から目線で納得していると試着室のカーテンが開く。
「――」
「へえ……」
 息をのんだ嵯峨の横で、周防が感心したように顎を引いている。確かに、現れた允花は見違えるほどにかわいらしく変身していた。
 ウエストを絞ったワンピースは彼女のスタイルにぴったりだし、丈も膝のあたりまでで清楚なイメージを与えている。ついでにヘアアクセサリーまで選んだのか、髪は頭の後ろで複雑に編み込まれているらしい。頬が桃色なのは照れか、それとも化粧をしてもらったのか、定かではないがとにかく大変身という言葉には間違いはなかった。
「……どうかなあ?」
 片手でスカートを軽く持ち上げ、はにかみながら見つめてくる允花を、嵯峨は何も言えずに見返すだけだった。
「よく似合ってるよ」
 さらりと周防がほめているのが妙に癪に障る。そういうタイプだとは思っていなかった周防が難なく返事をしたというのに、自分は何も言えていない。
「薫さん、変……? これでも、だめ?」
「ああいや、ええと……」
 不安そうな允花に申し訳ないとは思うのだが、何を言ったらいいのかわからない。
 似合ってる、周防と同じことを言うのは癪だ。
 かわいい、そりゃそうだが正直に言うのはなんだかこっぱずかしい。
「……いいんじゃないか、うん」
 結局濁すような言葉に落ち着いてしまい、自己嫌悪にかられてしまった。何をやっているんだ俺は、十代のガキじゃあるまいし……。後悔してもどうしようもない。允花は少し落胆したように笑いながら、「ありがとう」と言うだけだった。
「このまま着ていかれます?」
「ああ、着てた服は適当に袋に入れてください」
「かしこまりました」
 店員相手にはそつなく対応できるというのに、何を変に意識しているのか。周防からもそんな視線を感じる。居心地はきわめてよろしくない。
「あ、そうだ」
 別に話を逸らしたかったわけではないが、嵯峨は声を上げた。試着室の中にまだワンピースやらなにやらがかかっている。
「あと何着か買っとけ。同じ服ずっと着るわけにもいかねえだろ?」
「え、でも……」
 允花は目に見えて戸惑っている。やっぱりこんな素直な少女が何かを企んでいるわけがない。
「いいから。金は気にすんなよ、な?」
 カジノからくすねた金が全部消えそうだったが、いくら上等な服とはいえ年頃の少女に着たきり雀を強いるのも心が痛む。
「んーと……じゃあ、これと……これもお願いします」
「かしこまりました。いいお兄さんですね」
 店員は上客に愛想を振りまくと、レジカウンターへと嵯峨を促した。

「ありがとうございました」
 店員に見送られる允花は両手にショッピングバッグを抱えてホクホクしているが、嵯峨は懸念どおりに残り僅かになってしまった紙幣をポケットに仕舞いながら肩を落としている。
「これも人助けってやつか……?」
「そう思うならもっと晴れやかな顔をしたらどうだ?」
 周防の言うことももっともなのだが、所詮は他人事だと割り切っている顔が腹立たしい。
「今日の食事代は僕が出そう」
「へっ、お優しいこって」
 口から洩れたのは笑い声か、落胆の溜息か。嵯峨は眼鏡を外して眉間を押えた。
「ありがたすぎて涙がちょちょぎれるぜ」

§


 食事を終えた三人がそれぞれの宿泊先に戻ったのは夜の10時だった。
「はあ! おいしかったあ!」
 ホテルの部屋のドアを開け、そう言うなり、允花はベッドに勢いをつけて腰を下ろした。続くように嵯峨が、彼女の服の入ったショッピングバッグを両肩からおろして毛足の長いラグの上に置く。
「お昼ごはん食べてなかったから、いっぱい食べちゃった。おいしかったね!」
「そうだな」
 嵯峨は苦笑しながらネクタイを緩めた。どうにも高いレストランは息がつまるし全席禁煙だしで、部屋に戻ってようやく人心地がついた気がする。
 嵯峨がポケットから煙草を取り出しつつコンソールテーブルの上でコーヒーを淹れようとするのを見た允花は「自分がやる」と申し出る。
「いいよ、自分でやるから」
「ううん。このくらいさせて?」
「……じゃ、おねがい」
 やる気になっているのならそれを留めることもない。人に何かしてもらうのは楽だ。
 コーヒーメーカーをセットする允花を見ながら、嵯峨は上着をソファに放り投げてカウチソファに腰を下ろした。允花ほどではないとは言え、嵯峨も、そして自分の宿へと戻った周防もまた腹いっぱいに食事を詰め込んでいた。友人から聞いていたレストランは中々の味だった。こっそりとベルトを緩めながら息を吐くと、ふわりとコーヒーの香りが漂ってくる。嗅覚だけでも、いつも仕事の休憩時間に飲む缶コーヒーとは比べ物にならないことがよくわかった。
「ここのコーヒー、旨いよな」
 朝に飲んだことを思い出しながら言うと、允花の意外そうな声が返ってくる。
「そうなの? ――あ、上着、かけとくね」
 振り返った允花が、ベッドに投げ捨てられた嵯峨の上着に手を伸ばす。軽くはたいてハンガーにかけるのを見ていると、本当に家政婦か、あるいは新妻を見ているような気になってきた。
 もし、允花が本当に“お嫁さん”になってくれたら――
(……アリ、だよな)
 いいかもしれない。彼女がいる暮らしというのは、案外いいかもしれない。
 少し広い部屋に引っ越して、今の給料ならなんとか二人、やっていけないことはない。独り身の官舎暮らしは色気も何もなく、部屋は汚れ放題散らかり放題、とはいえ自分でどうこうしたくはない。
 こんなにかわいい女の子が身の回りの世話を焼いてくれるなんて、男なら誰だってもろ手を挙げて大歓迎に違いない。
 …………。
(いやいや、日本に連れていく代わりに嫁……じゃなくて家政婦になれなんて、公序良俗に悖る)
 そんなけしからんことを考えてしまうのは、やはり酒が入っているせいだろうか。
 酔いを醒まそうと凭れていた上半身を起こし、嵯峨は煙草に火をつける。允花は白いカップにコーヒーを注ぐと、嵯峨の目の前にあるサイドテーブルの上に置いた。
 一つだけのコーヒーカップと允花を見比べて、嵯峨は尋ねる。
「飲まないのか?」
「……苦いのきらいなの」
 かっこ悪いと思っているのか、ややきまり悪そうな顔をしている允花は子供っぽい。
「そうか」
「あ、今、子供とか思ったでしょ」
「まあ、少し」
 允花は自分が、苦いコーヒーを飲めないことを子供っぽいと恥じているのだろう。嵯峨が彼女に幼さを感じたのはそこではないのだが、説明するのが面倒なのであいまいに肯定しておく。
「……大人になったら、なんでもできるかな」
 允花がそう言ったとき、嵯峨は煙草の煙を口から吐いている最中だった。
 苦いコーヒー、煙草、酒。そういうものを楽しめる、そんな意味で言っているのかと問うと、それは違うのだと彼女は首を振る。
「大人になったら、誰かにああしろこうしろって言われることもないのかな」
「ああ……」
 コーヒーを飲みこみながら、そういう意味かと合点する。ベッドに腰をおろし、允花はややためらいながら何故か髪を解き始めた。
「変な話、してもいい?」
 うん、とうなずいて嵯峨はカップをテーブルに戻した。かちん、と小さな音が合図になったように、允花は口を開く。
「……何から話したらいいのかな……わたし、母親のことは何も知らないの。小さいころに亡くなったって聞かされてるだけ。わたしはずっと父親と暮らしてて……時々、おばあちゃんが遊びに来てた。父親はどんな仕事を始めてもすぐにクビになって、何してるのか、よくわからない人だった」
 少し癖の残った髪を手櫛で整えると、允花はベッドの上に両足を上げる。膝を抱える様は、頼りない小さな子供のようだった。
「今思えばおばあちゃんは、こっそりお金を届けに来てくれてたのかもしれない。おじいちゃんには――会ったこともないの。父は勘当されたって聞いてたから」
 どんな顔をして聞く話なのか、わからない。夜の街並みを見下ろす窓には允花の顔が写っていた。薄く微笑んではいるものの、感情の読めない笑顔だった。
 允花は胸元に留めていたブローチを外すと、ベッドサイドのテーブルにそっとそれを置く。
 少なくともブティックを出たときにはそんなものはもっていなかったはずだと訝しく思い、妙に高そうなそれも買ったのかと聞くと、允花は少し寂しそうに笑いながら「これは祖母の形見」と教えてくれた。真珠がいくつかあしらわれたそれは、売ればそれなりの金になるだろう。允花がそうしない理由など明らかだった。きっとその祖母は、允花にとって誰よりも大切な人だったに違いない。
「でもおばあちゃんはわたしが、高校に通い始めてすぐに亡くなった。……悲しかった。わたしのこと目いっぱい愛してくれたのはおばあちゃんだけだったから。父親から殴られたりとか、そういうことはなかったけど、きっとわたしは父にとって……おばあちゃんからお金をもらうためだけの存在だったんだろうね。だから、おばあちゃんが亡くなった後、残されたわたしには……なんの価値もなかった」
 嵯峨が二本目の煙草に火を点けても、允花の話は終わらない。
 話を聞く限りでは祖母にはかわいがられ気にも留められていたようだし、そんなに頻繁に金銭的な援助ができるくらいなら、なんらかの遺産が用意されていてもおかしくはないだろう。だが、允花の現状を考えると、遺産は存在しなかったか、あるいはあったとしても父親が早々に使い込んでしまったかのどちらか、か。
「だから、お金がなくなって、あやしい人たちからお金を借りて、それも返せなくなった父はわたしを天道連に……」
 允花は一旦言葉を区切る。嵯峨が煙草をもみ消すのを待っていたようにして、彼女は再び口を開いた。
「薫さん、あれは本当だよ」
「あれ?」
 一体何の話かと思って顔を上げると、允花は困ったように笑っていた。
「あのホテルで天道連が売春やってたの、本当。カジノで働いてる子も、ときどきお客に連れてかれること、あったから」
「……ふうん」
 思わず顔をそむけてしまった。
「見たことあるの。女の子が連れて行かれて……あの子、わたしより年下で……」
 じゃあ十六かそこらか。立派な犯罪だし、仮にそうでなくても胸糞悪い話だった。
「いいよ、言わなくて」
「でも、わたしだったかもしれない。わたしだって、男の人の部屋まで入ったことある……そのときは相手が眠っちゃって、何もされなかったけど……運がよかっただけ。運がよかったから、今まで一度もそういうことにならなかっただけ……」
 允花の言うとおりなら、本当に運がよかったのだろう。望まない行為を免れていたことは素直に幸福なことだと思えたので、嵯峨は少しだけ肩の力を抜いた。
 それでも允花の声の震えは止まらなかった。
「怖かった。ぜんぜん知らない人に、いいようにされるのかと思うと怖かった。この人は、わたしじゃなくても、誰でもいいんだって、そう思ったらすごく悲しくて、怖かった……。気持ちなんかなくて、お金だけで、好きにされちゃう。わたしたちもお金があればあんな境遇、抜け出せたかもしれないけど……でもわずかなお金だって、わたしたちは持ってなかった。だから、あそこから逃げ出すなんて、どうやったって無理だったの」
「…………」
 允花の心の傷はまだ癒えていない。彼女にとって男は力尽くでねじ伏せて言うことを聞かせるだけの暴力装置か何かでしかない。嵯峨だって男なのだが、昨夜頑なに同室を求めた允花は自分のことをどう考えているのだろうか――と、訝しく思っていると、ぎしりとベッドがきしむのが聞こえた。ソファの近くまでにじり寄った允花の指先が嵯峨の手に触れる。テーブルの上で重なった手のひらも、声と同じように震えているようだった。
「ありがとう、薫さん、わたしを助けてくれて。何も返せないけど、こんなことしかできないけど、わたし……薫さんだったら――」
「……」
 允花が何を意図しているのかようやく理解した嵯峨は、そっと彼女の手を振り払った。
 傷が癒えていないどころではない。彼女は何かの対価として支払えるものを己の身体以外に知らないのだろう。何もない女のお前にはこうするしかないと教え込まれて、それだけがたった一つの真実だとでも思い込んでいる。なまじ世話なんか焼いてしまったがために、允花は余計な恩まで感じているに違いない。
 腹が立った。
 誰にだろうか。だらしのない彼女の父にか、その場しのぎの援助しかしなかった祖母にか、天道連の悪党どもにか――それとも、暗い井戸の底で膝を抱えたままのような允花に、だろうか。
 嵯峨は一度拳を握りしめたものの、
(……俺には、関係ない)
 すぐにそれは緩められた。
 允花を日本に連れていくつもりはない。せいぜい明日までの付き合いで、その後は決して交わらない人生を歩んでいくだけの二人なのだ。だから――責任を取る意思がない以上、彼女の境遇に憤りを感じたところでそれはただの偽善で、きれいごとだ。
 それに、そんな痛々しい恩返しをされたくてこんなことをしたわけじゃない。ただ、仕事だった。なりゆきだった。そこに允花が謝意や、まして負い目を感じる必要なんてないのだから。
「俺も変な話、していい?」
 カップのコーヒーを飲みほして、嵯峨は允花から少し離れてベッドに座る。允花が困惑しているのに気づいていながらも、彼はお構いなしに話し始めた。
「死ぬほど後悔してる男の話」
 靴を脱ぎ捨てると嵯峨はベッドに寝そべる。上半身は枕に預けて、天井を見上げながら過去を思い出し始めた。過去と言うほど昔のことではないけれど、もうどうにもならないという一点において、それは紛れもない「終わったこと」だった。
「そいつは同じ職場に好きな子がいたんだ。美人で、頭もよくて、他の男だってほっとかないような子だ。たまたま一緒のとこ……部屋で働いてたから、他の男たちよりも早く仲良くなったし、一緒に仕事をしてる分、お互いのこともわかってるつもりだった」
 允花は黙って聞いている。
「その子もそいつのことは悪くは思っていなかった。きっかけさえあればいい仲になってただろう。でも、どちらも何も言い出せなかった。男は仕事が楽しくてしょうがなくて彼女のことは二の次になってたし、女は男が切り出すのをじっと待ってた――の、かもしれないし、そうじゃないかもしれない。そうこうしているうちに二年。こう言っちゃなんだが、男ならまだしも、二十代の女ならそういう時間を気にするのも当然だ」
 こみあげてくる苦い何かを堪えるたび、罪悪感と後悔で潰されそうになる。罪悪感というと自惚れに過ぎないと嘲笑されそうだし、もはやそれすら許されてはいないだろうが、自責の念は甘く苦しい喜びすら与えてくれた。
 允花はじっと嵯峨の横顔を見つめている。話の続きを待っている二つの目を見ることなく、嵯峨は重い口を開いた。
「彼女は大学時代の知り合いと再会して、半年後に婚約した。知らせを聞いたとき、どうして何もしなかったんだろうって――俺じゃないぞ、そいつは、思った。どうして。そう言おうとした口は、祝福の言葉しか言えなかった。責めるでもない、恨むでもない。ただ静かに笑っている彼女の目を見ていると、これでよかったんだと思うことしか、許されていないように感じたんだ。当然だ。何もしなかったんだから、文句を言う筋合いなんてない」
 嵯峨は眼鏡を外すと、サイドテーブルの上――允花のブローチの隣へそれを置いた。ぼやけた視界は時に、何も見えない安心感をくれることがある。あいまいな輪郭で構成された世界は優しい。いつからだろう、何かをはっきりさせることがたまらなく怖くなったのは。
 ベッドの上に仰向けに寝そべって、天井を見つめた。壁紙の模様すら見えず閉塞感で息がつまる。
「大人だって、なんでも思うようにできるわけじゃないんだ」
「薫さん、」
「あのときああしてたら、って思うのは自由だ。けどな、そう思う度に情けなさでいっぱいになるもんだ。だから允花、俺が言えた話じゃないけど、後悔しないように、生きたいもんだよな……」
 つぶやくように吐き出した後で、あわてたように「俺の話じゃないんだけど」と付け加える。
(……だせぇよな)
 虚勢を張ってなんだと言うのだろう。
 同じ打ち明け話をするにしても、なんのてらいもなく感じたことを吐き出せた允花が、彼女の若さが眩しかった。
「お前はまだ若いんだから。いくらでも、どうとでも、取り返しがつくしやり直しもできる。今の境遇が、お前のこれからを決めてしまうものじゃない。だから――」
 言葉は続かなかった。がんばれと励ますのは無責任なようだし、そもそも今の言葉自体なんの根拠もないただの希望的観測でしかなかった。言い切ってしまえば、允花の人生は決して恵まれたものではないと思うが、これまで苦労という苦労をした覚えのない嵯峨には想像もつかないような遠い世界の話としか感じられなかったし、それゆえ自分が適切な助言などできるはずもないと確信している。この後のことなど見当もつかないし、無根拠に大丈夫だなどとは口が裂けても言えなかった。ただそれだけが、彼にとっての精一杯の誠実さだった。そう、思い込みたかった。

 目を閉じてじっとしていると、やわらかいものが瞼に覆いかぶさってくる。
「薫さんは……後悔してるの?」
 穏やかな声がすぐ近くから聞こえてくる。目を開けると、白い手のひらが視界を覆っていた。
「……かもな」
 返事ともつかぬような、溜息に似た息を吐く。允花は何も言わなかった。ゆっくりと、指先に髪をとらわれる。静かにすり抜けて行く允花の手は心地よく、指先は――知らぬ間に眠りに落ちてしまいそうなほど、優しかった。

2020/8/26 修正