台北恋奇譚
台北市警察局は昨日の大騒動のせいで土曜にも関わらず休日出勤の職員で溢れていた。報道関係者が陣取るロビーを抜けた先は中国語の怒号やら電話の呼び出し音やらが飛び交うまさに戦場さながらで、嵯峨も周防も一瞬たじろいでしまう。
「こりゃ邪魔になるだけかな」
一応関係者とは言え、他国の司法機関に所属する二人ができることなどあまりない。インターネット回線を使った会議もできればメールでの資料のやりとりもできる今日日、現地にいなければできないことはほとんどないのが事実だ。そもそも今日は念のためとあいさつを兼ねて顔をだした程度なので、これならさっさと帰った方がお互いのためになりそうだった。
「そうかもしれん」
嵯峨に対して張り上げ気味の声で答えた周防だったが、どうやら今のを聞きつけたらしい人物が壁際から小走りに近づいてくる。
「来てたんですか!」
今回の捜査の指揮を執っていた警部だ。日本語は中々のものである。
「どうです?」
会釈した後に切り出すと、彼はつるりと禿げあがった頭を後ろに向かって撫で――癖なのだろう――二人の顔を満足そうに見遣った。
「今のところ問題はありませんよ。天道連については末端とは言え実働部隊を摘発できた。死海幇も、大物の馬の野郎をやっと逮捕できた。今回は奴さん、支配人と組んで売買春のあっせんもやってたもんだからもう言い逃れはできない。その他の余罪も含めて実刑確定でしょうな」
言葉の端々から達成感がにじんでいた。嵯峨も周防もその気持ちがよくわかるので自然と釣られるように笑ってしまう。
「天道連はまだしも、死海幇は手を出しづらかった。お二人のおかげだ」
「いえ、こちらこそ色々とご尽力いただきまして……」
周防が頭を下げると、彼は豪快に笑いながら肩をばんばん叩く。「日本人は謙虚すぎるからもう少し自信をもってはどうだ」とまで言われ、周防は少し困惑しているようだった。
嵯峨はその様を笑った後、不意に真面目な顔になる。
「しかしこう言っちゃなんですが、こうも我々の言い分を信用してくださるとは思わなかった。もしかして、おたくらもすでに支配人あたりから攻めようとしていたとか?」
この期に及んでそんなことを言うかと周防に小突かれそうなのだが、どういうわけか警部は小難しい顔になる……が、それも一瞬、すぐにごまかすように破顔一笑した。
「ま、そんなとこですな」
明らかに怪しいのだが、突っ込んで尋ねるのも憚られる。
と、廊下からせわしなく入室してきたまだ年若そうな刑事が三人の間に割りこんだ。手元にはバインダーやら資料やらがどっさりと抱えられていた。
「警部」
「なんだ、取り込み中だぞ」
警部はたしなめるのだが、彼は頭に血が上っているのだろう、そもそも嵯峨と周防の存在にも気づいていなさそうだった。
「云豹が相変わらず『文はどこだ、あいつに話を聞けば全部わかる』とわめくばかりで……!」
文、という男――のちに彼は短期間で云豹の右腕まで上り詰めた男だと知るのだが、このときの嵯峨たちが知るわけもない。
「これじゃ調書も取れやしません! どうします? 文って男、探すのなら人員を割きますが、」
まぁ落ち着けと警部が宥めているのを見ると、まるで親子のようだった。実際、親子くらいの年齢差はあるだろう。嵯峨も周防もかつての自分を見ているようで背中がむずがゆいようなじれったさを感じた。若さゆえのまっすぐさを見ていると少し落ち着かない。
「いや、かまうな。言い逃れしようとしてるだけだろう。今回の件、云豹が実質的な首謀者であることに変わりはない」
「はぁ、そうですか……?」
警部の言うことは至極もっともなのだが、何かひっかかりを感じる。
「何をぼさっとしとるんだ。まだ事情聴取する人間は山ほどいるんだぞ、ホテルのスタッフに……ああ、カジノの連中はどうなってる」
「それは……はい、至急呼び出します」
「急がせろ」
警部は部下を「しっしっ」とジェスチャー付きで追い返すと、二人に向き直って頭を下げた。
「せっかくお越しいただいたのに申し訳ない。こんな具合なので、そちらが欲しい情報があれば後日日本へ遅らせていただきたいのだが」
「かまいません。私たちがいたところで邪魔になるだけでしょうし」
「ご理解いただけて助かります」
警部は再び頭を下げ、二人もそれにならった。顔を上げると、ごつごつとした手のひらが差し出されている。
「あなた方の協力のおかげだ、ありがとう」
「……こちらこそ、本当にお世話になりました」
嵯峨、周防の順に固い握手を交わし、警部は実直そうな顔を少し緩めた。何か隠しているのは間違いないと感じるのだが、こんな誠実そうな人間が何かを伏せていることが、嵯峨には信じられなかった。
§
「どうするんだ?」
警察局を出た二人は、行くあてもなくぶらぶらと歩き回っていた。運動用トラックのある大きな公園にさしかかったところで口を開いたのは周防だった。
「どうするって? そうだなあ、メシでも食うか?」
「怪しいと思わないのか?」
「……」
嵯峨が冗談めいて言った言葉を、周防は容赦なく無視した。
「僕は気になる」
「そりゃ俺だって、怪しいと思わないことはねえけどよ、」
言葉を濁す嵯峨と、それをじっと見ている周防。その横を、数人のランナーが駆けていく。芝生の上では子供たちがボールで遊んでいたり、カップルが語らっていたりと和やかな雰囲気だ。それに毒気を抜かれたのか、周防は肩を落としてため息をついた。
「確かに、深入りしてもしょうがないのかもしれない。僕らは一介の公務員でしかないし、言われた以上の捜査をする権限もなければ、仮にしたところでどうすることもできない」
「……まあな」
「この事件が解決した、それでよしとするべき、なんだろうな」
不本意だけれど。そう言いたげな顔で、周防は苦笑した。嵯峨も同じく、への字にしていた口の端から空気を漏らす。
自分がもっと若ければ突っ走っていたかもしれない。そして結果として、上司やら同僚やらに面倒をかけていたかもしれない。今こうなっているのがいいことなのか悪いことなのか、正しいのか間違っているのか。よくわからない。ただ流されるままに生きているような気がして、なんとなく居心地の悪い思いだった。
しかしどうこう言ったところで何かが解決するわけでもない。鬱屈した気分を払うように、嵯峨は声を張り上げた。
「ま、お前の言うとおりだな。夜は旨いもんでも食いに行こうぜ」
祝杯だ。と言いながら背伸びをする嵯峨を見て、周防は思い出したように尋ねる。
「彼女は?」
「連れてかねぇワケにもいかねぇよな。ああ、服は買いに行かせてる」
あの恰好で出歩かせることはしない。そう言うと、周防は「結構」とでも言いたげな顔になる。
「そうか。……手は出していないだろうな?」
疑念に満ちた声色に、嵯峨はさすがに肩を落とした。
「……なんでこうも信用されねえのかなあ、俺は。出してねえよ、出すわけねえだろ、まだ17のガキだぞ?」
「17!?」
周防の驚きもさもありなん、だった。
「俺も昨日初めて聞いてびびったよ。なんか訳アリらしくてな」
「……そうか、そうだろうな。理由もなくあんな場所で未成年が働いているわけがないか」
周防は深く納得するように首を縦に振り続ける。
「頑固なヤツでな、どうしても日本に行きたいらしい」
「何故?」
「それは聞いてねえが。もちろん連れて行かねえけど、なあ、お前も協力しろよ、説得」
「説得、か……それはできるかわからないが、彼女がまっとうな生活に戻れるよう、それは協力したい」
生真面目と正義感が同時に発揮された返答に嵯峨は苦笑しそうになったものの、周防の気持ちを踏みにじりかねなかったので踏みとどまる。
あ、と嵯峨は声を漏らした。
「あいつの件は警察には言わないほうがいいかもな。親がどうも問題らしい」
さすがにあれこれしゃべるのは控えたが、周防は何かを察したらしかった。嵯峨も検事である以上そうだが、周防とて警察官だ。むしろ市井に親しいのは彼のほうと言ってもいい。児童虐待や保護責任者遺棄の事件など見飽きるほどに見ているだろう。
「……それはまた、難しいな……他に親族は?」
「わからん。昨日はいつの間にか寝ちまってたからな。そのあたりのことは夜に聞く……やめとくか。メシがまずくなる」
「……確かにな。彼女もそんな話題は望まないだろう」
沈痛な面持ちの後、周防はふと怪訝そうな顔になる。
「しかし、いつの間にか寝ていたとはな……」
「なんだよ」
呆れられているのかと、自分より少し高い位置の顔を見るとやけに真剣な顔をしている。
「寝ている間に何かされなかっただろうな?」
思わず足を止めてしまった。
「……それは俺が、性犯罪の被害者になったかを聞いてるのか?」
今朝の反応から察するに允花は間違いなく処女なのだから、そんなことはありもしない。断言してもいい。と、嵯峨は言うつもりだったのだが、周防は気まずそうに咳ばらいをして否定する。
「……――いや、それもあるかもしれないが、僕が言いたいのは、捜査資料の類を見られたり、得られた情報をどこかに流されたりしていないかということだ」
「ああ……そっちね」
それこそあり得ない。
「パソコンの資料にはパスワードつきのロックをかけてるからな」
昨夜自分が寝落ちしたままで触られた形跡自体なかったし、そもそも允花の言うことが本当なら朝まで自分は彼女を拘束したまま寝ていたのだ。何かされるはずもない。
(まぁこれは周防には言えねぇけど)
隠し事を見抜いているわけではないだろうが、周防の顔つきは厳しい。
「そんなに心配ならフロントに確認するよ。昨夜どこかに電話した形跡はなかったかって」
「うん、それがいい。懸念事項はつぶしていくに限る」
なんとなく、周防の捜査方針がわかった気がした。地道に粘り強く、遠回りしても諦めずに真実にたどり着く、きっとそんな感じなのだろう。年上から可愛がられそうだとも思えた。どちらも自分とは正反対のようで、なんとも据わりが悪い思いだった。
公園を歩きながらの会話はここで終わった。そのあとはとりとめのないことを話しながら遅い昼食を済ませ、彼らはそれぞれの行き先へと足を向ける。嵯峨は昨夜の礼を言おうと友人の経営するテレビ局へ、周防はどうにも疲労が抜けないので一旦仮眠を取るためにホテルへと引き返した。
テレビ局の入っているオフィスビルは、繁華街を少し外れたとおりにあった。決して新しいとは言えないビルだが、ところどころに段ボールが積み上げられ、引っ越し会社と思しきロゴの入ったジャンパーを着た男たちが歩き回っている。どこかのテナントが退去するのか入居するのか、いずれにせよ建物の中はどこか浮足立っていた。
嵯峨は一時間ほどロビーで待たせてもらったが、あいにく社長たる友人は会議の連続で時間が取れないらしかった。
「申し訳ございません。何かご伝言があればお伝えいたしますが」
巻き髪の華やかな受付職員に提案され、嵯峨は一つ、考えていたことを紙に書き留めて彼女に預けた。
「プライベートな内容で申し訳ないけど」
そう言い残して外に出る。タクシーを拾った頃には、街は夕刻を迎えようとしていた。
§
宿泊先のホテル――リビエラ・オリエント・台北――は、創業時はさほど有名でもランクの高いホテルでもなかった。が、三年前にアジアの一大コングロマリットである利鳳有限公司に買収されてからは建物自体の増改築を手始めに、レストランの総入れ替えとスタッフの再教育を実施。その甲斐あってか滞在客からも高評価を得、好評を勝ち取り観光雑誌や代理店では押しも押されぬ名ホテルと紹介されている……というのが帰りのタクシーで運転手から聞いた話だが、今朝の食事のことを考えれば確かに頷ける内容だった。
ちなみになぜタクシーの運転手がそこまで詳しいのかと言うと、なんのことはない。彼の勤め先もまた、数か月前に利鳳に買収されたらしい。しかし待遇は以前に比べて格段によくなったので、彼としては利鳳への忠誠心が増したのだと言う。
「先日社長に就任した二代目がそれはもう敏腕で」
と、聞きもしないことをべらべらとまくし立てる。世間一般には二代目はボンクラなケースが多いと聞くが、利鳳はどうやら後継者教育に成功したらしい。
「とは言っても会長――先代の社長ですが、その引退について揉めてるのが唯一の汚点でしょうなあ」
自分の口の軽さは棚に上げての運転手に、嵯峨は「そりゃ大変だな」と返すにとどめた。
タクシーはホテルのロータリーに入る。自然な動きでドアを開けるベルボーイも、ロビーに佇むポーターも、なるほど一流と思わせる優雅な所作だ。磨き抜かれた床に反射するきらびやかな照明も、二日と連続しては飾られない豪勢な生花のアレンジメントも、そんじょそこらのホテルではお目にかかれないだろう。こういう場所に出入りしていると、まるで自分も一流の人間になったようで自然と気持ちが大きくなるような気がして、嵯峨は苦笑しながら背筋を伸ばした。
フロントでは昨日と同じ女性スタッフが笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ」
「連れは部屋に戻ってる?」
タクシーの運転手の言うとおりだ。彼女たちスタッフは誰もが一流の名に恥じぬよう教育されていて、まあ当たり前だろうが、詮索したげな視線の気配すら感じられない。チェックイン時にフロントで揉める男女など怪しいだけだろうに。
「少々お待ちください。……はい、お戻りです。鍵はお持ちになっていらっしゃいます」
「そう。……ああ、それじゃあ、今から戻るって連絡しておいてくれるかな。締め出されちゃかなわない」
嵯峨が冗談めかして言うと、彼女はかすかに笑いを漏らしながら「かしこまりました」と受話器をとった。彼女が部屋に連絡するのを嵯峨はその場で待った。ロビー内は上品そうな宿泊客ばかりだ。自分もスーツにネクタイなので浮いてはいないと思いたいが、正直に言うと居心地が悪い。台湾は夜一みたいな、雑然とした感じがいいよなぁ、などと苦笑していると、受話器を置く音が聞こえた。
嵯峨は「もう一つ」と指を立てて彼女に尋ねる。
「ところで確認したいんだけど、昨夜寝ぼけて国際電話をかけたような気がしてさ……ちょっと確認してくれないかな?」
「通話の記録ですね? お調べするのにお時間かかりますがよろしいですか?」
さすがにその場でわかるものではないのだろう。
「ああ、それじゃ俺は部屋に戻るから、連絡してもらえるかな?」
「かしこまりました。10分ほどでお調べできますので、お待ちください」
§
「ただいま」
「おかえりなさい」
部屋のドアをノックすると、待ち構えていたのかドアはすぐに開かれた。服やらなにやら買い込んで上機嫌の允花が抱きついてきたらどうしようかといらぬ心配をしていたのだが、そこまで大胆でもなかったらしい。穏やかな笑顔で出迎える允花はやはり年相応の愛らしさがある。あるのだが――
「……どうしたの?」
ドアを閉めてもその場から一歩も動こうとしない嵯峨を、允花は不思議そうに見つめた。
怪訝な顔をしたいのは嵯峨のほうだった。
「どうしたのはこっちのセリフだよ……お前、なんで」
そんな地味な服を……。とは言えずに黙りこくってしまう。
允花は買った服に早速着替えていた。確かに新しい服は無難なものだが、今時こんなパッとしない恰好の十代がいるだろうかと思うほど允花のコーディネートは地味だった。
センタープレスのパンツとハイゲージのニットならカジュアルすぎもしないだろう。レストランに行けるような服という嵯峨のオーダーに忠実ではあるのだが、それは確かにそうなのだが、あまりにも――
「地味だな〜……」
「えっ」
直接言うのは気が引けていたが、やっぱり我慢ならなかった。
黒いパンツにグレーのニット。ああ、いつか法事の手伝いに来た叔母がこんな格好だったなと思い出してなおのこと嵯峨は渋い顔になってしまう。
「へ、変?」
允花は不安そうに全身を見回す。
「変じゃないけどさぁ……なんかこう……もっと女の子らしい恰好したいとか思わねぇの? 別にピンクとか赤とか着ろってわけじゃねぇけど、明るい色でフワフワ〜とかヒラヒラ〜ってしたやつをさぁ……」
正直、「允花がマイクロミニ丈なんか買ってきてたらどうしよう」とか「ヒョウ柄なんかはやっぱ不味いよなぁ」とか、そういう益体もない想像をしていたのだが、こうなってはその想像のほうがいくらかマシに思えてきた。
「薫さん、そういうのが好きなの?」
「いや、好きってわけじゃないけど……」
別に好みを押し付けるわけではない。ただ、年ごろの少女がこんな地味な服を選ぶ理由がさっぱりわからなかっただけだ。
「逆に聞くけど、お前さん、そういう恰好が好きなのか?」
だとしたらあれこれ口を出すのも筋違いだ。その場合は黙って矛を収めようと思ったのだが、やはりと言うべきか、嵯峨の直感は外れなかった。
「……好き、っていうか……」
口元に手を当てて、允花は気まずそうに目を逸らす。なにかしら後ろ暗いところがあるのは確実だが、やっぱり理由はわからない。言い淀む允花を嵯峨は黙って待っていたが、その口から出てきた言葉には脱力してしまう。
「これが一番……安かったから。あ、これ残りのお金」
思わずがっくりと肩を落とすところだった。
一体この子は何に遠慮しているのだろう? あれだけの金額を渡したのに、ほとんど減ってもいない紙幣の束をそっくり突き返してくる。それも笑顔で。もちろんそれは美徳だとは思うが、上下合わせても嵯峨のネクタイ一本にすら届かなさそうな安物で満足しているとでもいうのだろうか。
少なくとも、嵯峨は満足していない。それどころか不満だ。キレイに着飾った姿を見せてほしいのは下心あってのことではない。
(これじゃまるで、俺が甲斐性なしじゃねえか!)
まったくつまらん男のプライドだ。わかっている。自己満足でしかない。それもわかっている。わかっていても、どうしようもないほど突き動かされるときがある。
「允花」
「うん?」
言葉を選ぶためにうつむいた嵯峨の目に、允花の足元が目に入った。それだけ昨日のままなのか、やたらと毒々しいピンヒール。ミスマッチもいいところだった。それを目にした瞬間、建前という概念が消えてしまった。
「いやおかしいだろ!」
脊髄反射のように口走った一言に、允花は目を丸くして絶句した。
正直に言えば、自分の恰好が無難なつまらないものではないかという疑念はあった。けれどここまで言われるとは……と、ショックを受けて二の句も告げない。
「……」
その有様に嵯峨も遅まきながら失言だったと口を覆った。もちろん、吐いた唾は呑めないのだから撤回をする気もない。
「最初に言っておくけど、俺は別に、怒ってはいないからな」
念押ししながら、まるきり怒ってる人間の言うことだと矛盾を感じてしまう。何に怒っているのだろう。それすらわからないまま、口だけが感情のままに動いている。
「お前なぁ、あんだけ渡したんだから一週間分くらい買い込んでくりゃいいのに、何? 買ったの、たったそれだけ?」
「え、う、うん……」
「本気か? 明日はどうすんだよ」
「……ま、また着る」
「同じのを? せめて一週間――最低でも二日分くらいは買って来いよ……」
「だって、あれは薫さんのお金なんだから……」
「……」
いや、そうだけど。そうだけど、そうじゃないだろう。
「允花」
長い溜息の後、嵯峨は腰に手を当てて允花を見据えた。さすがにただならぬ気配を感じた允花も背筋を伸ばしてそれに応える。
「はい」
「俺だってな、安月給だけどそれなりに稼いでんの。わかる? 昨日儲けたこれっぽっちの金はな、台湾にいるうちに使い切ろうと思ってたんだよ。だから、渡した分を使い切ってくれても全然かまわないし、大体俺はお前さんがどんだけ着飾って出迎えてくれるか楽しみにしてたんだけどなぁ?」
「――……え!?」
「それなのに、ドアを開けたら喪服みてぇな恰好だもんな、俺はがっかりだよ」
「も、喪服!?」
見ているだけで気が沈むほどに暗い恰好だと言われて允花は目を白黒させた後、両方の眉を下げてしまった。
「ご、ごめんなさい……」
なんだかよくわからないけれど、どうやら不興を買ってしまったことだけは確実なので、允花はしおらしく謝ってみせた。
「いやもう、そういうとこだぞ、お前――」
指摘しようとした嵯峨の声は、内線電話のベルに遮られた。
「俺が出る」
反射的にそちらへ向かおうとした允花を遮り、嵯峨はコンソールデスクのほうへと大股で歩いていった。
「もしもし?」
「フロントでございます」
「ああ、どうだった?」
「はい、昨夜から今朝にかけては、お客様のお部屋からの通話記録はございませんでした」
「そう、よかった。俺は夢でも見てたんだろうな、うん、ありがとう」
「はい、失礼いたします」
これで懸念はひとつつぶれた。允花が外部に電話した形跡はない。電話以外の手段についてはわからないが、そうなるともう嵯峨たちの手に負える相手ではなくなってしまう。スパイ映画じゃあるまいし――いや、今はそういう話ではない。と、再び允花に向き直ろうとするとまた電話が鳴った。今度はなんだ。
「……はい」
「ああ、僕だ。少し早いけれどホテルのロビーに到着した」
相手は周防だった。言葉の通り、夕食にはまだ早い。いるよな、遅刻すまいとして妙に早く来るやつ……と、苦笑しながらポケットに手をつっこむ。
「俺は今さっき戻ったばっかりだよ。――ああ、コーヒーでも飲んで待っててくれ」
応答しながら煙草に火をつける間も、嵯峨は允花から目を離さなかった。所在なさげに佇む姿は頼りなく、今にもどこかに消えてしまいそうなほどだった。現に、ふかした煙草の煙の中で無彩色の彼女はまったく目立たない。
赤、ピンク、藍色。どんな鮮やかな色なら、彼女を引き立てるだろうか。
一瞬考え込みそうになった嵯峨は、受話器を置こうとする周防を引き留めた。
「待て。やっぱり今からそっちに向かう。夕食前に一仕事、付き合えよ」
「一仕事? 何かつかんだのか?」
「いや、その仕事じゃねぇんだがな」
男二人じゃ力不足もいいところだが、三人寄ればという言葉もある。
受話器を置き、煙草を揉み消した嵯峨は先ほどまでとは打って変わって晴れやかな顔になっている。それは允花にとっては不可思議で――妙に嫌な予感すらもたらすものだった。
2020/8/23 修正