台北恋奇譚

 翌朝、嵯峨が目を覚ましたとき、最初に認識できたのは腕の中から上ってくる花のような甘ったるい香りだった。はて、なんだろうかと視線をずらしていくと、すうすうと小さな寝息を立てている女性らしき姿が目に入る。
 ……やらかしてしまったのだろうか? と、考えながらも彼は冷静だった。自分の腕は彼女の腰と背中に回されている。くびれたウエストも、自分の身体に押し付けられた豊かなふくらみも、まごうことなき極上の肉体だった。こんな特上の女を部屋に連れ込むなんて俺もまだまだ捨てたものではない……などと浮ついた考えは徐々に消えていく。
 思い出せ、ここは台湾だ。自分は物見遊山に来たわけではない。これは捜査の一環で、昨日ともにホテルを訪れた相手は――
允花……?」
 返事を待つ必要もない。昨夜のことを完璧に思い出した嵯峨は、相手の顔をまじまじと見つめた。間違いない、允花が自分の腕の中で寝ている。しかも、素肌にバスローブ一枚で。
「なっ――うぉ!?」
 あわてて突き放すように離れたので、勢いあまった体はそのままベッドの端から転がり落ちてしまう。
「……痛ぇ……」
 格好悪すぎる。三十にもなって何をやっているんだ俺は……。
 そんな気持ちで尻から落ちた嵯峨は立ち上がろうとするが、ちょうどそのとき允花が目を覚ました。ベッドサイドで大声を上げたりドタバタやればさすがに目も覚めるだろう。
「……? なに?」
 瞼をこすりながらうつぶせた上半身だけを起こそうとする允花に、嵯峨は再び絶叫する。
「おまっ、前! 前! 見える!」
「え……? ほわっ!」
 バスローブがはだけていた。允花があわてて胸元をかき合わせる直前、一瞬何かが見えたような気がしないでもないのだが、眼鏡がないおかげではっきりとは視認できなかった。よかった、見えなくて。……ちょっと残念な気もするけど。
 気を取り直そうと嵯峨は咳払いをする。
「……俺の眼鏡どこ?」
「て、テーブルの上!」
 慌てたような声のとおり、テーブルの上、パソコンの脇に眼鏡が置かれていた。昨日のままなので埃やらで汚れたそれはとりあえずシャツの裾で拭い、眼鏡をかける。
「そっち向いてもいいか?」
「う、うん」
 なんとなく一呼吸置いて振り返ると、広いベッドの真ん中にバスローブのベルトをきっちりしめた允花がちょこんと正座している。どちらかというと小柄なほうである允花とキングサイズのベッドのギャップも中々おもしろいのだが、それよりも、
「……すっげえ寝癖だな」
「え? え? ああっ!?」
 背中の真ん中くらいまである長い髪が、うねり、跳ね、逆立ち、それはもう大変なことになっていた。まさしく「爆発した」と言ってもおかしくない状態に、嵯峨はとうとう耐え切れずに噴出した。
「ぶっ……っおまえ、どうやったら、そんななるの?」
「わ、笑わないでよ!」
 鏡が近くにないので允花は手探りして自分の髪がどうなっているのか確かめようとするが、なるほどこれなら誰だって笑うだろうと納得するに足る惨状なのは触っただけで理解できた。
 相変わらず嵯峨は腹を抱えて笑い転げているのでさすがに允花もむっとしてしまう。
「もー! 誰のせいだと思ってるの! 薫さんにベッドに引っ張り込まれたせいで乾かせなかったんだから!」
「……は?」
 とたんに凍りついた表情に、允花の胸にちょっとした悪戯心が生まれる。
「やっぱり、覚えてないのね……」
 しゅんとしたような顔で目を伏せると、嵯峨はひきつった笑みを浮かべた。
「え、いや、ちょ、なんだよ、俺が何かしたのか!?」
「すごかったんだから……昨夜……わたしのこと、無理矢理……」
「お、おい、どういう意味……」
「初めてだったのに……!」
 嵯峨をからかってにやにやしてしまう顔を隠すために俯いて両手で覆っているが、大方嵯峨からは悲嘆にくれているようにしか見えないだろうし、今頃真っ青にでもなっているのではないかと允花は予想していた。
「なのに何にも覚えてないなんて、ひどい……」
 追い討ちをかけたついでに鼻をすすってみるのだが、頭上からは冷静な一言が降ってくる。
「騙されねえぞ。お前、嘘ついてるだろ」
 ぎくりとして顔を上げてみると、呆れた嵯峨が煙草を咥えようとしていた。
「……あれ? ばれてた?」
「当たり前だっつの! もしそうならこんなにきっちり服着てるわけねえだろが!」
「えっ……そ、そういう……ものなの……?」
 何しろ経験がないものでまったくわからないが、允花よりも大人で経験豊富に違いない嵯峨が言うのだからきっとそういうものなのだろう。何も考えずに適当なことを言ったのが急に恥ずかしくなって、そして「そういう場面」をちょっとだけ想像してしまって、允花は頬を染めた。
「なんで赤くなるんだよ!」
 その恥ずかしさが嵯峨にも伝染してしまったのか、彼もまた、ライターに火をともすのにずいぶん手間取っている。
「いや、別に、それが普通かどうかは――そうじゃなくてだな、いいか、大人をからかうんじゃねえ」
 なんとかして吸い始めた煙草を片手に説教するのだが、動揺しているのは事実なのでいまいち恰好が付かない。
 允花は髪を気にしながら反論する。
「でもベッドに引きずり込んだのは本当だよ?」
 ぐっと言葉に詰まる嵯峨は、覚えがないと再び繰り返すが允花はすかさず畳み掛けた。
「そっちのソファで寝てたからベッドに連れてこようとしたら、わたしごと巻き込んで寝ちゃうんだもん」
「だったら殴ってでも逃げろよ」
「そんなのできるわけないでしょ! それに、一回逃げたけどまた捕まえられたし」
「……また冗談を」
「嘘じゃないもん! わたしのこと、だっ、抱きしめて離さなかったくせに!」
「はぁ!?」
 真っ赤になっているあたり今度は本当のことなのだろう。その程度で赤くなるとは初心で純情でかわいらしいとは思うが、それはまた別の話だ。身に覚えがなさ過ぎて嵯峨まで赤面してしまう。
「やだやだ! どーせ彼女か何かと間違えたんでしょ!」
「そんな女いねえよ!」
 これは事実だ。というか、さっきから事実しか言っていない。灰が落ちそうな煙草をそうっと金属製の灰皿へ運ぶ背後で允花はきょとんとしていた。
「そうなの?」
 さっきからめまぐるしく表情の変わる子だ。振り返った嵯峨は疲れ始めていた。
「なんでそこに食いつくんだよ……あーもういい。風呂入ってくる」
 朝から無駄な体力を使ってしまったとぼやきたいのをこらえ、嵯峨は着替えを片手にバスルームへと歩む。
 後に残された允花はしばらくぼうっとベッドの上に座っていた。
「かっこいいのに。恋人もいないのかな?」
 何かと人の色恋沙汰が気になる年頃でもある。学校に通っていたころは同級生とそんな話題で盛り上がったこともあった。友人達の恋人は、同じクラスだったり別の学校だったり、はたまた歳の離れた大人だったり。恋人との惚気話をもっぱら聞く専門だった允花だって、少しはそんな関係に憧れもした。結局、天道連に身売りされたせいで誰とも挨拶せずに学校は辞めてしまった。もう何もかもが夢のように霞んでいる。
 空しさにため息を吐いたのもつかの間、そのうち髪の毛の惨状を思い出し、ドライヤーがないか探し始めた。

§

「お前まだそのままだったのかよ……」
 シャワーを浴びた嵯峨が戻ってくると、允花は大きな鏡の前で憮然としていた。
「だって濡らさないと意味ないし」
「ああ、そりゃそうか」
「シャワー使うね。はい、これお先にどうぞ」
 元々やや癖のあるロングヘアなものだから、頑固な寝癖はちょっとやそっとでは直らない。允花はドライヤーを嵯峨に押し付けると、バスルームの中へ消えていった。
 それを確認して、嵯峨は南向きの窓にかかるクリーム色のカーテンを開ける。分厚い生地の向こうはあいにくの曇天が広がっていた。
 高層階の眼下には大きな道路がいくつも交差し、黄色いタクシーがひっきりなしに流れていく。煙草を咥えながら嵯峨はぼんやりとそれを眺めていたが、右側通行の道路にはまだまだ違和感しかない。多分日本に来たら、しばらく允花は左側通行に慣れないだろうな……いやいや、何故連れ帰る前提になっているのか。置いていく、置いていくぞ。断じて連れ帰ったりはしないのだから。
 そう考えて、少し心配になった。
 彼女の話を聞く限り、頼れる大人はいそうにない。一応は未成年なので親の元に返される可能性もなくはないだろうが、その父親に允花は売られたのだ。そうなった場合、果たして明るい未来が待っているとも思えない。かと言って、学も資格もツテもない少女が一人きりで生きていけるほど世間は甘くない。
 云豹の言葉が焼き付いている。

――お前も体を売るしかねえだろうが。

 皮肉なことだが、天道連によって彼女は『保護』されていたのかもしれない。それが、なまじ嵯峨たちが介入したためになくなってしまった。
「俺たちのせい、いや……」
 そんな短絡的な考えは馬鹿げている。とはいえ罪悪感のかけらが喉の奥にひっかかった小骨のようにちくちくと不快に疼くのも事実だった。
 罪滅ぼしに、少しくらいなら嵯峨も援助してやらないこともない。
「……そんなことする義理もねえか」
 施しなどかえって彼女を傷つけるかもしれないし、第一、台湾に何かしらの福祉制度があるだろう。自分は関係ない人間で、援助する筋合も多分ない。ゆきずりの人間にかかずらっているほど暇でもお人よしでもない。
 咥えていた煙草に、髪から落ちた水滴が染み込む。火をつければあっというまに蒸発してしまうほど、わずかな滴だった。
 日が高くなるにつれ、車も人も増えていく。もはや個を特定させないほどの流れと化した人ごみを、彼は見るともなく眺め続けていた。

 髪を乾かし終わったのとほぼ同時に空腹感を覚えたのだが、考えてみればそれなりのランクであるこのホテルの朝食ビュッフェには、胸元の空いた服の允花は連れて行けない。みっともないとかドレスコードがとか、そういう対面以前に周りから向けられる悪意あるいはある種の好奇に満ちた目に允花が晒されるのはあまりに気の毒だ。
 とはいえそれ以外に服はないし、かといって食べさせないわけにもいかない。今日はこれから周防と待ち合わせて警察局へ行かなければならないので、外に買いに行く時間もない。外食、それも服がないので無理だ。
「まぁ、ルームサービスしかないよなあ」
 コンソールデスクの引き出しからバインダーを取り出し、ばらばらとページをめくっていく。中国語と日本語と英語が並んだルームサービスメニューのページには、何種類かのセットが掲載されていた。中華粥朝食、和朝食、アメリカンブレックファスト。いずれも値段はさほど変わらない。写真も何もなく文字だけのメニューからはどれがおいしそうだとも判別つかない。
「和食ねぇ」
 このところ台湾ブームと聞いているし、日本人観光客も増えているのだろう。
 結局、そろそろ和食が恋しくなったので和朝食をオーダーすることにした。フロントへ連絡し、受話器を置くと允花が塗れたままの髪をタオルで押さえながら出てくる。
「ついでにシャワーも浴びちゃった。広くて綺麗なお風呂、久しぶりではしゃいじゃった」
 朗らかに笑ってみせる允花は、相変わらず分厚いバスローブのままだ。
「……」
「どうしたの?」
 自分が着る分については嵯峨はバスローブというものが好きではないので、いつも私物のスウェットの下とTシャツを着替えにしている。もっとも、今日はこの後すぐに出かける予定なので、今はスラックスとワイシャツを身に着けているが。
 一方で女性が着ているのを見る分には嫌いではない。色っぽいし、ふかふかとしたパイル地に包まれているやわらかい(に違いない)肉体を思えば抱きしめてみたくなる。きっと昨夜の自分はその欲求に素直に従ったのだろう。記憶がないのが大変惜しいが。
「いや、なんでもない」
 雑念を振り払うように視線を逸らした嵯峨が何を考えているのかなど允花は知らない。ただ嵯峨の手が受話器に伸びていたのを見て尋ねた。
「電話してたの?」
「うん。ルームサービスで朝飯をな」
 何気ない様子の嵯峨に、允花は目を丸くして驚いている。
「る、ルームサービスって高いんでしょ?」
「まぁそりゃ……でも所詮朝飯だ。目玉が飛び出るほど高いってわけじゃねえよ」
 実際、ビュッフェではないレストランの朝食メニューとさして変わらないようだったし。嵯峨は何でもないように言うが允花の不安は消えないらしい。
「でも……あ、ルームサービスって人が入ってくるの? わ、わたしどうしよう、着替えなんてアレしかないし」
 アレ、とは昨日着ていた胸空きドレスのことだろう。さすがにアレがこのホテルには不相応だということは彼女も理解しているらしい。おろおろする允花はもう髪のことなどすっかり忘れている。
「落ち着け。配膳する間は風呂場でもトイレでも逃げこんどきゃいいだろ」
「あ、そ、そっか! ん、でも、いつ来るの? 何分くらいかかる?」
「何もいきなり入ってくるわけねえだろ……来たら教えてやるから、とりあえず髪乾かせ、風邪ひくぞ」
 しっしっと手を動かして允花をドレッサーのスツールに落ち着かせ、嵯峨は再び煙草を取り出す。ごうと音を立てて噴出される熱風に、ぬれた髪がなびいている。子供のくせに色っぽいなと認めてしまう自分が悔しい。
「……」
 眉を寄せてしまった理由は、咥えた煙草が日本から持ってきた最後の一本だったから……だけではなかった。

§

 ルームサービスのワゴンは、オーダーからきっかり三十分後に届けられた。手はずどおりに允花はドライヤー片手にバスルームに逃げ込み髪を乾かし続けている。嵯峨だけが残った部屋の中に、ワゴンに載せられた食事が運び込まれた。
「お待たせいたしました」
 切れ長の目をしたボーイが折りたたみのテーブルをてきぱきと広げ、清潔な白いクロスがかけられる。さすがに手際よく食事の膳が整えられ、あっという間に豪勢な朝食が目の前に現れた。
「ありがとう」
 チップを渡しながら、嵯峨は彼の顔をじっと見た。どこかで会ったような気がする。
 記憶を紐解こうとするのだが、思い出せない。しかし高級ホテルの従業員と以前に面識があったとは思えない。気のせいだろう。何か用かと言いたげな彼に、嵯峨は言い淀みながら質問した。
「あー、ところでこれ、終わったらどうしたらいいのかな?」
 なにせルームサービスを頼むことなど人生で初めてだ。ボーイは人のよさそうな笑顔を浮かべる。
「お済みになりましたらフロントへご連絡ください。片付けに参ります」
「そう、ありがとう」
「では失礼いたします」
 彼が一礼して去った後、嵯峨はバスルームのドアをノックした。ついさっきまで響いていたドライヤーの音はやんでいる。
允花、いいぞ」
「はぁい」
 しばらくして彼女が顔を出す。綺麗にブローもされた髪は、毛先だけがゆるやかにカールしていた。うなじが見える昨日までの色っぽいアップスタイルとは打って変わって、今日の彼女はずいぶん清楚でかわいらしい印象だった。これなら制服でも着せれば確かに女子高生に見えるだろう。化粧のせいもあっただろうが女とはよくもまあ変わるものだ……というかこれが本来の姿に違いない。
「もう終わったの?」
 厚めの前髪の下から上目づかいに問われて、年甲斐もなくちょっとどぎまぎしてしまう。嵯峨はさりげなく目をそらした。
「ああ。早く食おうぜ、冷めちまう」
 献立は切り身の焼き魚、青菜のおひたし、大根おろしが添えられた出汁巻き卵、香の物、野菜の煮物の小鉢。それからおひつの中にはつやつやの白米がたっぷり三人前は入っているし、椀の中身は赤だしだった。
「わあ! おいしそう……! でもこんなにたくさん食べられるかな……」
 允花は目を輝かせたり不安がったりせわしない。
「食え食え。成長期だろ」
「過ぎてるし。朝からこんなに食べたら太っちゃうなぁ」
「こんなもんじゃ太らねえよ」
「もー……」
 椀の蓋を脇によけ、嵯峨は中身をすすった。旨い。下手な旅館よりも断然旨い。日本人の料理人でもいるのだろうかと感心してしまう。
「薫さん、ご飯このくらいでいい?」
「ん」
 允花はかいがいしく茶碗にご飯をよそう。綺麗に盛られた白米を受け取りながら、なんだか新婚のようだと思いついてしまった嵯峨は渋面になる。……何考えてんだ俺は。馬鹿馬鹿しい。
「いただきます」
 そんなことは露知らず、丁寧に両手を合わせる允花も、卵焼きを口に入れるなり顔をほころばせる。あんまり幸せそうにしているので嵯峨はつられて笑ってしまった。
「旨そうに食うなあ」
「だって、おいしいんだもん。こんなにおいしいの初めて! あ、こんな素敵なホテル自体、初めてなんだけどね」
 卵焼きを飲み込んで一気にまくし立てる允花に苦笑してしまう。
「まあ、わからんでもないな。俺もこんなとこ初めてだよ。ルームサービスもな」
 青菜のおひたしを口に運ぶと、上品な出汁が口の中に広がる。普段は野菜だけの地味な一品に特段の感想など抱かないのだが、これは旨いと感心してしまった。こんなものを食べては明日以降もルームサービスを頼みたくなってしまうじゃないか、どうしてくれる。と、八つ当たりのようなことを考える嵯峨の向かいで允花が箸をおく。そっと添えられた両手の指先が、何かをためらっているように見えた。
「どうした? 嫌いなもんでもあったか?」
 彼女はふるふると首を横に振った。
「ルームサービス、わたしのせいでしょ?」
 じっとまっすぐ嵯峨を見つめながら、允花は申し訳なさそうに言葉を漏らした。
「わたしの格好じゃ、レストランにも行けないもんね。わざわざ頼んでくれて、ありがとう……ごめんなさい、面倒かけて」
 本心からの謝罪は、聞いているほうが心苦しい。相手が子供ならなおさらだ。
「そういうときはな、子供は礼だけ言っときゃいいんだ」
 嵯峨は何でもないようにさらりと流す。焼き魚の身をほぐす箸の動きは止めぬままに。
「気にすんなよ。俺は旨いもんが食えて満足してる。金なら……昨日くすねたのがあるしな」
 いたずらっぽく笑ってみせると、允花もようやくくしゃりと笑った。
「……ありがとう」

§

 食事を終えその片付けも済んだ後、嵯峨は身支度を整えつつ允花に疑問を投げかけた。
「そういやお前さん、なんで日本に行きたがってるんだ? 親戚でもいるのか?」
 允花は少し考え込むような顔をして、首を横に振った。
「……ううん」
「じゃあ日本に渡ったところでどうすんだよ。大体、留学するとか働くとか、ちゃんとした理由がねえと滞在許可が下りねえよ。そうなりゃ不法残留で強制送還だ。意味はわかるな?」
 薄い水色のシャツにきゅっとネクタイをしめ、ネイビーの背広を羽織るとまともな社会人に見える。胡散臭かった昨日と打って変わって、説得力に溢れる格好になったせいか、允花はろくに口も開けず黙ってうつむいていた。
「うん……」
「そもそも日本で何がしたいんだ? 勉強か? 働きたいのか?」
「……」
 なんとなく台湾よりもいい暮らしができそうだから、とは言えなかった。さすがに、大人である嵯峨相手にそんなことを言えばあっというまに論破されて問答無用で置き去りにされるだろうことは予想がつく。
「考えなしか? まぁ……なんとなく外国にあこがれる気持ちもわからんでもないが、もっと具体的に考えないと連れて行くなんて到底無理だぞ?」
 そもそも何があろうが連れて行くつもりもないのだが、それは口にはしない。
 允花は、諭すような口ぶりが嫌だとは思わなかった。この人は信頼できる大人だとわかりはじめていたからかもしれない。
 嵯峨は最小限の荷物を背広やらスラックスやらのポケットに詰めながら穏やかに続けた。
「何が何でもこっちに残れって言うわけじゃないけど、今どき日本じゃなきゃできないってことはそうそうないぜ。もう少し、よく考えないとな」
「うん……」
 嵯峨もまた、允花が存外素直な態度なので驚いていた。このくらいの歳の子は、お小言を言う「オッサン」には無条件で反抗するものだとばかり思っていたので面食らったと言った方がいい。
 しかし、允花のしおらしい態度はどこか痛々しい。嵯峨は笑い交じりに嘆息する。
「……ま、とりあえず今日は服でもパーッと買って来いよ」
 顔を上げた允花の目の前にはそれなりの厚みの札束が差し出されている。これを使えということなのだが、当の本人は面食らったまま指の一本も動かさない。
「え?」
 紙幣に手を伸ばすこともせず、少し混乱しながら允花は別のことを尋ねてしまっていた。
「薫さんはどこか行くの?」
「俺は仕事。周防と警察局に行ってくる」
「そっか……」
「なんだ、寂しいのか?」
 からかったつもりだった。
「……うん」
 しゅんとしたような顔を見て、それはずるいぞと言いたくなる。
 一夜明けて共に食事をしながらしみじみと感じたのだが、明るい光の下で見る允花はカジノの暗い照明の下で見るよりもずっと魅力的なのだ。もし彼女があと十ほど歳を重ねていて、酸いも甘いも知り尽くしたような大人の女だったら、夜のカジノでもその魅力はかき消されなかったに違いない。(ついでにうっかり食べてしまっていたかもしれない。)けれど允花はまだ十七で、初心な少女にすぎない。日の光に照らされてつやつやと輝く髪も頬の赤みも、薄暗い洞の中では霞んでしまう。そんな可憐な少女が寂しげな顔をしていれば、男はどうしても保護欲をそそられる。しかしそれに構ってはいられないのも事実だった。
「……メソメソしてたらまたねじこむぞ」
「は? あ、もう! えっち!」
 紙幣を三つ折りにして『胸元にねじ込む』動作をしてみせると、允花は目元を恥ずかしそうに染めて嵯峨の肘のあたりを軽く叩いた。
「ハイハイ。いいから受け取れ」
「いいの?」
 無理矢理手のひらに握らせると、允花は大方の予想通り困惑を隠さない。
 おそらく本来は気が強くはない大人しい子なのだろう。昨日までの彼女は、過酷な環境で生きるために作り上げた盾のような人格だろうか。
 痛ましい。
 そう思うそぶりも見せず、嵯峨は面倒くさそうな顔をしてみせた。
「いいも何も服がねえといつまでもルームサービスじゃねえか。なんでもいいから、好きなの買ってこいよ。夜はそれ来てメシ食いに行こうぜ。ちゃんとしたとこにもいけるやつな、かわいいやつ、セクシーなのは駄目」
 嵯峨の言い分が理にかなっていると思ったのだろう。允花は台湾ドルの束を両手で大事そうに包み込んだ。
「うん! ありがとう!」
 かわいい。年相応の笑顔を見せられるくらいには、允花はまだスレてもいないし諦観もしていないのだろう。なんとなくほっとした嵯峨は、忘れていたライターをポケットに入れてドアノブに手をかけた。
「じゃあ先に出るから。ああ、出かけるときは鍵はフロントな。それから、外に出るとき俺のコート着て行っていいから」
 薄手のトレンチコートがあれば、とりあえず允花も外には出られるだろう。
「はぁい、いってらっしゃい!」
 小さな手を振られ見送られて、また「新婚さんのようだ……」などと考えてしまう。
 ゆるんでいそうな頬を気にしながら嵯峨はエレベーターホールへと歩き出した。

2020/8/4 修正