雨の日曜日

「……あーあ」
 勘が外れた悔しさと、うかつな自分への落胆。スーパーマーケットの出入り口から見える外は、灰色の雨でどんどん染まっていく。店内に駆け込んでくる人たちは全員が買い物のためだけではなく、雨宿りを求めての人もいるのだろう。傘を持っている人は、私の視界の中にはいなかった。もちろん私も傘なんて持ってきていない。午後から天気が崩れるのは知っていたけど、こうも早く切り替わるとは思わなかったし、こんなにひどい土砂降りになるなんて思いもしなかったから。
「帰りまではもつって思ってたのにな……」
 重いビニール袋が指に食い込む。こんなに買い込むつもりはなかったのに。こんな天気になるなら、最低限の買い物で済ませたのに。
 悔やんだところで仕方がない。食料品の返品なんて気が引けるし、休日のスーパーは人も多い。忙しそうな店員相手に余計な仕事を持ち掛けるのはなんとなく気が咎めた。
「……」
 自動ドアを出て、軒下でしばらく待ってみる。いつまでも中にいるのは邪魔だろうし、なんだかちょっと恥ずかしい。見上げた曇天は重苦しく、一向に晴れそうもない。駐車場から走ってくる人、駐車場まで走っていく人。いくつかの影を見送る間も雨脚は弱まらない。どころか、
「酷くなってきたなぁ……」
 小降りになるまで待つつもりだったけど、どうやら無駄なあがきかもしれない。涼しい季節でもないから、あまり待ちすぎるのも買った生鮮品によくはないだろうし。ずぶ濡れになっても歩いて帰るっていうのは……さすがに恥ずかしいし、ナシかな。こうなればタクシーで帰ろうか。そんなにかからないといいけど――ああでも、一応は隠れ家みたいな家だから、あんまり人を寄せ付けたくはない。人除けの結界の意味がなくなってしまうし……。
(大体、なんであんな、工業地帯だか倉庫地帯だかわかんないところにするかなぁ)
 せめて住宅街の隅っことかなら、まだ不自然じゃないのに。恨みがましく思うのは平崎の丸瀬さんではなく、偏屈な同居人のほうだった。丸瀬さんはちゃんとしたマンションだって紹介してくれたのに、あの人は「広いから」という理由で、中途半端な完成度のビルもどきを選んだ。
(まあ確かに。人目を避けるならいいかもしれないけど、木を隠すなら森の中って言うのに……!)
 今更愚痴ったところでどうしようもないし、そもそも愚痴を言うつもりもあんまりなかったりする。数年一緒に暮らして何をいまさら、だし。
(……惚れた欲目ってやつかな)
 たとえ買い物についてきてくれなくても。たとえ家事なんて一個もやってくれなくても。……私と暮らしていることなんてまるでないことみたいに、盗聴バスターだか盗聴屋だか、もうどっちかわからないような生業に没頭していても。
 自動ドアのほうを見ると、鮮やかな傘の下でつながれた手が目に入る。見知らぬ誰かたちの幸福、きれいなもの、望んでもかなわないもの。
(……迎えに来てくれたり――ないか)
 買い物袋が重くなった気がした。
(あのビル、防音だけはバッチリだもん。こんなに降ってても気づかないだろうな)
 雨は止まない。
 それでも投げ出したいなんて思うことはなかった。報われようなんて思ってない。こんなことは私にとっては当たり前のことで、あの人に顧みてもらうことのほうが苦しくなる。
(そもそも私が買い物に出てるの気づいてないかもしれないし)
 だから、平気。一人で帰れるし、雨に濡れるのも嫌じゃない。
(……強がってなんか、ないし)
 なのに、やっぱり私の予想は外れるらしい。

「――いつまで突っ立ってんだ」
 
 うつむいていた顔を上げた先があんまりにも面倒くさそうな顔だったので、何をどう言ったらいいのかわからなかった。
 薫は片手でビニールの傘をさして、もう片方の手に私の傘を下げている。あ、傘は一本じゃないのか、なんてわずかにがっかりするのは、罰当たりなんだろうか。
「……なんで?」
 ビニール傘を閉じて軒下に入り、私の隣でポケットから出した煙草に火をつける。深く吸った一口目をため息のように吐き出すと、眇めた目は私を優しく(そう思ってしまうのは、私の欲目に違いないけど)見下ろした。
「何がだよ」
 私の質問を掘り下げるような物言いで、私の質問には絶対に答えないとにじませる。それはまるで、私を迎えに来てくれたことも、私が出かけていたのを知っていたことも、この人にとっては当然の行為でしかないのだと言われているみたいだった。
「じゃなくてだな、お前何をそんなに買ったんだ――重ってぇ……」
 そうして当たり前みたいに、重いほうの買い物袋を奪われる。
 ビール、安かったんだよ。いつか美味しいって言ってたウイスキーも珍しく残ってたんだよ。
 ここぞとばかりに恩を着せてやりたいのに、全然口が動かない。うれしいのか悔しいのかわからなくて、感情は目いっぱい、なぜか目から溢れそうだった。
(――あ)
 もう一度うつむいた視線の先で、薫のスラックスは裾からびっしょり濡れていた。
 ひでぇ雨だな、と、誰にともなくつぶやいて煙を吐いている。いくらひどい雨だって、こうまで濡れはしないと思う。
(――走ってきてくれたのかな)
 なんて、問いただしても、否定されるかはぐらかされるかのどっちかに違いない。それに、もうどっちでもいい。
「……おい」
 煙草のにおいが強くなる。湿った空気の中で、ひときわ重そうな存在感。
「何?」
 袖をまくった腕に、触れそうで触れられない。買い込んだ買い物袋が足に当たって、ちょっとだけ忌々しい。
「くっつくなよ、暑苦しい」
 気だるそうな物言いも、困っているのを誤魔化しているだけにしか聞こえない。煙草臭くてもだらしなくても、この人は本当は、優しい人なのだ。残念ながら私だけに優しいんじゃないだろうけど、このことを知っているのは私だけ、そうならいいのに。そのくらい、許されてもいいと思う。
「……吸い終わったら帰るぞ」
 半分ほどに短くなった煙草を名残惜しく思ったのは、私のほうだった。
「……もう一本吸ってもいいよ?」
「ああ?」
 予想しなかった答えだったのか、薫は眉をひそめた。
 変な奴。そう言いたげな視線がまた雨に奪われる。
 少しだけ、胸がすっとした。だって、二つの傘にばらばらになったら、今より遠くなってしまうから。そんな、私のどうしようもない願いに、鋭いこの人が気づいてないのがうれしかったのだ。

- 了 -
2020/5/20