前提として、薫君が浅井さんに盛大に失恋しております。

新世界協奏曲

 嵯峨薫、という同期がいる。
 同じ年に合格して、司法修習でウマがあって、毎晩のように飲み歩いた仲だ。歳は向こうが一つ下。故郷も違えば女の好みも違うが、不思議と俺たちは話が合った。知り合ってたかだか1年にも満たないというのがまるで嘘のように。
 しばらくはそれぞれ別の土地に赴任していたのだが、年に何度か酒を酌み交わすことは欠かさなかった。しかしそれも、揃って珠阯レ地検に配属された年にはがらりと変わる。察しの通り、酌み交わす頻度がほぼ毎日に変わっただけで――というか、あの頃に戻っただけか。
 大体は青葉区のパラベラムで、時間に余裕があれば鳴海区まで足を伸ばしてエボニーに。本当に時間も余力もないときは、官舎のどちらかの部屋だった。
 まあ、楽しかった。もしもお互い家庭があったならこうはいかなかっただろう。独り身同士の気軽さを敢えて口に出すことはなかったが、このところの嵯峨は少し違った。
「めんどくせぇだけだよ、しょい込むモンが増えるとさぁ」
 コンビニで適当に買った安酒を呷りながら笑っているが、嵯峨の目にかつてほどの覇気はない。
「あ、言うじゃねぇの薫君?」
 まぜっかえすのも何度目だろうか。この男、結婚なんて興味ないしめんどくさいだけなどと言っていたくせに、先日見事に失恋し、現在進行形でやけ酒を浴びるほど飲んでいるのである。
「浅井君なぁ……年度末で辞めるんじゃねぇかなぁ」
 ぼそりとつぶやくと、嵯峨は「ああ」だか「うう」だか、よくわからないうめき声をあげた。
 珠阯レ地検の誇る才媛、いや才色兼備、ミス珠阯レ地検と言ってもいい、とにかく浅井(もちろん、旧姓)美樹という事務官を狙っていた阿呆は少なくなかった。阿呆というか、身の程知らずと言ったほうが適切かもしれない。その身の程知らずの中で一番入れあげていたのが、この哀れな嵯峨薫君というわけだった。
「諦めの悪い奴だな。もう式から2か月経つぞ? そんなに悔しがるならさっさとモーションかけりゃよかったんだよ」
 担当事務官に手を出すのが憚られるという気持ちはわかるが、こんなことになって嘆くくらいならさっさと口説くなりしていればよかったのだ。
「……んなことができたらやってるよ」
 嵯峨のグラスが空になっている。
 やり手だのエリートだの言われても恋愛面ではこれだ。両手で顔を覆って、コイツ今に泣きだすんじゃねぇのかと疑わしくなるほどに、情けなく不甲斐ないのが嵯峨薫なのだ。おかげでこのところ、俺は友人と飲んでいるというより、弟を慰めている気分だった。
「……まぁでも、そこまでメソメソできるほど本気になれるってのはよ、うらやましいぜ、正直」
 それは俺の本音だった。過去の偉人曰く、愛してその人を得るのが一番で、二番はその愛した人を失うことらしい。
「慰めになってねぇよ」
 語って聞かせたところで嵯峨の声は不貞腐れた子供のようだったので、思わず俺は笑ってしまった。
「ま、次があるだろ。人類の半分は女だ。お前を癒してくれるような、いーい女が見つかるといいな」
「……そんな女、いるわけねぇ」
 とうとう嵯峨はテーブルに突っ伏してしまった。
 どうやら、傷は深いらしい。

§

 夜な夜な奴の愚痴を聞く羽目になっていた日々は、突如として終わりを迎える。嵯峨に海外出張が命じられたためだった。
 なんでも警察と合同調査で台湾へ飛ぶらしい、ということしか聞かされていなかったが、まあ奇妙なことだ。なぜ嵯峨に白羽の矢が立ったのかは知る由もないが、「嵯峨検事、学生時代は中国に留学してたらしいですよ。中国語ペラペラなんじゃないですか?」という、わけのわからん噂くらいしか耳に入らなかった。
 気にはなったがそれはそれ。俺は俺でやらねばならん業務がある。第一仕事だけは手の早かった嵯峨がいなくなった分、ほかの人員に割り振られる業務量が増えたのだから忙しさは四割増しにはなった気がした。そのくせ仕事が終わっても嵯峨がいないもんだから酒を飲み行くのも味気ない。あいつ、早く帰ってこねぇかなぁと思う俺の心理はたぶん、小学生のガキと同じなのだろう。
 そんな日々が一か月は続いた。飄々とした態度で嵯峨が現れたのは、聞かされていた合同捜査の終了予定日よりも二週間遅かった。
「えー、昨日無事帰国しました。皆さんにはいろいろと迷惑と――心配もおかけしました」
 なんでも、現地でマフィアに襲われて銃撃戦に巻き込まれ、重傷を負って入院していたらしい。その一報を聞いた時には血の気が引いたが、今目の前でけろっとした顔でしゃべる本人を見ている限りでは、到底真実とは思えなかった。重傷というのは大げさに言っただけだったのだろうか。
 まあ無事で何より……と、全員が頷き拍手しようとすると、奴はあろうことか、耳を疑う一言を付け加える。

「それと私事で恐縮ですが、この度結婚しました」
 
 珠阯レ地検の全員が動きを止めた。
 俺も、事務官も、検事正も。
 後ろで組んでいた両手を前に持ってきた嵯峨の左手には、確かに見たこともない指輪が嵌っていた。

§

 それからのヤツは……まるで人が変わったとしか思えなかった。別に仕事ができなくなったわけではない。相変わらず手際はいいし無駄に要領はいいしで腹が立つ。変わったのはそれ以外のことについてだ。
 まず終業後はまっすぐ家に帰るようになった。それもいつの間にか官舎を出て蓮華台に新居を構えたらしい。「今度招待するよ」と言われたものの、なんだか気味が悪くて返事をしていないし、それは俺の誘いを断る詫びにはなってない。
 次に昼食だ。これまでは近所の蕎麦屋とか出前とかコンビニ弁当で済ませていたのに今じゃまさかの愛妻弁当。細君は料理の『修行中』らしく腕前はまだまだらしいがその夫は毎日蓋を開けるたびに「昨日より上達した」とほめてみたり「今までに見たことない料理だな、新しいことに挑戦してるんだな」と感心したりせわしない、らしい。俺は見ていないので知らんが。
 とにかくあまりの豹変ぶりに珠阯レ地検はしばらく浮足立っていた。
 俺もそうだ。あいつ、台湾で何か変なものでも食べたんじゃないか――とは言わないが、別人と入れ替わって帰ってきたのでは? あるいは、誰かに脅迫・洗脳されているのでは?

「……君も心配性だな」
 部長を問い詰めると、予想はしていたがまず呆れられた。しかし女っけのなかった嵯峨がいきなり結婚するなんて到底現実的ではないと俺が一番わかっている(はずだ)。俺の知らないところで嵯峨にそういう機会があるとしたら台湾での一か月しかない。しかしその短期間で人生の伴侶を決めてくるなんておかしいとは思わないか?
 俺の主張を一応聞いて、部長は軽い溜息を吐く。
「言わんとすることはわかるが、彼女の身元については確認済みだ。まぁ若すぎるというのは確かにそうだが、18歳といっても向こうでは成人扱いというし身元引受人も――」
「ちょ、ちょっと待ってください! 18!?」
 食ってかかる俺から逃れるようにのけぞりながら、部長は面倒そうに眉を寄せる。
「知らなかったか? 女性は16になれば婚姻可能だぞ」
「いやそれは知ってますけど――18って……」
 それでいいのか、嵯峨薫。一回り下じゃないか、嵯峨薫――!

§

 混乱しながら特別刑事部長の部屋を出ると、丁度昼時になっていたらしく廊下がにぎわっていた。俺は正直それどころではないのだが、食事をしないという選択肢はない。午後の業務に差し支えるし、無理にでも何か腹に詰めなければ……と、歩いていると、エレベーターの真ん前で当の嵯峨と鉢合わせた。
「おっ、メシか? なら一緒に行かねぇ?」
 片手をあげて気さくに誘ってくれるが、俺は怪訝な顔しかできない。
「弁当じゃねぇのか?」
 女子職員の間では嵯峨の弁当観察が流行っているらしいと聞く。妙な出歯亀というわけではなく、妹か娘の成長を見守る心理、だそうだ。そのくらいの話題になっているほどなのに、弁当を食べなくていいのかと聞くと、ヤツはなぜか落ち着かない顔でニヤニヤしはじめる。かと思うと俺の耳元に顔を近づけた。
「昨夜頑張りすぎちゃってな、朝起きれなかった」
 ……正直、ちょっと気持ち悪かった。耳元で囁かれるのも、その内容も。何より「お前そんなこと言うヤツだったっけ!?」という衝撃で俺は絶句してしまった。嵯峨は何を思い出しているのか融解しそうなほどのデレデレ顔でエレベーターに乗り込む。俺の足も無意識にそれを追うが、思考のほうはついていかない。いやついていきたくはないけど。
(……俺と飲み明かしてた時期はお互い女っけなかったしな。恋人がいたならああいう猥談もしたかもしれんし……)
 懸念事項があるというのがそもそも気持ち悪い性質なので、俺は無理矢理自分を納得させることにした。
 腕組みした嵯峨の左手には、真新しい銀色の指輪が光っている。
 変わったな、と、思った。というか、痛感した。あの嵯峨薫がこうまで変わるものだろうか。結婚おそるべし。俺はこうはなりたくねぇなぁ……いや僻んでいるわけではなく……と、しているうちにエレベーターは1階に到着し、俺と嵯峨は守衛詰め所の前を通って2月の寒空の下に出た。日差しはあっても気温は低いし風も冷たい。
「寒っ! なあどこ行くよ」
「近くでいいだろ。蕎麦屋……は、昨日行ったな」
「どこでもいいから早く――」
 寒さに肩をすくめながら歩いていた俺たちだが、嵯峨は急に足を止める。新婚ボケで財布でも忘れたのかと振り返ると、
允花!」
 今度はいきなり走り出す。ゆんふぁ? 聞きなれない単語に嵯峨の後ろ姿を視線だけで追った俺は、その先の小さな影に納得せざるを得なかった。
 庁舎を出たすぐの歩道、古いブロック塀に軽く身を預けて少女が佇んでいた。少女、うん、少女にしか見えない。見えないのだが、あれはたぶん嵯峨の――
(……幼な妻、ってか)
 オッサンくさい言い回しに我ながら辟易するが、妻とか細君とか配偶者とか、そういう言葉よりはずっとしっくりくる気がする。いや、だって、18と言ったら高校生か大学生か、そのくらいの年ごろの、遊びたい盛りの、未成年じゃないか!
(待てよ)
 ふと気づく。俺は今まで、嵯峨のほうが騙されているんじゃないかと疑っていたが、普通逆じゃないか? つまり、いい歳こいた嵯峨が、年端も行かない少女をたぶらかしだまくらかして手籠めに――
(……ありえないな)
 駆け寄った嵯峨を見て、彼女は真っ赤な頬で笑いかける。直後に驚いたような顔をするのは、きっとあいつがコートも着ていないからだろう。自分の肩にかけていたストールを慌てたように解くと、背伸びして嵯峨の首にかけようとする。が、嵯峨も嵯峨で、彼女の頬が真っ赤なものだから「待ちぼうけて体が冷えただろ」とでも言っておしとどめているに違いない。うーむ我ながら鋭い洞察力だ。間違いなくこの類の甘ったるーいやり取りがなされている確信があるし、そもそも彼女がここまで来たのは昼食の弁当をわざわざ作って届けるためだろう。
 いい表情だと思った。陽だまりの中で笑いあう二人が、お互いを想いやっていることがよくわかる。俺だって朴念仁ではないし好きあった女だって過去にはいた。あんな顔を向けられたことも、向けたこともあっただろう。霞のかかったような思い出しかもう残っていないけれど、懐かしい感傷がじわじわとにじみ出てくる思いだった。
 嵯峨は結局、俺をほっぽって彼女と弁当を食うことにしたらしい。誘っておいてなんだがと謝罪されたが、「公園も近いことだし、たまにはいいんじゃないか」そう言うと、意外そうな顔で俺を見ている。
「いや、お前はこういうのどうでもよさそうっつーか……」
 むしろ白けられてんじゃないかと思ってたぜ、と、嵯峨は頭を掻く。
 失礼な男だ。
「言っただろ、いい女が見つかるといいな、って。――嫁さん泣かすなよ」
「当たり前だろ」
 からかい交じりの言葉に憤然とした言葉が返される。惚気を聞かされているようで多少は釈然としない気持ちもなくはないが、祝福してやるべきなのだろう。
 嵯峨の肩越しに、少し離れたところに立つ彼女を見る。軽く頭を下げると、慌てた様子で緊張気味に会釈を返された。

 こうして俺の元から飲み友達が一人去っていったわけだが――ま、あんなメソメソした愚痴を聞かされるよりはだいぶマシと言うものだ。
 願わくば彼が戻ってこないことを――月3以上の頻度では戻ってこないことを、友として祈りたいものだ。

- 了 -
2020/6/20