台北恋奇譚

 空調の音がかすかに聞こえる。薄暗いはずの部屋がほのかに明るいが、分厚い遮光カーテンがかかる窓は一筋の光も許さないので、きっと部屋の照明だろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、允花は滑らかなシーツの中でゆっくりと目を開いた。
 身じろぎするより先に、何か軽く、硬い音が繰り返されていることに気が付く。それは允花がこれまでに聞いたことのない種類の音だった。等間隔だったり、ずいぶんと間が空いたり、不規則な動きは有機的なものに感じられる。允花はその正体を見極めたくて、心地よいまどろみを突き放して起き上がった。
「――ん、起きたか」
「……かおるさん」
 声のほうを振り返ると、嵯峨が机の上のノートパソコンに向かって何かを打ち込んでいる最中だった。どうやら音の正体はキーボードをたたく音だったらしい。
「おしごと……?」
「ああ。報告書、さっさと作ったほうが楽だからな」
 嵯峨はほとんどキーボードを見ていないが、打鍵音は断続的に聞こえてくる。いわゆるブラインドタッチで黙々と作業をする嵯峨を允花はしばらく見つめていたが、
「……そう見られると恥ずかしいんだけど」
 小さく苦笑しながらの嵯峨の一言に顔を熱くさせてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
 指摘されたのは事実で、允花は彼に見惚れていた。鋭さを感じさせる目で画面を見つめ、時折考え込むように眉間にしわを寄せたり頬のあたりに片手で触れている顔に。端的に言うと、仕事をしている最中という、允花にとっては知ることもできないだろう彼の様子は――
(……かっこいい)
 その一言に尽きた。昨夜の食事時のような人懐っこさを感じさせる顔とは全く違っていた。むしろそういう顔を先に見ていたから、今のような真剣な顔にどぎまぎしてしまう。あまり見すぎるとさっきみたいに指摘されるし照れくさい。
 そう思いつつも、允花はまたチラリと嵯峨の方を見てしまう。すると見計らったかのように眼鏡の奥の目が自分を見つめてくるのだからたまったものではない。目を逸らすことも何を言うこともできず数秒、視線が合っても何も言わなかったくせに、嵯峨は再び画面に目を落とすと歯を見せて笑った。
「なーに?」
 意地の悪い笑い方だった。嵯峨は、允花が自分に見惚れていたことを知った上であんな顔をして笑っているのではないか? と、疑いすら浮かんでくる。允花はほんの少しだけ頬を膨らませて、ベッドの上で膝を抱えた。彼が大人の男だと改めて実感したような気分だった。
「……」
 ふと視線を落としながら、允花は自分が広いベッドを占領していたことに気づいた。寝入る直前は嵯峨も同じ場所にいたはずなのに。もしかして追い出してしまったのだろうか。
「薫さん」
「んー?」
「ちゃんと寝たの?」
 返事はない。
 寝ていない、というか、眠れなかったのかもしれない。もしかして自分のいびきがうるさかったとか、寝相が悪くて蹴り飛ばしたりしてしまったとか、そういう無作法をやらかしてしまったとか――と、允花が一人で顔を青くしていると、嵯峨はノートパソコンを片手で閉じて背伸びをし始めた。
「寝たよ?」
 そのまま首を左右に倒したり、肩を回したりして体をほぐしている。仕事が終わったのか一区切りついただけなのかはわからないが、とりあえず今、これ以上進める気はないらしい。
「何時に起きたの?」
「あー……五時ぐらいかな」
 允花の顔が少し歪んだ。昨夜二人がそれぞれシャワーを済ませ、結局床に入ったのは一時過ぎだ。たまたま放映されていた映画が存外に面白くて夜更かししてしまった結果だった。電気を消したら嵯峨はすぐに寝息を立てはじめたとはいえ、それでも最長4時間しか寝ていないことになる。
「全然寝てないじゃない」
「いや、普段からこんなもんだって」
 嵯峨は何でもない顔でテーブルのノートパソコンを脇にどかし、灰皿を手元に引き寄せる。吸い殻はほとんど入っていない。允花が寝ている間は控えていてくれたのだろう。数時間ぶりに違いない煙草を旨そうにふかすさまを、允花は複雑な面持ちで眺めていた。
「……忙しいんだね」
「まぁな」
 Tシャツとスウェットパンツ姿の嵯峨は「慣れればどうってことない」と、言葉通りに平気そうな顔で煙草を味わっている。一仕事終わった後の一服が何よりも旨いらしいことは、煙草を咥えたこともない允花にも伝わってきた。
「まだ7時半か……」
 テーブルの上の腕時計を確かめる嵯峨は、相変わらず肩のあたりを気にしている。どうやら凝っているらしいことは允花にもわかった。
「そうだ! もんであげよっか?」
「は?」
 嵯峨が顔を上げた時には、すでに允花はベッドから降りていた。何かと思ってポカンと口を開けたままの嵯峨の元へ、長いワンピースタイプのパジャマの裾を揺らしながらスリッパでパタパタと駆け寄ってくる。
「肩! 凝ってるでしょ? ほら硬い」
 そのまま嵯峨の後ろに回り込んで、両肩に手のひらを乗せる。Tシャツ越しに感じられた允花の体温に、嵯峨はわずかに動揺した。
「まあ、多少は……」
「やっぱり。ね、わたしがほぐしてあげる」
 邪気は感じられないが、なんでそんなに楽しそうなのかさっぱりわからない。嵯峨はとりあえず煙草を灰皿に押し付ける。肩が凝っているのは事実だし、揉んでもらえるというのは正直ありがたい申し出だった。
「……ほんとに揉んでくれるの?」
「まかせて!」
 まあこのくらいだったらお言葉に甘えてもいい範疇だろう。と、何の気なしに嵯峨は背中を預けるつもりだったが、允花はなぜか彼を立たせようとする。どういう意味かと振り返ると、
「ベッドにうつ伏せになって」
 どうやら嵯峨が腰かけているソファではだめらしい。
「ここじゃダメなの?」
「ダメ。ここでずっとお仕事してたでしょ? 背中も腰も凝ってるよ、きっと」
 なるほど、一理ある。それに背中や腰までというのは非常に魅力的な提案だ。嵯峨は「そういうことなら」と大人しく従い、眼鏡をはずして允花に預けベッドの上にうつ伏せに横たわった。寝心地のいいシーツの上で目を閉じると、允花が続いてベッドの上に上がってくる気配がする。
「……?」
 ところで、うつ伏せの自分の肩を揉むとき、允花はどんな体勢になるのか?
 脳裏にふと浮かんだ疑問は、あまり考えたくはなかった懸念だったのかもしれない。「よい、しょ」などとかわいらしい掛け声で允花がどういう姿勢を取ったのか、経験則と今この瞬間に感じられる気配から容易に想像がついた。
「…………」
 腰の両側に柔らかい内腿が触れている。允花はたぶん、彼の身体に負担をかけまいとしてだろう、跨ぐだけで体重はまったくかけていない。密着されるよりは断然いいのだが、いささか物足りなさを感じないでもない――などと不埒な失望を感じている嵯峨に気づくこともなく、允花はその不安定な姿勢のまま、嵯峨の肩のあたりに両手をあててまずは確かめるように軽く撫でまわした。
「薫さん」
「なに」
「触られたくないところとかある?」
「ないけど」
 ぶっきらぼうな受け答えになってしまうが、ずりあがったパジャマの裾だとか、そこから伸びたむき出しの太もものことを考えまいとした結果なので、別に不機嫌になっているというわけではない。尤も允花はやはり気づいていないらしく、普段通りの調子で「わかった」と答えるだけで、あとは黙って両手に体重をかけ始めるだけだった。指でつかむような動きではなく、肩甲骨と背骨の中間あたりに親指の付け根があてられるのがわかる。ゆっくりと上下に動かされると、なにやら血の巡りがよくなってきているような、そんなじんわりとしたあたたかさが感じられた。
「…………」
 気持ちいい。凝り固まった筋肉をほぐされるのは予想していたよりもずっと心地よく、同時に自分の身体がなにやらすごいことになっていたのを突きつけられる気分だった。それは揉んでいる允花にも伝わっている。
「凝ってるねえ……ちゃんとしたマッサージに行ったほうがいいよ?」
「うん……」
 台湾、マッサージ……そういえば街中でも看板をいくつか見かけた記憶がある。でも痛そうだな、足ツボに行ったら悲鳴が上がるほど痛かったなんて聞くし。
(俺はこれで十分なんだけどな)
 嵯峨は允花の大きくはない手のひらを感じながら、心地よさに目を閉じていた。このまま眠ってしまえたら最高だな、などと考えながら。予定がなければそれもいい。ひと眠りして、起きたらまた報告書作成を再開する。それなら昼過ぎには完成するだろう。
「約束、9時半だったよね」
「ああ」
 しかし今日は周防と3人で観光する予定だ。昨夜どうしてそんな話になったのかは今となっては不明だが、楽しみにしているのが二人ほどいるので出かけないわけにはいかない。修学旅行の引率じゃあるまいしとこぼしたくもあったが、嵯峨自身、言うほど嫌がっているわけでもない。
 ともかく周防のホテルとの中間地点に午前9時半に待合せているので、10分前までにはここを出なければなるまい。着替えや朝食の時間も考えて逆算していると、先回りした允花が「8時くらいまでだったらマッサージしてあげる」と宣言してくれた。嵯峨は目を細め、ベッドのヘッドボードにはめ込まれたデジタル時計をにらむ。あと20分か。
「もーちょっと長くてもいいんだけどなぁ――あー、そこ、気持ちいい……」
 首の付け根を円を描くようにもみほぐされて、つい本音が零れ落ちる。允花は呆れたように小さな笑いをこぼした。
「8時以降は別料金でーす」
「はは、商売上手だ」
 しかし允花の言うことは正しい。それ以上頼んだら二度と起き上がれない気がするし、待ち合わせにも間に合わなくなる。残念だが当初の予定通りのコースでお願いしよう。そう言うと、允花も調子を合わせて「かしこまりました」なんて返してくる。枕に顔をうずめてくぐもった笑いを返しながら、嵯峨ははたと気が付いた。
(……なんていうか、これは)

 いちゃついているような気がしないでもない。

 ちょっと不味いなと理性が告げていた。允花には告げていないが、嵯峨たちは明日、日本へ帰国する予定だ。もちろん連れてはいけないし連れていくつもりも毛頭ない。予定では允花をなだめすかして台湾残留を決意させるはずが、どういうわけかホテルの同じ部屋に宿泊しているし服まで買ってあげてるし現状のようにボディタッチすら許してしまっている。端的に言えば急接近していると言っても過言ではない。もちろん嵯峨のほうに下心もあわよくばの気持ちもあるわけがないし、允花も同じだろうとは思う。……さっきずいぶん熱い視線を送られていたが。
 自惚れているわけでも自慢でもないが、こういう予感は妙に当たる。これまでに経験したあれこれと同じように、それとなく先回りしてやんわり断るしかないだろう。そのやんわりがまだ年若い允花に通用するのかは未知数だが。
「薫さん、腕も疲れてない?」
「ああ、うん、そうかもな」
 生返事だったが、允花は訝しく思うこともないようだ。
 いずれにしても周防にこの状況を知られたら詰られるだろう。「やる気があるのか」と。
(なくはねぇけどよ……)
 枕に向けて溜息を吐くと顔中がぬるい温度に包まれる。俺は駄目な大人だなと自嘲してみるが、気持ちいいものはしょうがない。
 允花の手のひらは嵯峨の右腕を掴み、そのまま天井のほうへ持ち上げる。ずっとキーボードをたたいていた腕が逆方向に伸ばされるのは気持ちがいい。
「……なんていうか、うまいな、お前」
「……そう?」
 素人から肩を揉むと言われて期待していいレベルをはるかに超えている気がする。プロのマッサージと比べればおそらく劣るだろうけど、タダでここまでやってもらうのは気が引ける程度にはうまい。
 何の気なしに理由を聞くと、允花は「うーん」と困ったように笑い、ややあって話始めた。
「昨日言ったでしょ、前に男の人に呼ばれたけどその人が何もしないうちに寝ちゃったことがあったって」
「え? ああ……」
 急に話が変わったので、嵯峨は顔を上げそうになる。
「寝ちゃった理由がね、マッサージが気持ち良すぎたからみたい」
「マッサージって? お前がやったの?」
「ううん。マッサージ屋さん」
「あー……なるほどね」
 ホテルでたまに見かける出張マッサージだろう。なんでまたこれから女を抱こうというときにそれを頼んだのかは理解に苦しむが、心地よさで寝入ってしまうのはわからなくもない。再び枕に顔を埋もれさせる嵯峨は、あまり深く考えなかった。
「そのときに見てたマッサージの人の動き、思い出してやってみたの」
 允花の手が右肩から左肩に移ってくる。よくもまあ覚えているものだ。緊張が過ぎると妙なことを覚えていたりするけれど、似たようなものかもしれない。
 少し不思議そうな声音で允花は続ける。
「変な人だったなあ。お客さんが寝ちゃったら、『時間満了前だが俺は帰る。あんたも金だけもらって逃げたらどうだ』って言って、でも逃げちゃったことを云豹に言われるかもしれないし、わたしがどうしようかって悩んでたら」

『こいつだって見栄や矜持くらいあるだろ。指一本触れないうちに女に逃げられたなんて自分から吹聴はしないだろうさ』

 そう、マッサージ師は笑い飛ばしたらしい。
 男である嵯峨にはなんとなくわかる気がした。確かにそんな無様な顛末を人に話すわけにもいかないだろう。安くはない金を払った挙句がそれだというのは気の毒な気もするが、そもそもがマフィアの斡旋する違法の売買春なのだから同情の余地もない。
 しかし――
「そいつ、まるでお前を逃がしにきたヒーローみたいだな」
 思い付きでそんなことを言うと、允花は噴き出した。
「ええ? まさか。天道連と組んで売春あっせんしてたホテルが提携してるんだから、そのマッサージのお店だって、天道連の人間がやってるに決まってるよ」
 聞いたことあるもん、と、允花は笑い飛ばす。
「そうなのか?」
 だとしたらそのマッサージ師、規定時間が終了する前に戻るとは何とも豪胆というか、ふてぶてしいことだ。しかし天道連も手広いものだと嵯峨は呆れた。その店がどれくらい繁盛していたのか知らないが、商才があるならまともに働けばいいものを。
「だからね、運がよかっただけだよ」
 允花は噛みしめるように口にする。
「……そうだな。なんにせよ、お前さんが何もされなくてよかったよ」
 人数の問題ではないが、マフィアの手で傷つくはずだった少女が一人救われたのだ。喜ばしいことに変わりはない。
「うん……」
 允花は少し沈痛そうに頷いた。自分だけが危機を逃れたことに罪悪感でも抱いているのだろうか。背中をもみほぐそうとする手つきにも力が感じられない。お前が心を痛めることはない、振り返りそう言おうとした嵯峨を妨げるように、ベッドサイドの電話機が鳴った。
「――俺が出る」
 手を伸ばそうとした允花を止め、嵯峨は起き上がる。允花は先にベッドから降りて両手をぶらぶらと振っていた。それなりに疲れたのだろう。乱れた裾に一瞬だけ視線を流し、嵯峨は受話器を手にした。
「はい。――あ、周防か?」
 電話をかけてきたのは別のホテルに宿泊している周防だった。待ち合わせまで一時間半以上あるのに何の要件だろうか。訝しく思う嵯峨は、予想だにしなかった一言を聞いた。
「…………は?」

§


 天気はあいにく曇りだが、日曜日の街は人であふれかえっている。おまけに昼時なので屋台には長い列、レストランは見る限り満席。どこもかしこも、それ以上人の入る隙間もないほどだった。
「どこも混んでんなぁ……先に周防んとこ行くか」
 人だかりを見渡しながらの嵯峨の一言は確認するような声色だったが、允花に異論はない。昼食を済ませてから周防のホテルを訪れようかと予定していたが、これでは順番を入れ替えたほうがゆっくりできそうだということで二人の意見は一致した。
「あ、でもアレは買わないと」
「ああ、アレな。俺飲んだことないんだよなあ」
「薫さんも飲んでみる? 美味しいよ?」
 二人は人混みをすり抜けて、目的の屋台に近づいていく。青果店の看板を下げた軒先には、色とりどりの果実はもちろん、それらを加工した飲食品がぎっちりと並べられていた。目当ては「楊桃湯」、スターフルーツを砂糖漬けにして作られるジュースだ。允花曰く、風邪をひいたらこれがてきめんに効く、らしい。瓶の中では星型の果実が甘そうな蜜に浮かんでいる。レモンの酸味と塩気がアクセントになっているとかなんとか允花も屋台の主人もまくし立てるが、琥珀のような色の液体にはあまり心惹かれない。聞く限りから判断するに、要はスポーツドリンクみたいな味なのだろう。
「俺はいいや。周防の分と、お前も飲むなら買っとけよ」
 同じ琥珀色ならウイスキーのほうが断然いい。とは言わず、硬貨を数枚允花に手渡す。
(それにしても風邪ねぇ)
 今朝方電話をかけてきた周防は、喉が痛むのかかすれた声をしていた。どうも微熱もあるので今日は一日養生する、予定をキャンセルすることになってすまないが、二人は観光を楽しんでほしい。それだけ言い残して、気だるそうな刑事は通話を終わらせた。
 慣れない土地で連日深夜まで仕事をしていた上、昨日は事件解決の安堵感で少し気が緩んでしまったのだろう。しかし周防だって刑事だ、激務には慣れているはず。その周防がダウンしたのなら自分もそうならないとは限らないなと、嵯峨は気を引き締めた。大体、この人混みの中で気を抜いていたらスリにでも遭いそうなものだった。
 何気なく周囲に目を向ける。雑踏の中は平和そうな顔ばかりだ。現地人が大半だが、ところどころに海外からの観光客らしい顔も見受けられる。自分たちはどう見えているのか、少し気になった。ノータイの嵯峨とニットワンピースの允花はさしずめ――
(……ん?)
 視線が向けられたような気がして振り返る。が、もちろん誰かが見ているわけでもない。これだけ人がいるのだ、誰かと間違って慌てて視線を逸らしたのかもしれないし、そもそもただの勘違いかもしれない。気にする必要もないだろうと結論づけて、嵯峨はこちらに駆けてくる少女に手を上げた。ボルドーカラーのワンピースは年齢不相応な気がしないでもないが、道行く男が振り返る程度には彼女の魅力を引き立てている。
「おまたせ」
 允花は2つのカップを手に舞い戻ってくる。プラスチックの蓋にストローが刺されている様はなんら目新しいものではない。大きさ以外は。
「やけにでかいなぁ?」
 目測で20センチ弱はありそうなほど背の高いカップだった。まさかそれ一つきりのサイズなのかと聞くと、そうではないと允花は首を振る。
「風邪には水分。このくらい飲んでもおかしくないよ」
 まぁ熱があって汗をかいているならそうかもしれないが、周防の病状は現状未確認だ。一理あるのかないのかわからない。仮に周防の病状がその通りだとして、彼の分は理解できるが允花の分までその大きさにする理由は何なのか? そう尋ねると、無邪気さのままの顔で彼女は笑った。
「薫さんがやっぱ飲んでみたいって言うかもしれないから」
 一口どうだとカップを向けられる。
 まあ喉も乾いたし一口くらいなら……と、氷の音がするコップに喉を鳴らしそうになったが、
「甘そうだからいらない」
 ふいと首ごと背けて知らぬ顔をしてしまう。
「えー、おいしいのに。そんなに甘いのが嫌いなの?」
 允花は純粋に不思議そうな声なので、他意はないに違いない。もしかして自分だけが意識しすぎているのだろうか――などと考えこみそうになるのもその延長のような気がして、嵯峨はそれ以上考えることを放棄した。
 その遥か後方、雑踏の中に消えていく二人を、“彼ら”は温度のない目で見つめている。

§


「なんだか迷惑をかけたみたい……いや、迷惑をかけたな、申し訳ない」
 周防は宿泊先のホテルで宣言通り大人しく寝ていたらしい。だるさのせいかいくらかぼんやりした目つきで上半身だけを起こし、嵯峨と允花から補給物資を受け取っている。ここに向かう途中、さすがに飲み物だけでは回復も遅れるだろうと思いなおして、結局屋台に並び粥をテイクアウトしてきたのだった。
「台湾のお粥かぁ」
 周防は物珍しそうにプラスチック容器を眺めている。滋養強壮だと言って允花が揚げた豚肉やらをトッピングしようとしたので慌てて止めてショウガやらネギやらを乗せてきたが、どうやら食べる気にはなってくれたらしい。それほど病状が重いわけではなさそうだ。
「まぁ、大したことなくてよかったよ。今日は一日寝てろよ」
「ああ。そうさせてもらうよ」
 苦笑しながらの周防がサイドテーブルの上で粥の器を開け始めると、嵯峨は上着のポケットをまさぐった。
「薫さん、風邪ひいてる人がいるのに煙草はだめでしょ」
 目ざとい。まだ何も取り出していないのに、允花はずばりと言い当てる。確かに一服しようと思って煙草を探した。なにせ周防の泊っているこの部屋だって喫煙ルームなのだから、咎められるいわれはない……と、思っていたのだが。
「む……」
 しかし允花の言うことにも一理あるので言い返せない。言い返せないがこのまま引き下がるのも癪なようで、当の周防だって一本くらい吸っているのではないかとテーブルの上に視線を投げるものの、さすがに病人の自覚があるためか灰皿は見事にキレイなままだった。きっと今朝のルームクリーニング後のままなのだろう。
「わーかったよ」
 渋々といった体で「降参」と両手のひらを見せる嵯峨と、満足そうに笑う允花。それを周防は何も言わずに見つめるだけだった。何か言いたげな顔だったが、嵯峨はこの際知らぬふりを貫くことにした。言いたいことは、なんとなくわかる。
 一方の允花はお構いなしに手土産を開いている。
「周防さん、これは楊桃湯。スターフルーツのジュースだよ」
「へぇ……」
 まだ氷の残っているカップを受け取った周防は、どこか興味深そうな顔をしたものの迷わず口をつけた。丁度喉が渇いていたのだろう、病人にしてはいい飲みっぷりだった。口にあったと言うのもあるだろう。
「スターフルーツか、初めて口にしたけど、これは……美味いな。……なるほど、砂糖漬けにした後はちみつを加えて水で割ったのかな。塩気がほどよく効いていて、甘みが際立つね。ソーダで割っても美味しそう……ああ、この酸味はレモン?」
 周防の舌はどうなっているのか、と、嵯峨は肩をすくめた。もちろん饒舌さではなく、テイスティングの才覚とも言うべきその正確さだった。允花も目を丸くして驚き、どうしてそんなにわかるのかと身を乗り出している。どうやら甘いもの好き同士話が弾んでいるらしいので、この隙に外に煙草を吸いにでも行こうかと思ったのだが――
(ずいぶんとまあ……)
 歓談に花が咲いている。
 ここに至って初めて知ったのだが、周防は菓子作りが趣味らしかった。それで昨夜もデザートに対して並々ならぬ熱のこもった目を向けていたわけかと納得してしまう。周防と允花は完全に意気投合してしまったようで、言うまでもなく辛党の嵯峨は完全に部外者の疎外感にまみれている。煙草を吸いに行くのなら絶好の機会なのだが、どうにも席を外す気になれない。理由? それは――風邪を引いた周防に無理をさせるわけにはいかないから、そう、そうだ。
「おい、そのくらいにしとけよ……病人なんだから」
 口を酸っぱくして注意しながら、どうにもバツが悪い。水を差すという言葉がこの上なくしっくりくる台詞だった。周防にはちゃんと食べて寝てろと言い、允花には病人にあまり無理をさせるなと釘を刺す。まったくもってまっとうな大人のやることに違いないのだが、それが100%の真意ではないことなど自分が一番理解しているので無性にいたたまれない。
「それもそうだね。ごめんなさい、周防さん」
「いや、来てくれてありがとう。助かったよ」
 素直に言うことを聞く允花には嵯峨の内心は通じていないようだが、目を細めている周防はその限りではないらしい。
「ほら行くぞ。じゃあな。養生しろよ」
 なので、嵯峨はあれこれツッコまれる前に退散することにした。名残惜しそうに部屋を振り返る允花の腕を引っ張って、まるで逃げ出すようだった。

 当然、そんな大人げない行動をした後は気まずさが増すもので、怪訝な顔をした允花にじっと見つめられて何の言い訳もできなくなる。
「……」
「……」
 まさか周防と話し込んでいるのが気に入らなかったと言うわけにもいかない。ホテルのエントランスを出るに任せて歩き出しても会話のない二人だったが、結局允花がしびれを切らして口を開いた。
「どこ行くの?」
 正直に言うと何も考えていない。周防は国立故宮博物院に行きたがっていたが、允花もそうとは限らない。嵯峨も博物館に興味があるわけではないので、いっそホテルでダラダラしたいところだが、さすがにそれは――允花は渋るだろう。
「薫さん?」
「……お前は、どっか行きたいとこある?」
 反応の鈍い嵯峨を案じる顔に逆に問い返すと、允花は少し考えこむようにうつむいて、
「周防さんが言ってた博物館……行ってみたい」
 恥ずかしそうに、そう希望を述べた。
 嵯峨は寸の間反応が遅れてしまう。
 意外だった。博物館なんて何度も行ったことがありそうなものだろうに。それこそ社会科見学とか、家族旅行とか――
(……ああ、そうか)
 允花の家庭環境から察するに、どこかへ連れて行ってもらったことなど皆無だろう。
「わかった。博物館な?」
 同情したわけではないが、その希望は聞き入れるべきだろうと思った。自分がしてやれるのはこれまでだけど、きっとこの先、允花はしたいことを自由にできる。誰かが彼女の望みを心行くまで叶えてくれるかもしれないし、その誰かは二度と彼女を一人きりにはしないかもしれない。
「いいの? 薫さん、興味なかったりしない?」
「そう見える?」
「……ちょっと」
 正直なやつめ、と、嵯峨は目を細めた。
「いや俺も見てみたかったし、白菜と角煮。絵葉書ぐらいあるだろ、周防に買ってってやろうぜ」
 だから気にするなと笑うと、初めて允花も笑った。まるでそこだけ花盛りの春のように、周りの温度が少し上がったようだった。
 きっと心からの笑顔を見て安堵したからそう感じるのだろう。それ以外に理由があるとしたら――いや、これは考えてはいけないことだ。ただ笑顔を見ることができた、それだけでよしとしよう。
 嵯峨は軽く息を吐く。
(笑顔にしてやれた、っていうのは、存外うれしいものなのかもな……)
 それはこれまでに感じたことのないものだった。
 昨日買ってやった服を着て、昨日とは違う髪型で、允花は嵯峨に笑顔を向けている。自分のしてやることが女を喜ばせている――それは男冥利につきるものだと、そう言ってしまうのはかび臭い男の理屈なのだろう。ついでに言うなら、即物的な手段しか知らないだけか。
 それでも今この瞬間、允花が笑ってくれることがうれしかった。未来の彼女に寄り添うのが自分以外の誰かだとしても。その当然の事実が、なぜか胸をちくりと刺すとしても。
「じゃあ早く行こ! 薫さん、ほらっ!」
 嵯峨は鬱屈した内心をうまく隠せたらしく、溌剌した笑顔の允花は両手で彼の手をとり、引っ張るようにして歩き出す。
「そんなに急がなくても、博物館は逃げねぇよ」
「逃げないけどしまっちゃう!」
「まだそんな時間じゃねぇだろ?」
 何を急いているのかと苦笑すると、允花は立ち止まり、そのまま嵯峨の手を強く引く。
「だって初めてのデートだもん」
 至近距離の彼女からは、甘い香りがした。瞬きをする大きな目には、困惑した自分の顔が映りこんでいる。
「――デートって、お前」
 何を言っているのかと呆れた顔をしてみせるが、允花はお構いなしに得意げな顔になる。
「この服はデートのために買ってくれたものでしょ? 哥哥おにいちゃん?」
「…………」
 一本取られた。服を買う口実に過ぎなかったものを、こうもしたり顔で利用されると返す言葉もなかった。言葉に詰まって苦い顔をしている嵯峨の腕に、允花の両腕が絡まる。
「だからちゃんと、エスコートしてね?」
 本心からうれしそうな顔をされると、振りほどく気も起らない。
「エスコートねぇ……」
 なんとも少女趣味な単語に笑いが漏れる。それと同時に、さっきまで確かにあった内心の動揺が霧散していくのが感じられた。
 目を細めて笑っている允花は、一体“誰”を見ているのだろうか?
 本当に自分という個人を見ているのだろうか。
(違うんだろうな)
 きっと、「この数日の間、彼女に優しく接した年上の男」の姿を見ているに違いない。それが自分ではなくても、そう、周防だったとしても、同じことが起こっただろう。たった数日の間に、心を委ねられるほどに気持ちが動いてしまうわけがない。まだ何も知らない彼女は、状況に酔っているだけ、恋に恋するという浮ついた気分を味わっているだけだ。
 嵯峨は、冷めた心を他人事のように感じていた。
(……俺は、大人なんだから)
 意識するほどのこともない。これはきっと、自分にとっても彼女にとっても、今だけのままごとみたいなものなのに過ぎない。
 作り笑いを浮かべることも、リップサービスでごまかすことも、大人の彼には容易いことだった。
「わかったよ、せいぜい頑張るさ――お姫様」
 腕を組んだまま歩きだす。その場に何かを置き去りにしているような、奇妙な苛立ちと不安感には気づかないふりをしたかった。
 允花はずっと、はにかむような笑顔をしていた。
 満面の笑みで自分を見上げてくれるのはこれが最後だ。それが正しいことだとわかっているのに、きちんと笑い返せているか、嵯峨にはよくわからなかった。
 博物館で笑いあいながら見た何もかもも、夕闇に染まる台北の街がきらびやかに輝いていくさまも、その光の中で何よりも嵯峨の目を引いた允花の姿も、きっといつまでも忘れられないだろう。根拠などない。けれど、不思議とそんな予感がしていた。

§


 午後8時、ホテルに戻った嵯峨を待っていたのは、半分は予想外で半分は予想通りの人物だった。フロントで鍵を受け取る際に告げられた名前は、允花には聞き覚えがなかったが、少しだけ真剣な顔をした嵯峨にとっては、その限りではないらしい。
「ああ、戻ってきたか」
 ラウンジでコーヒーを飲んでいたらしい彼は、嵯峨の学生時代の友人で今はテレビ局の代表を務める男だった。張という名の男を紹介された允花は、頭を下げながらも「なぜそんな人がわざわざここに?」と、訝し気な顔に無理矢理笑顔を貼り付けている。
「言ってくれりゃそっちに行ったのに。悪いな、ずいぶん待っただろ?」
 おまけに嵯峨は、そう言いながら張の向かいのソファに腰を下ろす。約束でもしていたのだろうか。道中、そんな素振りは見せなかったが。
「薫さん、わたし、先に戻るね?」
 鍵を、と、手のひらを見せると、嵯峨は首を振る。
「いや、お前もここに座りな」
 気を利かせたつもりの允花はなぜか引き留められる。まったく予想がつかないながらも言われたとおりに嵯峨の隣に腰を下ろすと、張から何かを差し出された。
「はじめまして。総華電視の張です」
 テーブルの上に置かれたのは彼の名刺だった。受け取るべきなのだろうけど、允花はなぜか気が進まず、小さく会釈をして名を名乗るだけにとどめた。
允花ちゃんは日本語と英語ができるんだって?」
「え? は、はい……?」
「しゃべるのもできる? 日常会話くらいかな?」
「……ええと、はい……」
 奇妙な問答だった。というか、気味が悪かった。初対面の相手が自分のことをいやによく知っている。その上根掘り葉掘りの質問を矢継ぎ早にかぶせてくる。学校のこと、興味関心のある分野、これまでにアルバイトの経験はないか。
 さすがにこれはおかしいと思って嵯峨に視線で助けを求めるが、どういうわけか彼は允花を一度も振り返らない。ただ真剣な顔をして、遠くを眺めるような目をしている。口の端から時折煙を吐き出す以外には何かすることもない。
「あの、これはどういうことですか? どうしてわたしのこと、そんなに知ってるんですか?」
 なので、允花自ら張に問いただす他なかった。質問を遮っての問いかけに張は呆気にとられたような顔をしていたが、それに答えるどころか怪訝な顔をして逆に問い返す。
「どうって……おい、話してないのか?」
 と、視線で示す先は嵯峨の横顔。煙草を咥えたままの彼は、話も聞いていないような素振りだったものの、その実耳は傾けていたらしい。

「お前を雇ってくれって頼んでたんだよ」

 まだ半分は残っている煙草を揉み消しながら、嵯峨は誰とも目を合わせない。
「……わたしを?」
「別に日本に行かなくても、こっちで安定した暮らしができるならそれに越したことはないだろ。それでもどうしても日本に行きたいなら、金を貯めるなりなんなりして、自力でどうにかすればいい。俺が言ってることは間違ってるか?」
「でも――」
「それともどうしても日本に行かなきゃいけない理由があるのか? ――お前の希望以外の原因で」
 ようやく嵯峨は允花へと向き直った。追及するような冷たい視線は敢えて作ったものだったが、允花には嵯峨の魂胆など通じもしない。ただ、何を言われているのか、どう答えるべきなのか、そのときにはわからないままだった。
「希望、以外? どういう意味……」
 しばらく見つめあったものの、うろたえて何から聞いていいのかわからない允花には答えぬまま、嵯峨は張をせっついた。
「それで、どうなんだよ」
 雇うのか雇わないのか。妙に苛ついている様子に両手を上げておどけて見せ、張は歯を見せて笑った。
「ちょうど外国語話せる子を探してたんだ。何、テレビ局って言ったっていきなりレポーターやれなんてことは言わないさ。しばらくは裏方の雑用、書類の整理、電話番。それでもいいなら」
「決まりだな、恩に着る」
 とんとん拍子に話が進んでいく。当事者のはずの允花を取り残したまま、大人二人が勝手に決めていく。
 怒るべきだろうか。
 スカートの上で握りしめた手が震えている。このまま流されてもいいのだろうかと、心のどこかで自分が叫んでいる。
 でも、これまでの自分がこうも言う。

“逆らったところで、どうなるの?”

 嵯峨が自分を日本に連れていく気がないことなど、とうにわかっていた。この場で駄々をこねたところで、宥めすかされて同じ結論に至るだけだ。だったら、無駄な労力を割くのはばかげている。不必要に傷つくだけなら、ただ諾々と受け入れるほうがマシだ。
 張が何かを言っている。当面の生活費は相談に乗る、社員寮に空きがあるから当分そこに住むといい。人のいい顔だった。きっと善意で言ってくれているのだろう。条件を全部聞いたわけじゃないけれど、短期間とは言えマフィアに働かされていた自分を雇ってくれるのだから、これは破格の待遇だ。これを逃したらきっと、二度とまともな生活はできない。
「はい……ありがとう、ございます」
 だから、喜ぶべきだ、感謝すべきだ。
 理解していても納得は難しい。そんなちぐはぐな感情があることを、允花はこのとき初めて知った。

2020/9/5