なんでもない日のケーキ

――六年前の同じ日。
 それを目の当たりにした俺が何を感じたのか、思い出すことは少し、難しい。甘く塗り固められた白、鮮やかすぎる赤、突き刺すような炎。思いつく限りの幸福を集めたはずのものがその時はひどく憎らしく思った、ような気がする。今となればそれはまったく、俺の自意識過剰に起因する、謂れのない八つ当たりでしかないというのに。
 允花は笑っていた。ひどくぎこちない笑みだった。必死で俺を楽しませようとか、気持ちを安らげようとか、そういう魂胆だったに違いない。それがもっと無遠慮で自己満足な行動だったなら、俺はあんな言葉を投げつけなかったと思う。ひどい言い訳に過ぎないが。
「やめろ。そんな男は死んだんだ。死んだやつの誕生日なんか祝ってなんになる」
 ハッピーバースデイの唄は中断を余儀なくされた。顔をそむけた俺には見えなくても、その喉が震えているのは容易に察しがついた。
「不愉快だ」
 何が不愉快なのかわからない。
 不器用にも俺の誕生日を祝おうなんて考えた允花の浅はかさが不愉快だったのかもしれない。
 そもそも誕生日を祝うという年中行事が意味不明で居心地が悪かったのかもしれない。
 けれどそれよりも――俺が誕生日を迎えたこと、つまり生き永らえてしまったという事実が罪であり罰だという事実を突きつける、それが筆舌に尽くしがたいほどの苦しみを俺に与えていたのだろう。
 その後のことは知らない。イチゴの乗った白いケーキまるまる1ホールを允花がどうしたのか俺は知らない。確かなのは翌朝、允花は何もなかったような態度で俺を出迎えたことだけ。

 ――五年前の同じ日。
 ぎょっとした、というのが第一印象だった。切り分けられたケーキにたじろいでいるうちに一年前のことが次々に思いだされる。己の悪行を暴かれるのは到底心地のいいものではない。大人げない振る舞い――一回りは年下の少女にみっともなく当たり散らしたことも、その本人が自分よりも大人びた顔でそれを水に流したことも、今になって刃をふるってくる。正直に言うと逃げ出したいとすら思った。けれど允花は素知らぬ顔で三角の先端にスプーンを突き刺した。
「なんでもないの。なんでもない日にケーキ食べてもいいでしょ?」
 ひどい気分だった。
 浅薄な言い訳をするくせに、俺の前にも同じケーキを出している。それは白くもなく、赤くもない。詳しくはないのでそれが真実何というのか今でもわからないままだが、多分あれは、チーズケーキだったと思う。
 茶番は繰り返された。
 その翌年は果物がたくさんのった丸いやつ、次の年はべったりと黒いチョコレート、また次の年は薄いオレンジをしたゼリーのようなもの、その次――つまり昨年は、層のように積み重なった上に、たっぷりのクリームがのったもの。俺が一つとして口にしなかったので、允花は明らかに自分の好みを優先して選んでいたように思う。自分が仕向けたくせに、俺はそれがどうにも痛ましく感じられて仕方なかった。

 おそらく――允花は必死に俺をつなぎとめようとしたのだろう。
 この一年は、これまでの歳月は、否定されるべきものではないのだと。
 三十余年、そしてまた新しい一年、俺が生きていたことに感謝していると言いたかったのかもしれない。
 なぜなら今の俺がそう感じているから。たとえどんなカタチであっても、生きていてくれてよかったと感じているから。允花もそう思ってくれていたならいいと思う。ただそれだけの独り善がりでしかないが、それが俺にとっての、信じたい真実だった。
 最早、彼女の真意を知ることは叶わない。
 結局俺は、允花が何を好んでいたかさえ知らず、その機会は永遠に失われてしまった。



「どうしてケーキを食べるの?」
 無垢な瞳が輝いている。何もかも忘れてしまっても、根本的な嗜好は変わらずあり続けるのだろうか。緩む口元を自覚しながら、真っ白い箱の四方を開く。
「こんなにたくさん? 今日はトクベツな日?」
 まるで色とりどりの宝石を眺めるような目をしている。ショートケーキにチーズケーキ、果物のタルトにミルフィーユ。必死に記憶の中を探って似たようなものを買って来ても、それが正しいものかはわからない。俺の行いが正しいのか俺自身わからないのと同様に。
「いいんだ。特別じゃなくても、ケーキを食っていいんだ。お前がそう言ってたんだよ」
 嘘ではない言い訳を紡ぐ口をじっと見つめて、允花は不思議そうに納得したようだった。何がいいか聞いてみれば、どれも美味しそうだと幸福に頭を悩ませている。その光景は――それを見ている俺という光景は、傍から見れば父娘のそれを思わせた。実際ある程度は正しいのだろう。記憶を失った允花は無垢のカタマリで、まなざしは嬰児のそれを感じさせる。毒気も邪気も我欲も、その前では遡及して存在を否定されてしまう。ただ彼女の幸福だけを願わずにはいられない。それが自分以外の他人によって達成されるものでも構わないとすら思える。
 今になって俺は、ようやく理解できた。允花が願っていたこと。俺自身の幸福が達成されること。そこに自分がいなくてもいい。それは究極的には、俺の考える允花の幸福の在り方に影響を与えないのだから。
 それでも、一つだけ望めるのだとしたら――
允花、」
 金色のフォークが止まる。丸い目が俺を見ている。悲し気に細められた目ばかり見ていた俺には毒のように眩しく、氷のような忌避感を与えた。
「――なんでもない」
 さあ、食べな。と、促すと、いつか見たときのように白い先端が削られていく。
 幸福には、多くを望んではならない。それは薄氷のように美しく脆い。指先が触れる範囲でつかみかけていたものが、次の瞬間永遠に失われることを俺は知っている。
 また唄ってほしいなんて身勝手は、ワガママは、分不相応だ。これは償いでしかない。けれど願ってしまう。また、自分の生を肯定してほしいのだと。今になってようやくそう思えた、だから今こそ――祝福されたい、感謝したい。生きているのは自分の力だけではないことを、ほかならぬお前がいてくれたからだと――
「カオルさん」
 不意に、呼び止められる。
 遮られた思考なんてどうでもよくなる笑顔で、允花は口にした。
「美味しいね、なんでもない日のケーキ」
 仮に、真理というものが存在するのなら、それが姿を見せるのは何の覚悟もしていない瞬間に違いない。幸福が奪われるのと同じように、だらだらと不遇に身をやつしている状況と同じように、それは唐突にすべてを塗り替えて、もう何十年もそこにいるような顔をする。
 なぜそう思ったのかわからないが、唐突に髪を切りたくなった。
「そうだな」
 俺は俺の特別な日に唄ってほしいわけではない。俺は自分の特別な日だけを分かち合いたいのではない。たとえそれが明日に失われるものだとしても、なんでもない一日を允花と共有していたい。赦される限りいつまでも続くのだと信じていたいし――信じてもいいのだ。
 三叉のフォークが運ぶ現実は、思っていたよりもずっと、やわらかくて甘い。
 これはなんでもない一日の話。梅雨の合間に一日だけ晴れた、穏やかな午後だった。

- 了 -
2021/06/13