パオさんは心配症

 二度見してしまった。
 一度目は允花の顔を見たときに、えらく不似合いなものを見たような気がして。二度目は白い首に穴が空くほど凝視してしまった。
 首の中ほどに、赤い痕がついている。
(…………いやまさか)
 一瞬「キスマーク?」という疑念が頭をもたげたが、まさか、允花に限って、まさか。
 インスタントコーヒーと牛乳であまったるいカフェオレを作っている允花は俺の態度には気づいていないらしい。というか、あまりにも普段通りすぎて俺の疑念など取り越し苦労でしかないに違いないと思えるほどだった。
 実際そうに違いない。ブラックでコーヒーも飲めないような子供だぞ? どうせ虫にでも刺されたんだろ。馬鹿馬鹿しい。
 ――という軽い気持ちのまま、俺も自分のマグカップを取り出した。
「おい」
 とはいえ気になるものは気になる。聞かずに悶々とするよりは、潔く聞いて安心するようが精神衛生上いい。
「なに?」
「どうした、ここ」
 ごく自然な風を装ってしまうあたり、まだ動揺が続いているのかもしれない。まあそれも今に霧散するさと、そのときの俺は確信していた。
「え? なにかついてる?」
 允花は首のあたりを示されてもぼんやりとした顔のままだったが、そこに触れるや否や、
「あ……」
 さっと顔色を変え、砂糖まみれのマグカップも置いたままどこかへと走り去ってしまった。
「…………」
 なんだ今の。なんだ、あの態度は。
 まるで見られてはいけないものでも見られたかのような、後ろめたさと罪悪感の塊みたいな顔は。
 やっぱりそうなのか。あれはキスマークなのか……!?
「………………」
 マグカップを片手に持ったまま、俺はわかりやすく狼狽していた。
 単なる顔見知りであっても、その首にキスマークがあったら驚くし、うっかり指摘してあんな態度を取られたらめちゃくちゃ気まずくなるのも当たり前だと思う。ましてそれが、同居人で、一応は保護監督責任を果たしている対象の、おまけに未成年の女子ならなおさらだ。……確かに允花も年頃だし、彼氏の一人や二人――二人はダメだな、倫理的に――いてもおかしくはない……し、恋人がいるならまあ、そういうことに、なっても、おかしくは…………おかしくはないがどうなんだ!? いいのか!? 相手は誰だ!?
 居ても立っても居られない、というのは今の状況のようなことをさすのだろう。
 俺はマグカップを放り出し、允花の後を追って彼女の自室まで押し掛けた。
「おい、入るぞ」
「え? 何? わっ!?」
 声をかけてほぼノータイムでドアを開ける。允花は鏡に向かって何かをしていた。よく見ると、痕があった場所に絆創膏を貼っている。……今更隠してなんになるのだろうか。
「あ、これ?」
 さらによくよく見ると、允花は何かチューブ状のものを手にしている。
「いまのうちに薬塗っておいたの」
「薬ぃ?」
 軟膏かなにかだろう。
「そんなもん塗ってなんの意味があんだよ」
「え、ないかな?」
 允花はやけに驚いた顔をしていた。まさか軟膏でキスマークが消えると思っているのだろうか?
「ねぇよ。時間が経ちゃ消えんだろ」
 そんな浅はかな考えに至るような子供が、キスマークを作ってくるような行為に耽るなどやはりどうかしているのではないか……? 俺が允花のベッドに腰を下ろすと、允花もそれに倣った。間に一人分以上の間が空いているのが妙に空々しい。
「そうなの? ……あ、もしかして薫も経験あるとか?」
 無邪気な顔でそういうことを聞かないでほしい。答えるけど。
「…………なくは、ない」
 いや俺はつけるほうだったけどね!?
 つけられたことは多分……ないな。これは胸中にとどめておく。
 しかし俺の答えを聞いて何がそんなに楽しいのか、允花はやにわに笑顔になっている。
「へぇ〜そうなんだ!」
「……なんでうれしそうなんだ?」
「え? 想像したらちょっとかわいいなって思って」
「かわ……!?」
 かわいい!? 俺が誰かの肌に鬱血痕をつける様が!? っつーか想像するなよ!?
「……お前……ちょっとそこに座れ」
 頭を抱えたくなった。育て方……じゃなく、監督の仕方を間違ったかもしれない。
「もう座ってるよ? なぁに? 深刻な顔して」
 允花は安穏とした顔だった。俺の深刻さなど1ミリたりとも伝わっていない。
「深刻にもなるだろ……いいか、まぁお前もいい歳だからな、そういうことになるのもまあ…………わかる。やめろとは言わねぇが……」
 ちらと横目で允花を見る。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。世辞抜きに完璧な肉体だと思う。おまけに素直で従順で、多少頑固ではあるけれど間違いなくいい娘だ。
 この身体をいいようにした男がいるのかと思うと、俺は正常な判断力を失ってしまいそうだった。
「言わないけど?」
 允花に促され、俺は視線を外した。
「まあその……節度をもってだな……」
 何を言っているのか自分でもよくわからない。
 やめろとは言えないが、いっそ言えたらどんなに楽か。こうなってしまったことについて責任や罪悪感を覚える必要もないのかもしれないが、大切なものがこの腕をすり抜けていったような喪失感だけは確かにあった。
 允花は気楽な顔のまま、俺に笑いかける。
「……よくわかんないけど、あんまり何回もいっちゃだめってこと?」
 むせるかと思った。
「……何回もいったのか?」
「まだ一回だけど……?」
 言葉の意味を深く考えてしまいそうになって、やめた。考えてはいけないことだと思う。というかあけっぴろげすぎるだろうが!!
「そ――そうか」
 もうこの話は終わりにしたい。なんだか頭痛がする。今日は一日一人にしておいてほしいのだが、允花はなぜか許してくれない。
「どのくらいならいい? うーん、週に一回とか?」
 妙に真剣な顔だった。正直そういうことを聞かないでほしい。
「具体的な数を出すなよ!? ……いやまあそのくらいなら、いいんじゃねぇの?」
 知らねぇよもう……。
 ……。
 一回につき一回として、週一って多いのかな、少ないのかな、俺にはもうわからん。まあ同棲とかじゃない限りはそれでも御の字なのかもしれない。
 15年ほど前のことを思い出そうとする俺は、さらなる爆弾発言を聞いてしまう。

「じゃあ次は一週間後かぁ……みんなかわいかったから、待ち遠しいなぁ」

「みんな!?」
「え、なに? なんか変なこと言った?」
 心底びっくりしましたとでも言わんばかりに見開かれた目だった。
「おかしいだろ!! みんなってなんだ! お前まさか、複数相手に……!?」
「え? そうだけど?」
 めまいがする。
「そんなに変かな……? わたし、なんだかモテモテで」
「それはモテてるとは言わねぇだろうが!! どういう倫理観してんだ!!」
 明らかに異常だ。複数相手なのもおかしいが、それを公言してはばからない上に俺が激高するのも理解できないという顔をしている允花の貞操観念がおかしい。
「ど、どうしてそんなに怒るの!?」
「怒るに決まってるだろうが!!」
 思わず顔を覆ってしまった。視界が遮られても、允花が困惑している気配は感じられた。
「そういわれても、あんなに迫られちゃ……」
「断れ!! ――待て、迫られたってお前、無理矢理……?」
 顔から血の気が引いた。
「無理矢理って……だって、話なんて通じないんだよ? 仕方ないでしょ?」
 だからって言いなりになったのか。抵抗もしなかったのか、それとも抵抗したのも無意味だったのか。
 お前、どうしてそれで笑っていられるんだ。
 しばしの沈黙の後、口を開いたのは允花だった。
「そんなに言うなら薫も一緒に行く?」
 どこにだよ、とは言えなかった。まさか不特定多数が参加して遊ぶような場に、こいつは行ってるのか。
「――本気か」
「う、うん……行ってみればわかると思うけど……?」
 俺の声に常ならぬものでも感じたのか、允花は怯えているらしかった。
 馬鹿野郎。怯えるところが違うだろうが。
 もういっそ泣きたいくらいの気分だったが、大人としてのプライドがかろうじてそれを推しとどめていた。
允花
「……うん?」
 ――このまま、細い手首を掴んだまま、この場に押し倒してしまおうか。
 今更俺が手を下したって何にも変わりはしない。何もなかったことにはできないし、允花が元に戻るわけでもない。
 冷たい現実は俺の手足から力を奪っていくようだった。それに抗うように、懸命につなぎとめる。
「もう、行くな」
 所詮俺にできるのはこの程度だ。道を踏み外したのなら、それを正してやることしかできない。
「え……どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか。そんなところにこれ以上入りびたるな」
「……」
 允花は途端に悲しそうな目になり、俺を非難するように見つめた。
「どうして急にそんなこと言うの? 昨日は『行ってこい』って言ったのに……」
 心底悲しそうな声で言われると罪悪感が凄まじ――待て。
「……は? 言ったか?」
 俺はそんなこと聞いていない。聞いてたらその時点で止めている。
「もう、またわたしの話聞いてなかったでしょ……」
 しかし允花の態度からするに、彼女は俺に行き先を告げたし俺も(多分生返事だっただろうけど)それを見送ったらしい。まったく記憶にないんだが……?
 混乱する俺の顔に呆れたらしく、允花は大きなため息をこぼした。

「昨日、猫カフェに行ってくるって言ったじゃない」

「…………ねこ?」
「そう、猫カフェ」
「ねこかふぇ」
「うん」
 言われてみれば確かに、ここ数日そんな単語が話題に上っていた気がする。蓮華台にオープンしたとか、チラシをもらったとか、一緒に行こうとかなんとか。
「あー……そう、猫……」
 ついでに言うと確かに俺は誘われたし、そんな女子供で溢れてそうな場所に行けるかと突っぱねた。ああ、そうだ、思い出した。思い出したらこう、允花の恨みがましい視線がものすごく痛い。 
「猫カフェに行くのがそんなにダメなの?」
「いや、駄目じゃない、うん、好きなだけ行くといい」
 全然反対しません。どうぞ存分に楽しんできてください。
 首を横に振って促すも、允花はどうやら不本意なままらしい。
「多分……会話が食い違っていたんだと思うんだけど……」
 うん、でもいいじゃないか、そんな些細なことは。

「薫はわたしがどこに行くと思ってたの?」

「どこでもいいだろもう」
 さっと顔ごと視線を逸らすが、允花はしつこかった。
「よくない。わたしは勘違いで怒られて怖かったんだから」
「悪かったよ。ほらもう謝ったからいいだろ? な?」
 我ながらどうかとは思う態度だったが、やはりだめだった。允花はするりと封魔管を取り出し、
「……モコイ」
「わかった! 言う! だから読心はやめよう!」
 読心術を使われてはたまったものではない。余すことなく曝け出されるくらいなら俺は喜んで自白の道を選んだ。
 とはいえ自分の思い込みと早とちり、それもよりによっていかがわしい方向に突っ走った内容を口にするのは相当キツイものがあった。
「その前にお前のこれ、なんだ?」
「これ? ああ、ノミに刺されたやつ?」
 首元を指すと、允花はあっけらかんと白状した。曰く、保護されたばかりの猫にネコノミでもついていたのでは、らしい。
 なんだやっぱり虫刺されの跡かよ。俺の煩悶を返せ。
「これがどうかしたの?」
 純真そのものの瞳からまっすぐに見つめられるとますます答えづらい。
 逃げたい。穴があったら入りたい。多分逃げたところで追いかけまわされるし穴に入ったとて引きずり出されるだろうけど。なんせ目の前の女はただの女ではない。仲魔という名のセコムが合計10体ついている。
 さすがに俺は観念するしかなかった。断頭台に昇る気持ちで口を開く。

「…………キスマークだと思った」

「…………」
「…………」
 沈黙。そしてベッドがきしむ音。別に艶っぽい動作によるものではなく、允花がさらに遠ざかっただけのことだった。
「…………やらしい……」
「うるせぇな……」
 そんなのは俺が一番身に染みて実感してるよ。
 允花は「うわぁ」だの「ええ……?」だのつぶやいているが、きっと先ほどの会話を思い返して俺の発言と照らし合わせているのだろう。何回も、とか、複数相手とか、無理矢理、とか……。俺が今発言の内容を猫カフェの中身と照らし合わせていたたまれない気持ちになっているように。
 一通り見分し終わったのか、允花は咳払いめいたものの後にこう言う。
「薫ってば何考えてるの……えっちなビデオとかの見過ぎじゃない?」
「見てねぇよ!」
 少なくとも見過ぎてはいねぇよ!
 見合わせた顔はお互いに赤かった。めちゃくちゃ気まずい。
「……俺は一応お前の保護者ってことになってるだろうが。だから、なんかの間違いがあっちゃいけねぇと思ったんだよ」
 もうこの話はおしまいだ。俺は允花の部屋を出ようと立ち上がる。コーヒーでも飲むか。いや酒でも飲んで忘れてしまいたい……さすがに飲まないけど……。
「ふーん……保護者かぁ……」
 どこか他人事のような允花の声が後ろからついてくる。そういえば二人してマグカップを放ったままだった。
「やきもちでも妬いてくれればよかったのに」
 拗ねたような声に足が止まりそうになる。が、動揺した素振りだって見せてたまるか。
「――俺が? お前に?」
 ないない。と、片手を振ると、允花は憤然と唇を曲げている。
 子供だよなぁ。笑いとともに正体不明の安堵がこみあげて、俺は寸の闡ァが詰まりそうだった。
「せめて砂糖の入ってねぇコーヒーが飲めるようになったらな」
 そのときは、保護者としてふるまうかどうかわからない――かも、しれない。

- 了 -
2020/06/29