ガラスが割れる音というのは珍しくもないものだが、何分それを聞いたのが久しぶりだったので、パオフゥは寸の間反応が遅れてしまった。
状況は見ればわかる。洗い物をしていた允花の手が滑ったのか、白い皿が床に落ちたらしい。足元で粉々になった破片を見つめながら、きっと普段の自分なら軽口の一つでも叩いただろうが……と、少しばかり苦い思いをしつつパオフゥは椅子から腰を上げた。
今朝は朝食の前から、允花の様子がおかしかった。ずいぶんと気だるそうな顔をしていたし声にも張りがない。具合でも悪いのかと聞くと、そんなことはない、気のせいだと笑ってごまかされる。とてもそうは見えなかったが、頑固者をそれ以上問い詰めたところで結果は目に見えていたのでパオフゥはとりあえず納得したふりをした。その結果がこれなのだから、やはり隠そうとしている何かは重篤なものに違いない。無理にでも聞き出せばよかった、允花が自分から言い出さないならどうにか聞き出すのが大人の自分の役目だろうに。
「おい」
「あ……ごめん……」
不甲斐なさを今更悔いつつ、皿の破片を拾い集めようと膝を曲げる允花の傍らにパオフゥも同じようにしゃがみこむ。瞬間、ぎょっとした。
「お前……ひでぇ顔だぞ?」
十代の少女相手にひどい顔と言うのも気が咎めたが、それ以外に言い表しようのない顔色だったのでしょうがない。つい正直な感想が口をついて出てしまった。
允花は怪訝な顔をしているつもりだろうが、おそらく体調がそれどころではないためか、ぼんやりとした表情にしかなっていなかった。
「……真っ青じゃねぇか」
血の気が引いているとか、そういうレベルではなかった。いつもならばら色をしている頬も、赤みのさした唇も、真っ白に塗り固められたように見る影もない。今にも倒れそうな、というか、倒れていないのが不思議なくらいだった。そのくせ本人は大したことじゃないと言い張って後始末に固執している。
「平気だよ、ちょっと、ぼーっとしてただけ」
浅い呼吸で言われても何の説得力もなかった。のろのろと破片に伸ばされた力のない腕は、パオフゥによって阻まれる。そんな調子で破片に触れば怪我をするのが目に見えていた。
何をするのかと言いたげな目で允花は顔を上げる。どうやら声を出す気力もないらしい。
パオフゥは呆れた。同時に、自分たちが情けなくもあった。信用されていないとは思いたくないが、体調不良を正直に打ち明けられないことも、踏み込むのが恐ろしいようで逃げ腰の遠慮をしてしまうことも。
「もういいから休め」
ここは自分が片付けると言っても允花は首を縦に振らない。まあ予想はしていた。言葉で説得できる相手ではないことは、数年来の付き合いでよくわかっている。であれば、休ませるには実力行使――つまり、無理やりにでもベッドの中に押し込んでしまうしかない。
「――じっとしてろよ」
断りにならない断りを入れて、パオフゥは允花を抱き上げた。
「えっ!?」
当然、いきなりの突拍子もない行動に驚いた允花は体をこわばらせる。しかし担ぎ上げられた状態で暴れれば双方ともに危ないということはわかっているのだろう、困った顔でうつむいたまま、あとは大人しく運ばれるだけだった。
「……ありがと」
自室のベッドに下ろされて、允花は戸惑いながらも小さく感謝の言葉を口にした。広げた毛布の中に身を横たえるのを確認すると、パオフゥは軽く嘆息する。
「どこが悪いのか聞いたってお前は答えねぇからな。……別に無理矢理聞こうとは思っちゃいねぇよ。言いたくないならそれで構やしねぇから、黙って寝てろ」
強がってばかりでいられると、そんなに自分が頼りないかと情けなくなるし。――とは言えなかった。しかしパオフゥの考えがいくらか伝わったのか、允花もしゅんとすまなさそうな顔で頷いている。まぁ允花も大人しく言うことを聞いていることだしと手打ちにすると、パオフゥは表情を緩めた。
「なんかあるか、欲しいもん」
常備薬で対応できるものならいいがと軽い気持ちで尋ねるパオフゥに、允花は少しためらった後、おずおずと口を開いた。
「あの……痛み止め、ある?」
「痛み止め?」
なんだ頭痛かと言いかけて、思いとどまる。というか、さすがに察しがついた。先程うずくまっている間も、允花は腹部を押さえていたように見えたのだから。
「――ちょっと待ってろ」
パオフゥは気まずさを隠すように部屋を後にした。意識していないわけではないし一応女扱いしているつもりだが、実際にその事実を突きつけられると戸惑いのほうが大きい。
(さすがにアレに効く漢方は持ってねぇぞ……)
自分では一生涯知ることもない痛みには共感も理解もできないが、せめて気遣ってやることぐらいはしておきたい。パオフゥは自室の引き出しをひっくり返し、鎮痛剤を探した。いつだったか酷い歯痛に悩まされていたとき、服用していた残りがあったはずだった。
「あった……って、一錠だけかよ」
薄べったい箱の中にはほとんど空のブリスターパック。ないよりはマシとはいえ、これではその場しのぎにしかなるまい。大体允花も買い置きくらいしていないのだろうか、それとも急なことだったのか。そのあたりの事情に踏み込むのはさすがにためらわれたので、普段服用している薬があるなら確認して買ってきてやろう。おおむねそのようなことを考えながらパオフゥは台所でグラスに水を注ぎ、允花の部屋に取って返した。
「ほら」
允花は上半身だけを起こして待っていたらしい。律儀なことだと思いながら水の入ったグラスと薬をそのまま渡そうとしたものの、パオフゥはその手を止めた。皿を落としたくらいだから、きっと手に力が入らないに違いない。そう判断して片手で器用にブリスターから薬を取り出すと、
「口開けろ」
白い錠剤を允花の唇に近づける。
「い、いいよ! 自分で飲めるから!」
これにはさすがに允花も動揺して断るのだが、言い出した手前引っ込みのつかないパオフゥの攻勢からは逃げることもできなかった。
「皿落としたくせに言ってんじゃねぇ。大人しくしろ」
「んーー!」
攻防はすんなりと終わった。唇に触れられるのが嫌だったのか(ちょっと傷つく)、限界まで顎を引いて逃れようとしたものの、壁に頭が接触したら允花はすぐに口を開けた。恨みがましい視線には気づかないふりをして、パオフゥは水の入ったグラスを差し出す。
「全部飲まなくてもいいからな」
允花が両手を添えても離さないあたり、支えていてくれるらしい。信用されていないのだろうか。允花はなんとなく釈然としなかったが、確かに指先に力が入らないのでその気遣いはありがたかった。
「……口移しかと思った」
グラスのふちに唇を当てた允花は、飲み込む前にそんなことを口にした。ちょっとした意趣返しのつもりで。
「……」
さすがにそこまではしねぇよ。パオフゥは口の中でだけ呟いて、允花の喉が薬を飲み下すために動くのを見ていた。
「よし。じゃあ大人しく寝てろ」
半分ほど水が減ったグラスを受け取っても、パオフゥはその場――腰かけたままのベッドの淵――から動こうとはしなかった。どうやら允花が毛布に潜り込むのを確認しないままには出ていくつもりはないらしい。
笑えばいいのか呆れればいいのか、允花はわからなかった。ただ、彼らしい不器用なやさしさだと思う。
「なんだ、変な顔して」
允花が大体何を考えているか察しているのだろう、パオフゥは居心地の悪そうな顔になった。
「ううん。今日は薫、優しいなあって思って」
体調が悪いながらも少しうれしそうな顔の允花は、毛布をめくってその中に体を滑らせる。
「……誰だって病人は気遣うだろ」
片手で毛布をかけてやる男はやさしくしてやることに何のためらいがあるのか、まるで罪悪感でも持っているような顔をしていた。
「うん、そうだね」
そこにはもっと深くて複雑でややこしい事情があるのだろうけど、照れ隠しということにしておこう。鈍痛に見舞われている允花は、ゆっくりとまばたきをした。横になると少し体調が楽になった気がする。薬が効けば起き上がれるだろう。尤も、パオフゥは許さないかもしれないが。
「……なんかあるか、欲しいもの」
本当に今日は珍しい。
さっき同じようなことを聞いた気がする……いや気のせいではない……と、允花は、気づかわし気な顔のパオフゥを見上げた。
「どうせ鎮痛剤買いに行くんだからな、ついでだよ」
お前、普段何て薬飲んでんだ。と、いうパオフゥの問いは、後になって思えば允花の事情をすべて察した上でのことだったに違いない。允花にだって人並みの羞恥心はあるのでなんともいたたまれない気にはなったが、それにしてもスマートな聞き方だったと思う。昔の恋人に似たようなことをしていたのだろうか? なんて邪推もしてみたけれど、別に嫉妬するわけでもない。ただ、誰かへのやさしさが今の彼を形作っていること、そして自分にもそのやさしさが向けられていることが、純粋にうれしかった。
いつも飲んでいる薬の名前を告げると、確認のためかパオフゥは二度ほどそれを繰り返して立ち上がる。その服の裾を、允花は思わず掴んでいた。
「――どうした」
これにはさすがに意外だったらしく、パオフゥが目を丸くしている。そのリアクションは允花にとっても自分の思い切りの良さを痛感させられるものだった。が、掴んでしまった以上引っ込めるわけにはいかない。
「あのね……ちょっと遠いんだけど、お遣い頼んでもいい?」
遠いという理由だけではなく気が咎めたのだが、おそらく今日はもう自分は外出できない。となれば、申し訳ないが彼に頼むしかない。
「なんだ?」
もう一度ベッドに腰を下ろし、パオフゥが促す。
「……プレアデスの2階のお店に美味しいケーキが売ってるの」
「……」
ケーキ屋と聞いたパオフゥの眉が顰められた。
ホテル・プレアデスは同じ鳴海区にある高級ホテルだ。允花が気にするほど遠くはないのだが、男一人でケーキを買いに行くのはパオフゥとしては心理的なハードルが高い。……いや、シーサイドモールにあるような、女子供が四六時中群がっている安っぽい店よりはホテルのパティスリーのほうがまだ客層はマシか。
大体そんなことを頭の中で思い描いて、「まぁプレアデスとてジャケットだけ羽織っていけば咎められることもなかろう」と算段をつける。しかしケーキが食べたいと言われても、普段甘いものを食べないので何を買ってくればいいのか皆目見当もつかない。
「……で? どんなの買ってくりゃいいんだ?」
イチゴが乗ってるやつなのか、それともチョコレートでコーティングされたようなやつなのか。貧相な知識を補強するべく允花に尋ねると、どういうわけかその必要はないと返される。
「大丈夫。わたしの名前出したらわかるから」
「は?」
なんだそれは、常連か。「マスター、いつもの」ってやつなのか? ケーキ屋でもそういうやり取りをするのか? というかプレアデスのケーキ屋で常連……まあパパラチャで頻繁にアンティークの売買をしてる允花だから毎回ケーキ屋によってもおかしくはないか。
――と、勝手に納得したパオフゥは「わかった」と頷き今度こそ腰を上げる。
「しかし具合が悪いのにそんなもん食って大丈夫なのか?」
食欲もなさそうなのにケーキなんて甘ったるいものが食べられる神経がわからん。パオフゥの呆れた顔には、允花の静かな笑顔だけが返された。