Lascia ch'io pianga

 こんな夢を見た。

 廃墟の中に俺は佇んでいる。
 土埃がひどいのか、口の中がざらざらと酷い不快感だった。たまらず唾を吐き捨てると、赤いものが混じっている。その色を見た瞬間、顔に体に激痛を感じた。
 思い出した。口の中が切れているのは殴られたからだ。
(殴りつけた男は、5メートルほど先で死んでいる)
 左手の甲には銃でぶち抜かれた穴が空いている。
(悔しいことに、白い服の男は取り逃がした)
 あとは鎖骨の下、脇腹、膝の上。一発ずつ弾が撃ち込まれて血が止まらない。生きているのが不思議なほどの重症だ。
(なぜ、生きている?)
 ここは工場なのだろう。工作機械に寄りかかるように、あるいはその上にうつ伏せて、男たちが何人も死んでいる。何も感じない。多分、俺が殺したのだろうと理解できても、感情が動かない。
――どうして生きているの?
 ああ、おかしいよな。生きているはずなのに、俺は何も感じない。
――私は死んでしまったのに。
 君がそこで倒れているのを見ても、指先一つ動かせない。
――悔しい、赦せない、憎い。
 そうだな、俺も、自分が赦せない。



 こんな夢を見た。

 ブラインドの隙間から淡い日差しが降り注いでいる。間仕切りで二つのスペースに区切られた部屋には、それぞれ三つ一組となった机と椅子が置かれていた。奇妙な配置だが馴染みのある光景だった。検事の俺は一番窓辺に近い席で、左手には事務官の彼女が控えている。うつむき加減で書類を整理する彼女の、銀色のイヤリングがぼんやりと輝いていた。午後の業務が始まるまであと5分。送致されてくるのは二十五人を殺した男だと聞かされる。
――そんな大事件、起こっていたっけ?
 戦後最悪と言われた事件に匹敵する規模だ。報道されないわけがないが、そんなものはニュースでも新聞でも見た記憶がない。
――覚えてないんですか?
 軽やかな声だった。驚いている風でもなく、呆れているわけでもなさそうな、平坦な声音。どうしてそんな言い方をするのか俺にはわからない。しかし、わからないなりに、なにかよくないものが来るような、よくないことが起こるような予感がした。
――”俺が殺したのは人間じゃない。二十五匹の間違いだろう” ……彼はそう嘯いているんですって。
 深い赤の唇が動く。嘲笑うようにゆがめられたそれは、一体誰を、何を憐れんでいるのだろう。
 俺は彼女の顔を見ることができなかった。知っているはずの顔が、今はまったく知らないものに変わっているような気がして。その目が責めているのは何か、知らないふりをしているだけのように思えてきて。
――おまけに少女への暴行と殺人未遂まで。いくら事情があったって、
 細い指先が、彼女自身のハイネックの襟にかけられる。
――こうまですること、ないじゃないですか。
 ぐいと引き下げられた内側、白い首にはくっきりと、両手の親指で圧迫されたときの赤黒い痕が残っていた。
 耳鳴りがする。
 視界が白に塗りつぶされる。
 フラッシュバックする過去の光景が、怒涛のように流れ込んでくる。
 切り刻まれた男たちだった肉片、血を流して動かない女の体、ぐったりと投げ出された白い四肢、焦点の合わない目が涙を流している。
――どう償うんですか?
 差し出された送致書には、よく知っている男の名前があった。
 その男はもう死んだのに。
 俺はこんなところにいるわけがないのに。
――そうやって逃げるの? いつまでも、罰されないまま……


 夢から覚めても、俺は体を動かすことができなかった。悪夢から逃れた人間は安堵するものだろうが、俺は覚醒しても恐怖からの開放などまったく味わってなどいなかった。
 むしろあと一歩、手が届きそうだったものをつかみ損ねた失望と落胆。そう言い表せそうな何かに似た甘い痛みだけがぼんやりとした輪郭を保っている。
 美樹、と、かすれた声で呟いてみた。途端に、じわじわと締め付けられるような苦しさがこみあげてくる。何も感じなかったはずの悪夢が俺を黒い波に飲み込んでいく、そんな幻影すら見えそうだった。
 赤い血だまりの中で冷たくなっていく体を抱きしめたかった。こんな、生きているのか死んでいるのかわからない有様になるくらいなら、俺はともに死んでしまいたかった。それもかなわないのなら、いっそ――
(いっそお前に取り殺されたなら、どんなに――)
 は、と、笑い声が口から洩れる。
 何を考えているのだろう。死んだ女にできることなど何もない。美樹は俺を殺すこともできないし、この罪を詰ってくれることもない。夢など所詮、俺の深層心理だか何かが見せた幻に過ぎないし、もっと現実的に言えば、生命維持のために脳が情報処理をする際のノイズでしかない。そんなものに意味や救いを見出そうなど、ばかげている。俺は死なない。まだ死ねない。美樹の仇を討って、連中を地獄に引きずり落とすまでは死んだって死にきれない。
 何度繰り返したか覚えていない決意を頭の中で復唱する。大丈夫だ。まだこの憎しみも怒りも悲しみも消えてはいない。忘れやしない、いいや、忘れることなど許されない。
 けれど――

 それを果たしてしまった後、俺はいったい、どうしたらいいのだろう。刺し違えて死ねるならそれもいい気がした。でも、生き残ってしまったら? また俺だけ、一人無様な姿を晒さなければならないとしたら?

 上半身を起こし、俺はぼんやりと部屋を見渡す。
 誰も、いない。
 もはや断罪してくれる誰かはどこにもいない。
 発狂しそうな暗闇が耐えられない。




「わ! ……どうしたの?」
 図ったようなタイミングだった。俺が部屋を出るのと允花がその前を通りかかるのはほぼ同時だったらしく、驚きに見開かれた目に至近距離から見上げられる。
 無意識に、その首を見てしまう。痕などどこにもない。
 ほっとした自分に嫌気がさした。傷跡が残らなかったらそれでいいわけではないし、無邪気な顔を見て落ち着くような気がしたのも腹立たしかった。
「別に……」
 なんでもないとごまかすのも苦しかった。
 何せ逃げるようにドアを開けた俺は、相当動転していたのか眼鏡もかけていない。かすかにぼんやりとした視界でも、允花が気遣わし気な顔をしているのはわかっていた。この女がこういう俺を放っていてはくれないことは、経験則で理解している。
「わたし、お茶飲もうと思ってたんだけど、薫も飲む……?」
 ためらいがちに允花が廊下の先をさす。名ばかりの狭い台所に誘われているのだろう。

 まぎれもなく善意だけのこいつに、時々ひどく苛立つことがある。
 悪夢らしいものを見たのはこれが初めてではない。そのたび動揺する俺に、動揺を隠そうとしている俺に、允花は気づかないふりをしようとする。何も聞かないくせに、どうにかしてやりたいという意思は隠さない。それがどうにも、腹立たしかった。毎度允花にずるずると甘えている自分は、それ以上に腹が立った。
 時々忘れてしまいそうになる。自分が今どうして生きているのかを。
 湯を沸かす間も、並んでシンクにもたれて茶を飲んでいる間も、允花はたわいもない話をやめない。俺が聞いていようがいまいが、どちらでもいいのだろう。俺の気がまぎれればそれでいいとでも思っているに違いない。
 感謝すべきなのだろう。
 俺は允花の献身を疑いたくはなかったが、一度殺されかけた男相手にどうしてこうもできるのかが疑問だった。
 赦せるものなのか?
 その疑問は、一つの恐ろしい可能性を提示する。
 允花が俺を赦すなら、俺だって赦さなければならないのか?
 愕然とした。それだけはできそうになかった。それだけは、してはならないと思った。俺は俺の復讐を止める気はないが、そのたびに矛盾を突き付けられる苦しさを感じるようになった。
――あなたは人を殺し、その手で殺しそうになったことを赦されながら、自分は絶対に赦さないと言うのね。
 悪夢の中で罪状を読み上げる美樹の顔が今も頭から離れない。しかし、彼女が悪夢となって俺を責めてくれるうちは、俺は自分を見失わないような気がした。
 湯気のせいで靄がかかる視界に允花はいない。いなくてよかった。まっすぐにその顔を見ることは、どうしてもできそうになかった。


 俺は救われようなんて思っていない。しかし、言い聞かせなければならないのは、本心では救われることを願っているから、だろうか。
 何が救いだと言うのだろう。俺自身が、どうすることで救われるかを知らないのに、救われたいと願うのはあまりに愚かしいことではないか。

――そうかしら? 苦しみから逃れたいと願うことが、そんなにも悪いこと?

 悪いとか良いとか、そういう話じゃない。
 ただ俺は、この憎悪を手放したくはない。この悲しみを過去のものにはしたくない。君に降りかかった痛みや無念は、今は俺のものなのだから。君はもういない。俺が覚えていなければ、忘れさられてしまうじゃないか。

――あなたを苦しめるくらいなら、忘れてもらっていいのに。

 君は困ったように笑っている。知っている。俺は昔、その微笑みを向けられていた。ずっと近くで、それこそ、手を伸ばせば触れ合うこともできたくらいの距離で。
 今俺の頬に触れているこの温度は何だ。優しい光を集めたような、悲しいなつかしさで胸を掻きむしりたくなる。悪夢の君とは違う。生きている君とも違う。これも俺の願望なのか。見殺しにした女に優しく赦されたいのが俺の本心だというのか。
 崩れ落ちる膝をついてしまった。うなだれる俺は懺悔しているのか絶望しているのか自分でもわからない。

 なあ、俺は、どうしたらいいかなあ……。

 光の中を見上げれば、美しい唇が開こうとしていた。どんな裁きが言い渡されるのだろう。
 俺はやはり、彼女の手に引導を渡してほしいのかもしれない――



 再び目を開けたときには、すでに夜は過ぎ去っていた。淡い光の中で、天井を見上げる視界がぼやけていた。
 覚えていない夢を必死に思い出そうとするのに、手を伸ばすほどに逃げられていく。影も形もないものは、とうとうその余韻すら残さずに消えてしまった。
 悲しいのかむなしいのか、よくわからなかった。ただ、視界がにじんでいる理由だけは、理解できた。
 目を閉じる。誰かの指が、濡れた頬に触れている。その温度も柔らかさも、知らないはずなのに覚えがあった。
「ーー」
 かすれた声で名前を呼んでみる。きっと困ったように笑っているのだろう。息を漏らした気配だけが、光の中に満ちていた。

- 了 -
2020/05/31