R30のゆううつ

 そもそも帰宅して早々鼻をついたアルコール臭に、嫌な予感しかしなかったのだ。
「おかえりぃ〜」
 手を振る代わりなのかソファに寝そべって肘掛部分に膝をひっかけて、ぶらぶらしている允花は明らかに素面ではない。
「お前――」
 言いたいことは山ほどあるというのに俺の口は空いたままふさがらない。呆れて物も言えないとは、昔の人はよく言ったものだと思う。
 何飲んでんだ。それは俺のとっときのバーボンじゃねえか。チェイサーもなしにストレートで飲んだのか、よく急性アルコール中毒起こさなかったな。もとい、大体お前ギリギリ未成年だろうが。
 以上をすべてひっくるめて口から出てきた言葉は、「何やってんだ」の一言だけ。べろんべろんになった允花は、へらへらと笑っている。笑っているが目が据わっている。ああ、駄目だこりゃ。完全な酔っ払いだ。俺が呆れた顔をしてみても、腕を組んでむっつりと黙ってみせても、箸が転がってもおかしいお年頃ですと言わんばかりの態度で笑い転げている。こちとら大人らしく説教の一つでもせにゃなるまいと思っているのにこれでは話にならん。水でもぶっかけてやろうか、いや、いっそ風呂に放り込んでやろうか。
 いずれにせよ黙ったままでは埒が明かないので、俺は酔っ払いのほうへと歩みを進めた。
 近寄ってみてわかったのだが、惚けたような目で見上げられるのはこう、ずしんとクるものがある。が、当の本人はそんなことは露知らず、上機嫌を隠そうともしない。
「んふふ〜」
「“んふふ〜”じゃねえだろ、気色悪い。こら、触るな」
「ひ〜ど〜い〜」
 起き上がった允花は酔いでくたくたの手足を俺に絡ませてくる。熱い呼気がそこかしこに充満しているようでものすごく居心地が悪い。
 俺は多分少し、焦っていた。というか、少女の体から立ち込める甘いにおいに頭が警鐘を鳴らしていた。それを理解していた。していたのに、抱きつかれるがままになってしまう。真正面からもろにむけられた視線には、色香と言ってもいいものすら感じられた。あ、まずい。そう気づいた途端、くにゃくにゃの腕も腰のくびれも、押し付けられた胸をぴったりと包むTシャツの白さも、すべてが扇情的に感じられてくる。
「かおる……」
「な、なんだ……」
 こんなに赤い唇をしていたっけ。こんなに細い首をしていたっけ。
 思わず目を逸らしてしまったが、允花はそれを咎めることもせず黙って俺の上着の内側、胸元に両手を滑り込ませる。
 こんなに手のひらは熱いものだったっけ――じゃなくて。
 はっと我に返って引きはがそうとするが、結局ろくな抵抗にもならない、その理由がわからない。わからないことにして目を逸らしたかった。
「だっ、からお前は、何してんだ、何のつもりだよこりゃ」
「ぬがしてあげてるのー」
「っバカやめろっ、自分でする!」
「いーやー! わたしがするの! したいの!」
 溜息しか出てこない。允花にじゃない。変に曲解する俺に対して、だ。
 したいしたいと言われても“そういうこと”でもないだろうに。ここまできたら認めざるを得ない。俺は、なんだかんだでこの状況を受け入れているどころか期待すらしているんじゃないか。
 しかし言い訳させてもらえば俺もまた酒を飲んで帰ってきたわけで、もちろん允花のようにべろべろに酔ってなどいないが、今日のようなほろ酔いの気分は心地いいし、まあその、正直そういう気にならないでもない。どころか、こんな風に胸を押し付けられて、押し倒しもしない俺を褒めてほしいと言うものだ。
 それはさておき。
「お前なあ、男にそんなことしてどうなるかとか、考えねえのか?」
 所詮酔っ払いに何を言っても無駄ではあるが、ついつい苦言をもらしてしまう。允花は俺の上着をとっぱらったことに満足したように笑い、首に両腕をまわしてくる。なんだシャツは脱がせないのか……いや、そうじゃねえ。飲まれるな、この変な雰囲気はどう考えたって不味い。なのに上着はいつになく乱雑な手つきの允花によって、ソファの背もたれにポイと放られる。まるで、二人の邪魔をするなと言っているように。
「どうなるのー?」
 やはり俺の言うことなどわかっちゃいない。思わず天井を仰いで嘆きたくなる。酔っ払いに説教しようとしたのが無謀だったのだろう。
「どうなるんだろうなあ」
「どうにかしちゃうの?」
 なあ、これは誘ってるんだよな? 蕩けた視線と半開きの唇と、柔らかい女の体温。
「……どうしてやろうかねえ」
 ふらふらとしている允花の腰を支えてやると、安心しきったような顔で笑っている。
 ガキみてぇだな、そう思うとなんとか理性が持ち直す。
 ばかやろう。無防備すぎだ。お前が抱きついてる男ってのはな、腹の中じゃ何考えてんのかわかったもんじゃねえんだぞ。何かされた後で「そんなつもりじゃなかったのに」なんて言ったって、意味なんかねえんだからな。わかってんのか? わかってねえか。わかってりゃこんなことしねえよなあ。俺はなんだか、泣けてきたぜ……。
 ぐずぐずと腹の中で渦巻く汚い欲があることを言葉にしないあたり、俺も男だし、汚い大人でもあるのだろう。あわよくばという気持ちがあることを否定できないのだから。
汚い大人は己の心中を悟られたくなくて、二の腕を掴んで引きはがそうとする。と、允花は「ひゃあ」と声を上げて笑った。
「く、す、ぐった〜い」
 身をよじって逃れようとするので――というより暴れまわっていると言った方が適切だろう――これなら勝手に離れていくと思って、ぱっと放してやる。すると允花は体を抱くように己の二の腕を掴み、何か思いついたような顔をしたかと思えば、
「あのね、そういえば二の腕のここのやわさってね、」
 二の腕の内側の肉をつまんで允花は笑う。
「おっぱいのやわさとおんなじなんだってー!」
「ばっ……!?」
「確かめてみるー?」
「するかバカ!」
 脱力した。どこでそんなことを知ったんだと、聞きそうになってやめた。話にのせられてたまるか。ソファに座りこんでうなだれていると、允花は隣に勢いよく腰を下ろす。そして俺に向かって両腕を伸ばし、
「抱っこ」
「ああ?」
「ぎゅー!」
「ぎゅうって、お前――おいどこ座ってんだ!」
 人の脚の上に座り、允花は悦に浸っていた。俺の肩口に額をこすりつける様は、まるでマーキングする猫のようだ。縄張りを誇示したいのか何なのか知らないが、なんと意味のない行為だろうかと思う。
「俺の膝の上に乗ってくるのはお前くらいのもんだよ……」
 だから別に、そんなことをする必要もないだろうに。
「えへへ〜」
 何がそんなに嬉しいんだ。
「ガキ……」
「こどもだもーん」
 ……その子供相手にむらむらしてる俺はなんなんだろうな。
 後ろ頭をなでてやりながら、そのうち允花の酔いも醒めてくるかもしれない、冷静になってしまうのかもしれないと危惧してしまう。危惧、なのだろうか。まさか俺は、このまますべてを知ってしまうことを望んでいるのだろうか。
酒のにおいに、思考がだんだんとぼやけてくる。
「はー……それ、きもちいい。もっとさわって……」
 頭を触られるのが心地良いらしいが、なにやら問題発言の感が否めない。脚の上に横座りして、允花はとろんと俺を見ている。瞬きの一つ一つは緩慢になってゆき、目を閉じて何かを待っているようにも見えた。
 煙草が吸いたい。それならここに允花を放り出して、部屋に入って吸えばいい。俺がすべきことはそれだ。色欲に負けて花を散らすことではない。そんなことはわかりきっている。いつまでと定めたわけではないのだが、さんざ待ち続けて手折ることをしなかったのは何のためだ? 絶対に傷つけまいと決めていたのは嘘だったのか?
「人の気も知らねえで……」
 允花は俺の言葉に、首を傾げた後にこりと笑った。そうして誘うように手を伸ばし、サングラスを奪ってしまう。
「お前はほんとに……とんでもないお姫様だよ」
 明るい視界を得て、一線を越えてもいいと言われた気がした。お互いそれを望んでいると、思い込みのような理解のまま、唇は重なった。
「ん……」
 ねっとりした唾液を追いかけるように、薄い舌が追いかけてくる。俺のシャツの胸元を、細い指先がぎゅうと握り締めている。息を継ぐために一瞬遠ざかる唇。更なる熱を求めて、熱い呼気が頬をかすめた。
「もっと……」
「……“もっと”?」
「もっと、して……」
 ああ、こりゃいけないな。かすれた声が耳にかかり、腰のあたりにぐうと、欲が集まっていく。
 ついにこれ以上先まで行ってしまうのか、いいや、まだ引き返せるはずだ、しかし俺は本当は、それを望んでいたのでは?
 奥歯をかみ締めながら、允花の頬をそっと撫でる。熱い。子供のようにふっくらとした頬は、とてもやわらかい。
 頭の中がぐるぐるとこじれてくる。俺はいったいどうしたいのか、どうすればいいのか。男の俺はどうしたいのか、大人の俺はどうすればいいのだろうか。
 しかし――
「かおる、おねがい……」
 拒める男がいたら顔を拝んでみたい。こんな顔向けられて、こんな声で言われて、何もしない男などいるわけがない。
 人の理性など案外脆いものに違いない。したいように、してしまえ。
 刑法第百七十八条? 知らん。忘れた。もうどうにでもなれ――
允花――」
 ソファに押し倒されても、下唇を甘噛みされても、允花は何も言わなかった。彼女の片脚をまたぐと、からめ捕るように両足が動く。俺が手を下すまでもなく、少女の姿態は女のそれだった。
 血管の透ける首筋を、華奢な鎖骨を、舌がなぞり唇が吸っていく。
「いいんだな」
 返事は、ない。
 片手で胸のふくらみに触れると、指先がたやすく沈み込んでいった。
 やわらかい。やわらかさにタガが外れそうになるのを必死でこらえる。何せ允花にとっては(多分)初めてなのだから、できるだけいたわってやりたい。今も頭のどこかで「酒の勢いで初めてというのは、どうなのだろう」と思わないでもないが、欲情してしまった俺には俺の、事情というのがあるものだ。
 服の上から唇を寄せれば穏やかに上下する、胸のふくらみをあらわにしてやろうと、シャツの裾から手を差し入れる。しっとり汗ばんだ肌が手に吸い付き、捉えて離さない。それを背中まで滑らせて、下着のホックをはずそうとする。
允花、背中」
 背中を少し上げてくれないと指を動かせない。が、当の本人には協力するそぶりもない。
どういうつもりかと少し苛立った俺は允花の顔を仰ぎ見た。
「――」
 一体今夜は何度唖然としたらいいのだろうか。こともあろうに允花は、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
「おい……」
 シャツの中から腕を抜き、ぺちぺちと頬を手の甲で叩いてみても微動だにすらしない。さすがに寝ている女を、寝たままどうこうする趣味は俺にはなかった。
 ここまで期待させておいてこんな結末なんて、一体だれが予想しただろうか。
「おあずけかよ……」
 しばしそのままの体勢で呆然としていたのだが、体のほうが落ち着いてくると頭も冷静になってくる。冷静にならざるを得なかった、と言うべきかもしれないが。
「ま……そうだよな」
 そうだ、これでよかったのだ。酒の勢いで抱いちまうなんて男として最低だ。別に合理化しようとしているわけではない。今までと変わらない関係を、とりあえず維持することに成功した。それで十分だ。
 それに俺は、允花をただ抱きたかったわけじゃない。そんな意味のないことは、したくなかった。
 だから、これでよかったんだ。
 ソファからそっと抱き上げると、允花はむにゃむにゃと口を動かして笑った。まったく邪気のない顔に、こちらの毒気が抜かれてしまう。抱きかかえた体を寝室のベッドまで運んで寝かせてやると、気持ちよさそうな寝顔を見せてくれた。本当に、こんな穏やかな寝姿だけ見ていれば本当に無垢で清楚で、ついさっきまで酒に乱れていたとは思えない。
「ま、お姫様には手出しできねえな」
 まぶたにかかっていた前髪をよけてやり、すべすべとした額に口づける。今の俺と允花には、このくらいが十分だ。彼女が大人になったらもっと……まあ、今は考えなくていいだろう。
 それはそうと、明日になったら飲酒のことをきっちり叱らなければ――。

§

「……あだまいだい……」
 一夜明けて、允花は案の定ベッドの中で眉間に皺を寄せている。生まれて初めての二日酔いはさぞ苦しいだろう。
 ざまあ見ろ。
 ……別におあずけを喰らったからそう思っているわけではない。
「二日酔いだな。ガキのくせにがぶがぶ酒なんか飲むからだ」
 俺は大人として、バカをやった子供を叱っているだけだ。人間は愚かなもので、味わった痛みからしか学ぶことができないものだ。これで当分は酒を飲むこともないだろう。
「ぎもぢわるい……」
 とはいえ苦しそうな顔をしているのはかわいそうだった。二日酔いなんて時間が解決するものだろうが、多少楽にしてやることはできるだろう。
「水飲めるか?」
 小さくうなずいた允花が起き上がるのを手伝ってやる。昨日触れた肌の熱を思い出すようで、少しだけ指先が疼いた。
「ほら、五苓散。二日酔いにゃこれだ」
「うう……」
 こいつはこういうときの聞き分けだけはいい。苦い漢方薬を飲み下して、允花はいっそう眉間の皺を深くする。俺がふざけてそこを親指でぐりぐりと押すと、いやいやをするように払いのけられた。その動作すら、しんどそうではある。
 薬の包をゴミ箱に捨てて、煙草を咥えたものの火をつけるのはしなかった。そもそも苦手な上に体調の悪い折なのだから、控えるくらいの配慮はしてやろう。
「まったく……もうこんなことすんじゃねえぞ」
「あい……」
「反省してんのか?」
「……」
「コラ、返事しろ」
「……薫だって昨日」
 じとりと睨まれた。寝起きの態度からして昨夜のことは覚えていないと思っていたが、実は覚えていたのだろうか。
「きっ、昨日、なんだよ?」
 しどろもどろになりそうなのを隠してみるが、どこまで欺き通せるものやら。なにせこの女、カンだけは妙に鋭い。
 しかし果たして允花が指摘したのは、俺が働いた不埒な所業ではなかった。
「薫だって昨日、お酒飲んでたのになんで? なんで平気なの……?」
 どうやら同じく酒を飲んでいた俺がけろっとしているのが気に入らないらしい。
「……俺はそういう体質なんだよ」
 酒に強いのもあるが、酒の飲み方を覚えたからというのが妥当かもしれない。とはいえ説明が面倒で、当たらずとも遠からずな返事を投げると、「ずるい」と一言だけが返ってきた。ずるい? あれだけ煽った挙句据え膳を取り上げたお前が言えたことかと、言いたいのをぐっとこらえて溜息で返す。
 小さな唇はもう一口水を呑みこみ、透明なグラスはサイドテーブルに戻った。
「飲んだな。じゃあもう少し寝てろ」
「ん。ありがと」
 もう当分お酒はこりごり、と、允花は苦笑した。
 俺もそのほうがいいと思う。……じゃなくてだな。お前はまだ酒を飲んじゃいけねえ歳だろうが。
「そもそもなんで酒なんか飲んだんだよ」
「だって……いっつも薫、美味しそうに飲んでるから、美味しいのかなって」
 それだけで? それだけでウイスキーの残りを飲んじまったのか。
「……で? 旨かったのか?」
「うーん……よくわかんない」
「お、お前……」
 あれが一瓶いくらしたのか教えてやりたい。味のわからない子供に呑まれたバーボンが心底哀れだ。もとい、俺が哀れではないか。もちろん色々な意味で。
 このままでは腹の虫が収まらない。二日酔いは允花の自業自得だとして、これはお灸をすえねばなるまい。何かいい案は……――思いついた。
允花、腕出せ。両方」
「え? ……ハイ」
 允花が自分のTシャツの袖を少しまくると、やわらかそうな二の腕が現れる。相変わらず白い柔肌は目に眩しすぎて刺激が強い。かと言ってぼんやり眺めるのが目的ではない。伸ばした手でわきのすぐ下のあたりをそれぞれ握ると、ふにゃりと指が沈みこんだ。
「ひゃ!」
 くすぐったいのはくすぐったいらしい。ともかく、二の腕のやわらかさは確認できた。
「ふーん……なるほど」
「なに? えっ、なんなの?」
 握るだけ握って手を離した俺を、允花は訝しげに見上げている。
「なんでもねえよ」
 目を白黒させているあたり、やっぱり昨夜のことは覚えていないのだろう。ほっと安堵する反面、今も手のひらに残る感触を思い出し、罪悪感にいたたまれなくなった。淫行条例違反を思いつくより先に、男というのはどうしてこうなのだろうかと、三十路の自分を嗤いたくもなる。俺は一体何をやっているんだ……。
「なんでもねえから。ほら、寝ろ寝ろ」
「……じゃあ頭なでてて?」
 ぐいと右手を引っ張られて、側頭部にのせられる。具合が悪いはずなのに、なんだってお前は、笑っていられるんだろうな。
「……しょうがねえなあ」
 苦笑しながら髪を梳くように撫でてやると、気持ちよさそうに頬を緩める。眉間のしわもなくなった、こんな顔が見られるのなら、ずっとこのままでもいいかもな、と、思う。反面、なめらかな体にもっと触れたいとも思うし、求めてほしいとも思ってしまう。しばらくして寝息が聞こえ始めると、俺は頭を撫でる手を止めた。
「……お前は何にも知らねえんだろうな」
 大人のゆううつなんて。
 すでに眠りに落ちてしまった允花には、何の言葉も届かない。今はそれで、十分だ。
 俺は少し躊躇った後、身をかがめてあどけない頬に唇を寄せた。

- 了 -
2014/11/12? 初出
2020/6/5 加筆修正