いつかのハッピーバースデー

 六月十二日、午後十一時三十分。允花は息を切らせながら走っていた。
 誰かに追われているわけでもない。人気のない夜の鳴海区が怖いわけではない。帯刀・帯銃しているうえにこの世のものならぬ異形の存在を使役するデビルサマナーである彼女が、そこらのチンピラやゴロツキを恐れるわけなど、あるはずがない。
 彼女は焦っていた。腕時計で時間を確かめながら、ブーツの踵で真新しい歩道をせわしなく叩いている。
 その足元を、小さな猫が並走している。金茶色の毛並みが濡れたように光るその猫は、口を開いたかと思うと言葉を放った。
「ねえなんでそんなに急ぐの?」
 人語を話す猫は彼女の行いが理解できぬと言いたげに一鳴きする。
「だって、誕生日だもん。早く帰ってお祝いしなきゃ。ごちそうつくって、プレゼントも用意してるし。ね? 早く帰らないと」
 花がほころんだように笑う允花は猫――黄蘭(ふぁんらん)を振り返る。すると、猫は歩幅を狭めたかと思うと、思い切り地面をけり上げて允花の肩に飛び乗った。
「きゃっ! なに!? どうしたの?」
 勢いがよかったものだから、允花は思わずもつれそうになった足を止めてしまった。黄蘭は犬の遠吠えのように獣の鳴き声を上げる。何か不満なのだろう。
「あいつばっかりずるい。允花は黄蘭の誕生日も祝ってくれる?」
 どうやらやきもちを妬いていたらしい。允花は苦笑しながら、喉のあたりをかいてやった。
「するする。黄蘭のときもたくさんおいしいもの作ってあげるからね」
「本当? MAGもたくさんくれないと駄目だよ?」
「うーん、料理はともかくMAGは平崎まで行かないとなあ」
「ええ? 行って帰るだけで使い切っちゃいそう……しょうがない。かんづめのごはんで許してあげる」
 黄蘭は猫缶、特に日本の猫缶が好物らしい。台湾ではもっぱら残飯を漁っていた黄蘭もこちらに来てからだいぶ舌が肥えたようだ。
「ありがと」
「一個じゃだめだよ、たくさん、たくさんだからね」
「わかったわかった」
 段ボール一杯の猫缶に満足そうに尻尾を揺らす黄蘭を想像して允花は苦笑した。再び歩きはじめると黄蘭はするりと肩をすべりおち、允花の腕の中に抱かれた。
 こうしてみれば普通の猫を抱えているも同然。話し声だって傍からはニャーニャー鳴いているようにしか聞こえないが、返事をするにはこちらも言葉を発する必要がある。幸い今は人通りもないので、允花は当たり前のように猫との会話を続けていた。
「アイツには何あげるの?」
 毛嫌いしている男のほうが自分よりも豪華なものをもらうのだとしたら許せん。そんな響きが感じられる。允花は目を細めて黄蘭に微笑みかけた。
「なんだと思う?」
「……知らない!」
 というより、允花があまりに幸せそうに笑っていたので呆れてしまったというのが正しい。
 黄蘭はパオフゥが嫌いだが、大好きな允花がこうまで好いているので心中複雑極まりない。
 あの男ときたら煙草くさいしだらしないし、人間の美醜はよくわからないが、ゲーノージンだとかモデルだとかいう、美しいと言われる人間の見た目とはずいぶんかけ離れているように黄蘭には思える。
 一体あんなののどこがいいのかさっぱりわからないのだが、允花は彼と一緒にいることがとんでもなく幸せそうだし、允花自身のMAGだってなんだか桃色になって体中からにじみ出ているようにも感じられる。正直目も当てられない。
 これでパオフゥが允花をないがしろにしていたら毎日、いや毎時あるいは毎秒その顔をひっかいてやるしどうにかして允花の目を覚まさせてやろうと躍起になろうものだが、パオフゥはパオフゥで允花のことをそれなりに大事にしているようなのでこれまた黄蘭は気に入らない。わかりやすい好意でも厚意でもなく、允花が知らないうちにさりげなく優しさを発揮するところが気に入らない。こないだなんて疲れて居間で寝入った允花をベッドまで運んであげて、ふんわりと布団もかけてやっていた。どんな顔をしていたのかなんて後ろからでもよくわかる。あいつはああいうとき、一番大事なものをじっと見つめているような、いつくしむような、とにかく普段全然見せない顔になるのだ。允花は知らないだろうけど。知ってたなら、きっと死ぬほど喜ぶんだろうけど。
 見せてあげればいいのに。なんでそうしないのか。
 ……。
 ああ、気に入らない。ついでにそれをいちいち見てしまう自分も黄蘭は気に入らない。
「あっ、急がないと明日になっちゃう! 黄蘭、走るよ!」
 日付が変わるまであとわずか。暗い街の片隅で、不機嫌そうな猫の鳴き声が聞こえた。

§


 家と呼ぶには殺風景な建物にたどり着くと、ドアの前でガチャガチャと金属同士をぶつける音が聞こえてくる。允花は不審者かと思って身構えたのだが、よくよく目を凝らしてみればそれはパオフゥだった。
「ちょ、ちょっと、何してるの!?」
 思わず駆け寄って上ずった声で呼びかけるのだが、振り返ったパオフゥは赤ら顔で目が据わってしまっている。どうやら酒を飲んでいるらしい。
「あ?」
 度の入ったサングラスは額の上にひっかけられているために、彼は允花の顔を見定めようと目をしかめてじっと見つめてくる。相手が允花だとわかると、ふっと眉間の皺が緩んだ。
「ああ、允花か。ここ開かねえんだよ。畜生、ションベン漏れそうだってのに」
「し……」
 絶句。飲んでるどころか立派な酔っ払いだ。家の鍵を開けようとしてしゃがみこんで、どういうわけか十円玉を鍵穴に突っ込もうとしている。それで開くわけがない。
「み、みっともない……最低!」
 と、黄蘭が吐き捨てるのも無理はないと思ってしまった。酒に強い彼がここまで酔っぱらっているのは滅多にないことだ。人が呆れるほどの酒量を飲んでも、いつもほとんど顔色一つ変えないというのに。
「か――鍵じゃないと開かないに決まってるでしょ……!」
「鍵? なんで便所に外鍵つけてんだ? 気のきかねえ店だなあ」
 どうやらこの酔っぱらい、玄関のドアをトイレのそれだと勘違いしているらしい。よくもまあこんな状態で帰ってこれたものだと感心してしまう。酔っ払いにも帰巣本能があるのだろうか。
「と、トイレじゃないってば! ほら、立って! ドア開けるけどその場でしちゃだめだからね!?」
 勘違いしているならばその場で用を足しかねない。允花は釘を刺しながら自分の鍵でドアを開けるのだが、やはり酔っぱらい相手に通じるわけもなかった。
「わーかってるって。……ん、広い便所だな」
 ドアを開けて灯りをつけるなり、パオフゥはベルトをかちゃかちゃと外しにかかってしまった。
「わーーー!! やめてやめて! ちょっと待って!」
「あ? なんだよ?」
 当然允花はあわててその背中を押し、トイレの前まで連れて行く。
「トイレはここ!!」
 辛うじてまだ見えるのは下着までだったパオフゥを中に押し込んで、允花はため息を吐き出しながらドアの前にへなへなと座り込んだ。
 疲れて帰ってきたのにさらにどっと疲れた気がする。おまけに薄情なことに黄蘭はどこかに逃げてしまっていた。
「あれぇ? ねえぞ?」
 パオフゥが中でごそごそとやっている音の合間に、意味不明な言葉まで聞こえてくる。ナニを、もとい何を探しているのだろうか、允花のほうが恥ずかしさで顔を赤くしてしまった。
「よく探して!!」
 一々反応してやる義理もないだろうがつい口が開いてしまう。まだそこに允花がいると知ったパオフゥは、こともあろうにドアを開きかける。
允花お前取った?」
「とっ……いらない!!! 馬鹿!!」
 慌ててドアを押し返し、バタンと閉めてその場を後にする。
「し、信じられない!」
 ずかずかと廊下を歩いて自室に戻り、顔を覆ってベッドに倒れこむ。
「ううう……最低……!」
 まれに酔っぱらって前後不覚にはなっても、ああもセクハラめいたことをするような人物ではなかったのに。允花は呻くような声をマットレスに吸い込ませ、着替えるために再び起き上がった。
 どうせすぐに風呂に入るのだからと、下着も外してキャミソールに着替えたとき、遠慮も何もない様子で部屋のドアが開いた。振り返ってみればやはり黄蘭ではない。パオフゥがずかずかと部屋の中に入ってくる。
「わっ、ちょ、ちょっと!?」
允花、なんで置いていくんだよ」
「はぁ!?」
 トイレの前で待っていろと言いたいのか、それともトイレの中に入ってこいというつもりなのか。
「い、意味わからないし! それにノックくらいしてよ!」
「したした」
「してない!」
 なんとたちの悪い酔っぱらいだろうか。何が目的なのかわからないが、パオフゥはじりじりと距離を詰めてくる。允花は素肌にキャミソール一枚なので当然逃れようとするのだが、酔っぱらいには通じない。
「なあなんでそんなにつれねえの?」
「お酒くさい!」
「ひでえなあ」
「ちょっと、ち、近寄らな――はわっ!?」
 ベッドに背を向けて後退していたせいで、允花はひざ裏をマットレスにぶつけて後ろ向きにひっくりかえってしまった。やわらかいマットの上とは言え、それなりの衝撃に見舞われる。
「いた……」
「なにしてんだよ、大丈夫か?」
 パオフゥは手を差し出すわけでもなければ腰を下ろしてそれを眺めるわけでもなく、あろうことか允花の上に覆いかぶさってきた。
「はうっ」
 当然警戒で身を強張らせるのだが、別にそういうことをされるわけでもなく、ただパオフゥは允花を無理矢理ではあるものの自分の隣に横たえ、彼女の頭のあたりを手のひらで探るだけだった。
「頭ぶつけてないな?」
「え? あ、うん……」
 どうやらコブがないか確かめていたらしい。ほっと力を抜きつつ允花が頷くと、彼は嬉しそうに目を細めた。
「うん、よしよし」
 まるで子供にするように頭をぐしゃぐしゃとやられてしまう。何がなんだかわからない。いつもの、つまり素面の彼なら転んだ允花を笑いこそすれ、優しく気遣うことなどない。嬉しいと言えば嬉しいのだが、気味が悪いという感想のほうが先に出てしまう。
「な、なんか変。今日の薫、変……」
「変? どこが?」
「だってわたしの心配するし……」
「心配するのが変なのか?」
「変!」
 パオフゥは、険しい顔で抗議する允花を声を上げて笑った。てんで話にならないし、おそらく聞いてもいないのだろう。むなしい。
 これも酒のせいなのだろうか。酔いがさめれば何もかもわすれてしまうのだろうか。
「こんなになるまでお酒飲んで、ばか」
 允花が彼の顔を睨むと、パオフゥは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、ゆっくり瞬きをした。
「だって寂しかったからな」
「は?」
「こっちに来てからお前はどっかに行ってばっかりだ」
「それは、仕事で――」
 ここに住み始めるにあたって便宜を図ってくれた銀子や麗やキョウジたちへの恩返しもあって、允花はあちこち飛び回ってはサマナー稼業に精を出している。正直、いない日のほうが多いかもしれない。
 しかしそれを彼が寂しがっているとは思いもしなかった。
 もしかして、酔って人肌が恋しくなっているのだろうか。そうだとしたら、変なところに行かずちゃんと帰ってきたのはちょっと感心してしまう。
 子供にするように、允花はパオフゥの髪を撫ぜた。嫌がられることもなく、彼は髪の間をすべる指先に目を細める。
「明日は、おうちにいるよ? 誕生日だもん」
「……忘れられたかと思った」
 目を閉じたまま彼は何を思っているのだろう。かすれた声に胸がつまるようで、允花はパオフゥの頭を軽く引き寄せる。
 多分この男は自分のことを愛してくれることなどないだろう。それでも愛していたいし、安らぎを感じてくれるのなら身代わりにでもなんにでもなろうと決めたのだ。来るべき日までは。
 だから一瞬だけでも、わずかばかりでも、心穏やかであってほしい。
「そんなことない……」
 少しだけ顔の距離が近づいたかと思うと、パオフゥは允花の胸元に鼻の頭を寄せた。というより、顔ごとつっこんでいった。
「ひえ!?」
 まさかそんなことをされるとは思わず、允花は身を強張らせてしまう。
「お前は柔らかいなあ」
 そのまま腰と背中に手を回し、ぎゅうと抱きしめて放さない。
「え、いや、ちょっと、やだ! あ、汗かいて」
 何せ一仕事終えたそのままなのでシャワーも浴びていない。服だってキャミソール一枚だということに今更気づいて、薄布一枚ごしの熱い吐息に戸惑ってしまう。
「なんか甘ぇにおいだな」
「何言ってるの! あっ、あ、ちょっと……!」
 パオフゥが何か言うたびに動く唇が柔肌をくすぐる。ゾクゾクするような心地よさと恐怖が混じった奇妙な感覚に頭がぼうっとしはじめていた。当の本人は豊かなふくらみにおぼれて表情も見えない。
允花、ん」
「う、や、やだ……」
 半分パニックを起こしかけている允花は、身を守ろうと反射的に封魔管に手を伸ばす。仲魔に引き剥がしてもらおうか、でも、そんなことをしていいのだろうか。どちらにせよあとわずかの距離で指先が届かない。爪が触れる、しかし允花は封魔管を結局掴まなかった。
「……寝ちゃった」
 パオフゥは允花の胸に埋もれたままいびきをかいている。抱きすくめる腕の力はそのままなので、抜け出そうにもできそうにはない。
「もう……」
 允花は諦めてパオフゥの後頭部を優しく撫でる。誕生日だし、勘弁してやろう。
 酒臭い息が胸元に吐き出されるのはなにやら妙な気分になりそうだが、ものの数分も経たないうちに彼女もまた眠りに落ちて行った。

§


 ふわふわしている。
 眠りから覚める直前のあの心地よさときたら何物にも代えがたい。できるならこの心地よさの中にずっといたいものだ。
 ぼんやりとしたままパオフゥは、自分の顔全体がとにかく柔らかくてふわふわとした枕に包まれていると思っていた。こんなに気持ちのいい枕を持っていた覚えはないがまぁいいやと、開きかけた目をもう一度閉じる。もう少しだけごろごろしていたい。外からの雨の気配を感じながら、今日は一日だらけきってしまおうと口元を緩めてしまう。
 それにしても柔らかい枕だ。おまけにあたたかいし、しっとりとした感触すらある。確かめるように頬をこすりつけると、ぽよん、と弾力に富んだ反応があった。それがどうにも、気持ちいい。
 味をしめ、すりすりと子供のように擦りつくと、上のほうに豆粒大の突起がある。変わった枕だな。それにどうやら枕の下半分は別の布でカバーがされているらしく、パオフゥはもぞもぞと右手を伸ばして感触を確かめた。
 さらさらとした布だが枕自体の肌触りのほうがいい。なんでわざわざ……と、パオフゥは不満げに眉を寄せると、「カバー」をずるりと下に向かって引き下げてしまった。しかし完全には下がらない。何やら紐のようなもので固定されているようだ。
 なんと気の利かない。
 とはいえ寝起きのパオフゥに紐をどうこうするほどの気力もなく、それはそれで放置したまま枕の感触を楽しむことにした。
 すべすべとした表面に手のひらを這わせると、ちょうど真ん中のあたりにさきほど触れた謎の突起が当たる。なんだこれはと思って今度は指でつまんでみる。果たしてこちらも、柔らかい。
 手遊びにちょうどいいと思ったのか、寝ぼけ眼のままパオフゥはくりくりとそれを弄ぶ。どういう理屈かしばらくすると、それは硬くとがり始めた。
 残念、柔らかくないのはよくない。と、思うのとほぼ同時に、ある疑念が頭をもたげはじめる。
 自分はこの柔らかい枕によく似た物を知っている。
 というか、もしかして枕ではなくそのよく似た別の物なのでは?
 嫌な予感にうっすらと目を開けると、視界いっぱいにミルク色の肌が広がっていた。
「……おう」
 これはまた立派な巨乳様……と感動したのはいいが、これは一体誰の巨乳だろう? 久しぶりに拝む女の生肌を上のほうにたどっていくと、バストサイズに似つかわしくないほど、あどけない少女の寝顔があった。
……!」
 慌てて口を押える。
 案の定パオフゥが枕だと思い込んでいたのは允花の豊かな胸で、謎の突起の正体は言わずもがなだった。抱き枕にされた挙句胸まで揉まれた允花は奇跡的にまだ目を覚ましていないらしい。疲れているせいか鈍感なのか油断しているのか、ともかく起きていたら今頃パオフゥは電撃魔法の標的になっていたことだろう。
 セーフだ。やったことはアウトもアウトの真っ黒だが、首の皮一枚でなんとかつながった。
 問題はこの後だ。允花を起こさないようにそっとこの場から抜け出す必要がある。
 音を立てないようにと硬直状態のパオフゥはあれこれ考えを巡らせる。
「(どういう理由でこうなってんのかさっぱりわからねえが、とにかく黙って逃げるしかねえ……畜生なんだってこんなことに……記憶がまったくねえ……まさかとは思うがやってはいねえよな……ないな……服は着てるし允花だって薄布一枚とは言え服を……まあひん剥いちまったけど……いやそうじゃなくて……ああ畜生、目に毒だ)」
 いくら近視で裸眼とは言え唇だって触れそうなくらいの至近距離なら色も形もわかりすぎるほどよくわかる。桜色、ピンク、サーモン、etc、いろいろな言葉が頭の中を駆け巡る。パオフゥは鮮烈な光景を記憶に留めないよう、そろそろとカバー、もといキャミソールを戻した。落ち着いているように見えても内心は冷や汗だらだらである。そのくせかわいらしい乳首が隠れるときにはほんの少しだけ名残惜しさすら感じてしまうのだから男は罪深い。
 細心の注意を払いつつ、允花の体の下に入っていた腕を抜く。じっとりと汗をかいているのは一晩中触れていたからだけではないだろう。
「……はあ」
 なんとかその場から脱したパオフゥはもろもろの感情が混ざり合った複雑極まりないため息を吐いた。
 相変わらず允花はすうすうと寝息を立てている。
 十七歳。あどけない寝顔と、男を惹きつける豊かな体つき。誘うようかすかに開かれた唇の色香に触れてみたい。多分、触れたが最後。指先だけでも危ういくらいだ。
 食っちまいたい。でもそれは駄目。
 彼女は子供、預かりもの。自分のことを好いてくれる、無垢で純真な少女。その想いにつけこんでどうこうしたくはない。
 ああでも、触れてしまった感触が忘れられない。男とはなんと愚かで罪深いのだろう。
 パオフゥはベッドからゆっくりと降りると、長い髪をがしがしとかきあげた。
「……クソ」
 そして男は、本日また一つ歳を重ねた彼は、男の罪深さを浄化せんと起きて早々にトイレへと向かった。だって、朝だもの。

§


「……ふぁ?」
 それからしばらくして允花が目を覚ますと、すでにパオフゥの姿はなかった。
 ぬくもりが残らないベッドのスペースを手のひらで撫でると、なんだか寂しい。というか、昨夜あれだけ心細さを訴えていたパオフゥがどんな顔をして目を覚ますのか見てみたくもあったので残念といえば残念である。
 多分朝までそこにいたような気がするのだが、允花もぐっすりと眠っていたので断言はできない。二人分の皺の残ったシーツを伸ばすだけ伸ばし、雨の音にため息をつく。たまにはお日様のにおいのするシーツとやらで眠ってみたいものだ。

「おはよう……あれ?」
 台所へぺたぺたと歩いていくと、コーヒーと煙草の香りにまじってなにやら焦げ臭さが漂ってきた。
「おう」
 一歩足を踏み入れると、パオフゥは新聞を広げコーヒー片手に煙草をくゆらせている。それはいつもの光景なのだが、彼の向かいにトーストとベーコンエッグが用意されているのはどういうわけだろうか。
「……作ったの?」
「俺以外に誰がいるんだよ」
「そうだけど……食べていいの?」
「……ああ」
 料理をしたのが照れ臭いのか、パオフゥは一度も目を合せようとしない。珍しいこともあるものだと允花は口元を緩めながら椅子に腰を下ろす。
 パオフゥもパオフゥで允花のほうを見ようとしないのだが、それは彼女とはまた別の理由のため。今朝方やらかしてしまったことを思えばしばらく顔を直視できそうにない。思春期の子供じゃあるまいしと自分で情けなくもなるし、罪滅ぼしのように朝食を用意したのも姑息といえば姑息な振る舞いだ。
 ちなみに焦げたのは動揺していたからだとかそういうわけではなく、単に料理自体に不慣れなだけである。
「もう食べた? 待っててくれたらよかったのに」
「お前待ってたら日が暮れちまう」
「失礼だなあ……あ、」
 冷め始めたトーストを二つに裂きながら允花はふと顔を上げた。
「誕生日おめでとう」
 さては今朝の出来事についてを言われるかと思っていたパオフゥは、小さな口から出てきた言葉に一瞬目を丸くする。
「……そういやそうだったか」
「あれ? やっぱり忘れちゃってたんだ」
「んなこと一々覚えてる歳でもねえしな」
「んーん、そうじゃなくて昨夜……」
 允花は言いかけて、ふふふと笑う。
 なんだ、昨夜何があったというんだ。
 パオフゥは続きを待つが、允花は何も言わぬままトーストにかぶりついた。
「おい、昨夜なんだよ。なんかあったのか」
「別にー?」
 白々しい。何もないのにニヤニヤするやつがいるか。
「……何ニヤついてんだ」
「だからなんでもないよ?」
 聞き出したい。でも聞きたくなくもある。
 覚えのないことでニヤニヤされていい気分になる人間はいない。ほかの事ならどうにか聞き出したことだろうが、今回ばかりは聞かないほうが幸せな気がする。なんとなく。
「聞きたい?」
 しかし允花は喋りたいらしい。たぶんこれは、聞けば後悔する内容だ。
「聞かねえ」
 そんなもの聞いてたまるかとそっぽを向くのだが、允花は残念そうに口をとがらせ追撃する。
「そう? ほんとにいいの?」
「いらねえ」
「ほんとに?」
「……しつこい」
 なんども食い下がってくる允花が黙ったのはわずかな間だった。
「でも教えてあげるね」
 がくっと椅子の上で思わずリアクションを取ってしまう。
「じゃあ一々聞くなよ……で?」
「なんだ、やっぱり聞きたかったんだ。あのね……」
 へへ、と、また笑う。早く言えよと急かしたくなるが、また何か言われそうなのでやめておく。
「昨夜酔っ払って帰ってきたでしょ」
「ああ」
 実はあまり記憶にない。外で飲んでいたのは確かに覚えているが、帰宅途中のことはうろ覚えだった。むしろどうやって帰ってきたのか覚えていない。覚えていたらここにベーコンエッグはなかっただろう。
「薫ね、家の鍵開けようとしてね、んふふ……十円玉入れようとしてたの」
 なんだそりゃ。
「……覚えてねえな」
「しかもトイレのドアと勘違いしててその場で……」
「はぁ!? したのか!?」
「ううん。しようとしてたけど、なんとかトイレまで引っ張って行ったの」
「そうか……」
 人としての尊厳の危機に陥っていたとは知らなかった。安堵に胸をなでおろすのだが、允花の話はまだ終わらないらしい。
「で、その後ね」
 允花はここで少し恥ずかしそうに目を伏せた。おまけに頬も少し赤い。
 なんだその意味深な表情は。
「わたしが部屋で着替えてたらいきなり入ってくるし」
 そんなことをしたのか?
「……本当か?」
「ほんとだよ。それにベッドに押し倒すし」
 ぐしゃ。
「あ、変なことにはならなかったよ」
「そ、そうか……」
 パオフゥは思わず握り締めた新聞紙に気づかれないように手を緩める。
「多分」
「な、なんだよ多分って……」
「その後わたしも寝ちゃったから朝まで何もなかったかわからないもん」
 じっと見つめられ、「何もしなかっただろうな?」と問い詰められている気分だった。
 故意では何もしていない。多分。でも過失により乳はもみました。ごめんなさい。
 などと言えるわけがない。
「……俺だって朝までずっと寝てたから何もしちゃいねえよ……」
 そう答えるしかない。これは必要な嘘だ。お互い今後も一緒に暮らしていくのだから、気まずくならないための方便だ。
「ふーん……でもあんまりお酒飲みすぎちゃ駄目だよ?」
「……ああ。悪かったな」
 さすがに自分の非による醜態であることは否めない。めずらしくしおらしいパオフゥに、允花は目を細めた。
「んー、でも寂しかったんだもんね、しょうがないね」
「は?」
 なんだって?
「わたしがいつも外に出てるから寂しくてお酒飲みに行ったって、自分で言ってたよ?」
「はぁ!?」
 ありえない。
「トイレでも、俺を置いてくなー、って言ってたし」
 言うわけがない。
「薫があんなにさみしんぼうだったとは思わなかったなあ」
 誰が何だって?
「……おい、でたらめ言ってんじゃねえぞ」
 せっかく収束したと思った話が突拍子もない方向に転がっていく。
 寂しい? 俺が? なんで?
 まったく見に覚えのないことなので允花がからかって遊んでいるのかと思ったが、はっと昨夜の光景を思い出してしまった。
「嘘じゃないよー」
『嘘じゃねえよ』
 不満そうに口を尖らせる允花の台詞と、パラベラムで管を巻いていた自分の台詞がオーバーラップする。
 そうだった。
 思い返してみれば心当たりが確かにあった。

§


 昨夜のパラベラムは人も少なく、カウンターにはパオフゥの姿しかなかった。
 何杯目かわからないウイスキーのグラスを傾けながら、ここにはいない誰かの顔を思い浮かべる。まるで失恋でもしたかのような自分の心境は笑い飛ばせそうにもなかった。
 目元は赤く染まっているし、眠たげにも見える。酒に強い彼がそうなっているのだから、よっぽどのことがあったのだろう。マスターはなじみの客に、一体どうかしたのかと水を向けてみた。
『俺、あいつに捨てられるかもしれない』
 そんな一言から始まった会話、というより一方的な愚痴はどんどんエスカレートしていく。
『捨てられるなんて、思い過ごしじゃありませんか?』
 ご冗談を、と、直接会ったことはないにしても允花のことを知っているマスターはすんなりと話を飲み込み、柔和な笑みを浮かべたままなだめるように言葉をかけた。酔いのせいで湿っぽくなっているパオフゥにはあまり通じないようだが。
『嘘じゃねえよ……あいつは毎日俺のことほったらかして出かけるし。まぁ、メシの用意はしてくれてるけど……朝は早いし夜は遅いしたまの休みは疲れてるだろうから寝てるのを邪魔するわけにはいかねえし』
『お優しいですね』
『嫌われたくねえからな……』
『嫌われてはいないでしょう。嫌っている相手に食事の用意なんかしませんよ』
『……そうかな』
 だいぶみっともない場面を見せている自覚はあるし、頭ではやめたほうがいいということもわかっている。口を開けば際限なく弱音がこぼれてきそうなので、パオフゥはそれきり話すことをやめた。酔うと本音が出るなんて話があるが、今になっても自分がそんなに寂しがっていたとは思えないし、本音が出るなんてやはりデマやガセに違いない。そうであってほしい。そうでないと困る。
 その後もグラスの中身をちびちびと舐めていたのは覚えているが、マスターに『そろそろ帰ってこられるのでは?』と言われるまでの記憶はあまりない。それで、自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、マスターが言うならそうかもしれないと思って店を後にしたのだった。
 ともかく帰宅した允花と鉢合わせたのも思い出したし、鍵穴に十円玉はさておきそのとき嬉しかったような記憶もある。だとすれば、恥ずかしいにもほどがあるのだが、酔った勢いで寂しさのあまり允花を抱き枕にした挙句子供のような駄々をこねたというのもありえそうな気がしてきた。
「(……いやいやいや)」
 いや、そんなはずはない。別に寂しがってなんかいないしある日突然「わたし、ここを出て行くわ」なんて言われても平気だ。允花がどこでどうして生きていくかなんて、そんなのは俺の人生に関係ないやな。と、内心の問答に強がってみせるが、ああしかし旨いメシが食べられなくなるのは正直がっかりするし、身の回りのことをこれから全部自分でやるのかと思うとげんなりする。
 なんだお前は彼女を家政婦か何かのように扱っているのかと問われそうだが、いやそんなことはない、と思う(し、そういう扱いをしているのかと問われることに一抹の罪悪感もある)。もし他の誰かが允花の後釜に納まったら、と考えると、それはなんだか、嫌なのだ。なんだかんだで数年ともに暮らしていれば気心も知れて気を遣わずに済む。ペルソナ能力や悪魔について話せる人間がそうそういるとは思えないし、今現在彼が何を目的として生きているのかも、おいそれと話せるようなことでもない。
 そう、そういう合理的な理由があるのだ。
 断じて、断じて允花の「おかえり」と言う声が悪くないとか、猫とじゃれあってるのを見ていると和むだとか、仮に允花が別の男と暮らし始めたなら正直面白くないとか、そういう感情的な問題などない。そうだ、大体允花は他人をすぐ信用するしこれまでの暮らしゆえか一般常識はやや不安が残るし、誰か信頼できる人間がいないと駄目だ。未成年だし。未成年にもかかわらずけしからん見た目なのでどこぞの男なんかには任せられるわけがない。ほら。やっぱり、俺がいないと駄目じゃないか。
 ……と、無茶苦茶な理論武装を繰り広げるパオフゥを、しかし允花は相変わらずニヤニヤを浮かべたまま追い詰めた。
「誕生日も忘れられたかと思ってた〜って言ってたよ。かわいかったなあ」
「うるせえな」
 否定したいのだが多分言ったんだろうなと思うと何も言い返せない。新聞を目が隠れるまで持ち上げたパオフゥを允花は噴出しそうになりながら見ていた。
「今日は一日一緒にいられるからね?」
「いらねえよべつに……」
 一緒にいるからと言って何をするわけでもないのに、允花はともかく何故自分まで、嬉しいと――ほんの少し、少しだけだが――思っているのだろうか。混乱気味の頭では考えても答えなど出そうにない。
 全く、とんだ誕生日になったものだ。

- 了 -
2015/6/13?