柔軟体操

 まだ五月だというのに、今日はずいぶんと暑い一日だった。そもそも日本よりもずっと南にあるのだから、台湾の平均気温が相対的に高いのは当たり前ではある。人間の努力では如何ともしがたい事実にはあらがわず、ただ風呂上がりの心地よさと冷えたビールの旨さを堪能するのが賢明というものだろう。とうとう見慣れてしまった緑のラベルは今日も冷蔵庫の定位置に収まっている。自分は飲めないくせによくもまぁ、まめに買い足してくるものだ。呆れ混じりの苦い感謝は、軽いのど越しとともに飲み下す。
「……ふう」
 あっさりというか、さっぱりというか。よく言えば飲みやすく悪く言えば安っぽい味に不満を感じることもなくなった。住めば都とはよく言ったもので、酒も煙草もどれだけ不味かろうがそれしかなければ適応してしまうものだ。長い独り身暮らしが一変したのを当たり前に受け入れているように。
「風呂、済んだぞ」
 同居人の気配は狭いリビングにあった。リビングというか、まぁ8畳程度の居間のような部屋だ。それでもこの仮住まいの中では一番広く、唯一空調設備が入っている一等の部屋ではある。ドアを開ければひんやりとした涼気が心地よく全身を覆う。天国……などと笑えない冗談すらこぼれそうだった。
 その部屋の中央で、同居人は奇妙な姿勢をしている。いつものことなので驚きもしないが、毎度見るたびに感心してしまうのは避けられない。
「はぁーい」
 返事らしい声が少しひきつっているのも無理はない。当の本人は全身の筋という筋を極限まで伸ばし、いわゆる「ブリッジ」の姿勢を取っているのだから。
「……風呂上がりのほうが効果があるんじゃねぇの?」
 何もブリッジが趣味というわけではない。彼女はまだ十代とは言え、一端の「デビルサマナー」として時に戦い時に命のやりとりをこなすイレギュラーな人材。したがって毎日のトレーニングと柔軟体操は欠かせないらしい。
 俺が風呂に入っている間も、こうして座ってだらしなくビールを呷っている今にも、成長期の肉体は過酷な負荷に耐え続けている。直立したままブリッジの姿勢に移行し、さらにそれを崩すことなく元の直立姿勢に戻ってくるのだから恐るべき体幹だ。どこぞのカンフースターが思い出される。
「うーん、でも汗かいちゃったら嫌だし……」
 一息ついて、今度は床に座り込む。そのまま左右の足を百八十度に開いて上半身を前に倒し、べったりと床に密着。そのまま数十秒キープしながら会話すらこなす。
 まぁ、確かに、いくら掃除が行き届いていても、風呂上がりに床と密着するのは遠慮したいものだな――と、俺は曖昧に同意した。
「しかしすげぇもんだな」
 カンフースターの次はバレエダンサーもかくやの柔らかさ。正直俺にはできそうにない。座って足を伸ばす時点でふくらはぎがつりそうな気がする。
「柔軟、大事だよ。怪我しにくくなるから」
 二つ折りのまま事も無げにそう言えるまでどれくらいかけたのだろうか。途方もない苦労を想像しそうになったところで、彼女――允花が顔を上げる。
「やってみたら?」
 汗ばんだ額を心地よさそうにタオルで拭っているので、どうやら今日の鍛錬は終わりらしい。
「やらねぇよ」
 検討の余地もない。わかりきった答えだろうにと思ってはいたが、允花にとってはそうではなかったらしい。
「えー? やったほうがいいよ?」
 それは先日、俺がジジイ相手にコテンパンにされたことを踏まえての苦言か。軽く目を細めてはみたものの、悪意のかけらもない顔に通じるわけもない。
「断る。体硬いから余計痛めるだろ」
 事実に基づく推測なのに、なぜか悔しかった。理由はわからない。しかし、悔しさを感じたことすら不本意だったというのに、允花は追い打ちのように俺の手を引っ張る。
「そうなの? どのくらい?」
 前屈できる? 背中で両手の指触れる?
 その詰問にいちいち答えるのも馬鹿らしく、俺はビールを飲み干すと両足を前に投げ出した。
「――このくらい」
 そうして同じように両手を前に伸ばしたまま、上半身を倒す……というか倒そうとするが途中で止まる。これ以上は無理。客観的に見ることはできないが、10度曲がっているかどうかも怪しいものだ。
「え? ほんとに?」
 允花は不審そうな顔をしていた。呆れてもいないし嘲笑するでもない。ただ純粋に不思議がっている――いや、これは、疑っている。疑ったこいつが何をするか、簡単に想像がつく。そう気づいたときには、もう遅かった。
「もうちょっといけるでしょ?」
「おいバカやめっ――!!!!」
 そのあとは、言葉にならない。
 さっと俺の背後に回り込んだ允花が両手で背中を押してくるものだから、俺のふくらはぎは、腿裏は、腰は、その痛みを人語になれない悲鳴に変えた。
「……ほんとに……?」
 そのくせこの女、まだ信じられないらしい。畜生、ふざけるな。誰もが自分と同じくらい体が柔らかいと思ったら大間違いだ。みんな違ってみんないい。麗――師匠がいないのだからここは俺が大人として説教をすべきだろう。いやその前に、この地獄的な体勢から戻――

「でもこのくらいできるでしょ?」
「――」

 声が、近い。
 正直、何が何だかわからないというやつだった。多分允花が両手の肘を曲げて、その結果彼女の上半身が俺の背中に密着しているのだろう。何のために? おそらく、めいっぱい体重をかけて俺の柔軟を手伝おうとして。それはわかるのだが、なんでこんなに、こいつは柔らかいのだろう。いや、柔軟性とかじゃなく、真夏の薄布越しに感じられる肉体が。
「あ、いいにおいだ。せっけんのにおいがする」
 混乱した俺を置き去りにしたまま、さらに声が近くなる。
「お風呂上りは煙草のにおい、しないんだね」
 首のあたりに笑うような吐息が吹きかけられ、小さな鼻先が耳たぶを一瞬かすめていく。そんな些細なものすら、動揺した俺には甘美な毒だった。
「私もお風呂入ってこようかな」
 光明。そうとしか形容できない一言に縋りつく以外の選択肢はない。必死の思いで口を開け、どうかこの醜態に気づかれないようにと祈る自分の無様さなど、この際どうでもよかった。
「――そうしろ。お前ちょっと汗くせぇぞ」
「えっ?」
 良心が咎めたが、その罪悪感は無防備すぎる無垢への忠告という言い訳で上書きさせてもらう。果たして俺の思惑通り、允花は跳ね起きるような動きで体を引きはがした。
「運動してたから汗臭いかもしれないけど、言わなくてもいいじゃん……」
 憤然とした声に安堵するのも妙な話かもしれない。まぁとにかく、俺は第一の危機は脱した。
 残る危機は――
「……いつまでやってるの?」
「……すぐ戻したら痛めるかもしれねぇだろ」
 こいつがここにいる限りクリアできない。前屈の苦しさプラスのある種の息苦しさから解放されたいのは山々だが、人目がある以上俺は前屈し続ける必要がある。
「そういうもの?」
「そういうものなんだよ」
 こめかみのあたりを汗が流れていった。もう自分でも何の話なのかわからないが、とにかくさっさと出て行ってほしい。
「ふーん……でもガッチガチだね」
 息が止まるかと思った。まさか勘づかれてはいないだろうが、いや、こいつだってもう十六だし、そういう知識も身についているかもしれないし……。違う、論点のずれた想像をしている場合ではない。こんなことを知られるわけにはいかない。しかし知られてしまっているのなら一体俺はどうしたら――
 恐る恐る振り返った先、允花は気の毒そうな目を向け、
「そんなに硬いなんて思わなかった。もうちょっと頑張ってみたら? ――前屈」
 それだけ言い残して、風呂場のほうへ向かってしまった。
「ああ……」
 俺は自分のため息にどんな感情が込められているのかはっきりとはわからなかった。
気づかれなかった安堵か、うかつな彼女への八つ当たりじみた怒りなのか、それとも何か踏み越えてはいけない一線があることに気づいてしまった後悔か。
 考えてみようとしたが、やめた。考え始めたら答えを出してしまう自分の性格は嫌と言うほど知っているので、考えないのが最適解に違いない。
 それでも悶々としたものがおさまらない限り、最適解は伸ばしたままの手にもつかめないのかもしれないが。

- 了 -
2020/5/19