家出少女

 珠阯レ市青葉区に事務所を構える葛葉探偵事務所の窓からは煌々と明かりが漏れている。
 営業時間はとうに過ぎているし、所長は残業するほど商売熱心でもない。依頼者が長引く相談を持ってきたわけでもないので、所内には客らしき人影もない。
「ここはお前の家じゃねえんだぞ」
「わかってるよぉ……」
 呆れを含みつつもたしなめるような男の声と、やや舌足らずな響きの女の声。後者はやや不満そうだ。
 中年の男はゆったりとした椅子に腰かけ、大きな机ごしに女を見下ろしている。男の机のあるステップフロアの下には、応接用のソファとテーブルが置かれ、女はそのソファにだらしなく寝そべろうとしていた。
「おい、そこで寝たらたたき出すからな」
「……キョウジさんの鬼、悪魔」
「よくわかってるじゃねえか」
 キョウジと呼ばれた轟という名の男は、女の悪態をさらりと受け流す。女、と言うより少女の年頃に近い彼女は、ソファの背もたれに辛うじて身を預け、轟を睨んだ。
「やさしくない」
 允花は泣き真似をしてみようとして、やめた。彼相手に何をしたところで甲斐はない。別に話し相手になってほしいとか、なぐさめてほしいとか、そういうことを求めてここに来たわけではない。
「キョウジさん、帰ってもいいよ。わたしここに泊まるから。パソコンもいじらな、」
「帰れ」
「……まだ全部言ってないのに」
「よだれ垂らして寝られちゃ困るんだよ」
「しないよそんなこと」
「わかったから帰れ」
 轟は面倒そうに手で払う仕草をするが、允花はふいとそっぽを向く。
「どこに?」
「家にだよ」
「わたしの家じゃないもん」
「お前も住んでんだろうが」
「やだ。わたし飯炊き女じゃないんだから」
「はぁ?」
「だって、」
 允花は、くどくどと要点がいまいちわからない話を始めた。途中であっちこっちに脱線した話をかいつまんで要約すると、允花はパオフゥが舞耶たちと行動を共にするようになって不満らしい。
 舞耶たちとは対等に話し、共に戦い、今日のようにパオフゥのアジトで食事までしている。料理好きの克哉とうららがいれば食べるものには事欠かないし、何しろ全員成人済みなので酒を酌み交わすこともできる。
 それがうらやましいやら悔しいやらで、允花はここでぶーたれているわけだった。
 酒を飲めないから盛りあがった場にもついていけないし、かといって給仕に徹底しているのもなんだか惨めだ。結局その場から抜け出したのだが、誰一人として允花が消えたことに気づくものはいなかった。それがまたむかつく。らしい。
「わたしのことは子供扱いして、そのくせいつもご飯とか洗濯とかわたしにまかせて、全然わかんない」
 俺はお前の言ってることがわからん。
 轟はそれを口にしなかった。フラストレーションのたまった允花を変に刺激して爆発させるのは止めたほうがいいだろう。允花が腰に挿している封魔管の中で、悪魔たちが戦々恐々としているのがよくわかる。人間よりも人間の感情に敏感な悪魔が怯えているのだから余計なことはしないほうが吉だ。
「わたしあの人のなんなの?」
 ついにそんな愚痴までこぼれてきた。
「そういうことはな、本人に聞け」
「やだ」
 ちなみに允花の目の前、テーブルの上には缶チューハイの空き缶が三つ並んでいる。ついに最後の一本、カロリーオフのカシスオレンジのプルタブに指をかちかちひっかけながら、涙まじりにつぶやき始めた中身は聞いてるこっちが情けなくなるような文句ばかり。
「わかってるよ……薫にとってはあの人だけが絶対だもの。わたしなんて、わたしじゃない誰かでもいいんだもの。家事だけやれれば、わたしじゃなくても」
 とろんとした目元はほの赤く染まっており、見ているだけなら十分に女らしく色っぽくもあるが、なにせ口からこぼれる言葉の中身が面倒な女のそれでしかない。
「わたしはこれ以下にはなれるけど、これ以上には絶対なれない。家政婦みたいな立場でも、一緒にいられるだけいいのかな……」
「めんどくせえ」
「知ってる」
 へへっと笑い、允花は缶の中身を呷った。
 今しがた言ったことを嵯峨の前で言わないだけ、允花も子供ではないのかもしれないし、贖罪のつもりなのかもしれない。轟に言わせてみれば、あんなものは罪でもなんでもないと思うのだが。
「ごちそうさま」
 ふぅ、と息を吐いて、允花は立ち上がった。危うげではあるものの足取りはまあしっかりとしている。空き缶をべこべこと潰しながら給湯室のゴミ箱に放り込むと、脱ぎ散らかしていたブーツを履きなおし始めた。
「やっと帰る気になったか」
「んーん。平崎に行く」
 おそらく、自分を受け入れてくれる人間に会いたいのだろう。平崎のくずのは探偵事務所の面々が允花をべたべたに甘やかす場面が簡単に想像できて、轟はげんなりとした。そして允花が姉のように慕う麗の不在を思い出す。
「麗ならいねえと思うぞ」
「え、なんで?」
「別件で山陰に行ってる」
 わざわざ教えてやっているあたり、自分も允花を甘やかしつつあるのかもしれない。そう考え付いて、轟はなおのことげんなりとした。
 そんなことはつゆ知らず、允花は少し残念そうな顔をする。
「ふぅん……いいよ、キョウジさんに電話するから」
 轟はシガーケースの蓋をあけ、允花から目を逸らした。
 肉体と魂がそれぞれ別に存在しているからといって、それぞれを「キョウジ」と呼ぶこともないだろうに。
「じゃあね」
 ドアを開けて出て行こうとした允花に、轟は取り出した葉巻を振って応える。ぶっきらぼうな中になにかしらの情でも感じたのか、允花は少し笑って夜の中に消えた。

 それから十分ほど経って、携帯電話に着信が入る。表示された名前を見て、またも轟はげんなりとした。
「なんだ」
允花、知らねえか』
 電話口のパオフゥの声は妙に焦っているように思えた。二人して俺に面倒をかけやがって。轟は口髭を撫ぜながら、素知らぬふりを貫き通す。
「どうかしたのか」
『連絡つかねえんだよ、こんな時間にどこほっつき歩いてんのか……』
 パオフゥはパオフゥなりに心配しているらしい。だったら家出の原因になるようなことをするな、日頃から態度に出せと言いたくなる。別に允花が気の毒だからというわけではない。允花が毎回家出先にこの事務所を選ぶのが迷惑なのだ。
「平崎に行くんだと」
『はあ?』
「優しくしてくれる男がいるからな」
 ただで教えてはやらない。このくらいの意趣返しをしても罰は当たらないだろう。きっとパオフゥは、それがどんな感情によるものかはさておき、允花が自分以外の男の元へ行くのは気に入らないに違いない。
『……あの馬鹿』
 案の定、電話の向こうで忌々しげな舌打ちが聞こえてくる。
「ほっときゃいいだろ。あいつも麗の手前、ガキに手ぇ出すこたねえだろうさ」
 建前で宥めてみるものの、パオフゥは納得いかないらしい。わかりやすい男なのだが、允花の目は惚れた欲目で曇っているのだろう。かわいそうに。
「お前が優しくしてやりゃいいんじゃねえのか」
『馬鹿言え』
「じゃあなんでそうも気を揉んでんだ?」
『……保護者だからだ』
 絞り出すような苦しい答えに、寸でのところで吹き出しそうになった。轟はごまかすように咳払いをすると、さらに追い打ちをかけた。
「保護者なら、あいつが飲んでいった酒の代金を請求してもいいんだな?」
『酒!? あいつ何考えてんだ……』
 結局嵯峨は愚痴を吐き出すだけで通話を終えてしまった。

――あいつ何考えてんだ。

 白々しい、と轟は思う。嵯峨は阿呆や朴念仁ではない。とうの昔に允花の内心には気づいているだろう。
 気づいていて、知らないふりをしている。甘えているのだ。それがどれだけ少女を傷つけるのか知っているくせに。
 別にそのことに対して腹を立てているわけではない……と、轟は思っている。建前でだけ対話していくのなら、好きにすればいいと思う。ただし二人の間だけにしてほしい。自分に火の粉が降りかかるのは御免だ。
 しかし、なんだかんだで毎回きちんと巻き込まれているのだから、迷惑だと言い張る自分のそれも、案外建前に過ぎないのかもしれない。

- 了 -
2020/5/20