夢主がパオフゥに殺されかけているのでご注意ください(首絞め)

everything you've ever dreamed

 生々しい感触を今も覚えている。
――裏切ったのか
 両手で余るほど細い首に自分の指が食い込んでいく感触も、それを解こうと抵抗しようとした腕が諦めたかのように垂れさがる様も、暗がりの中でそこだけ涙で光っていた二つの目も。
――裏切ったのか、俺を
 思い出すたびに俺は、叫びだしたくなる。叫ばなければ正気を失いそうになる。
――答えろ……允花

§

「……みんなには、迷惑かけたね。……マーヤ、ほんとに、ごめん……」
 うなだれる芹沢がどんな顔をしているのか判別はつかないが、おおむね想像はついた。ただ一人その顔を見ている天野に尋ねれば、それが間違っていないことはすぐにわかるだろう。もっとも、そんなことをする気は俺にはないし、おそらく周防にもないに違いない。
「うらら、もういいから……」
 天野は形のいい眉を下げて、芹沢の肩を両手で支えようとしていた。周防はそれを苦笑のような顔で見守っている。俺はと言えば、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
 目の前の光景は、俺に三年前のあの日を思い出させる。
 殺そうと思ってそうしたわけじゃない――などとは言えない。ましてJOKER呪いなんて自分の意志の及ばないもののせいで、意に反して行ったわけでもない。

 あの日、俺は允花を殺そうとした。殺すつもりで、その首に手をかけた。

§

「天野、お前……芹沢に殺されかけたことを恨んだりはしねぇのか」
 グラスの中で溶けかけた氷が小さく音を立てた。シーサイドモールの喫茶店はエアコンの調子が悪いのか、少し蒸し暑い。
 周防は電話で席を外し、芹沢は化粧直しと言ってテーブルから姿を消していた。
 天野は俺の顔をじっと見ている。何も言わない真剣な目は、俺の言葉の真意を確かめようとしているのかもしれない。

 JOKER呪いを行った者はJOKERとなる。
 テレビ番組から広がった噂は現実となり、芹沢もまたその対象となった。当たり前だが芹沢がそれを見越してJOKER呪いをしたわけではない。あいつもまた被害者の一人と言ってもいいだろう。だが、JOKERを利用して天野を殺そうと思いついたことは、それがたとえ酔った勢いだったとしても、事実であることに変わりはない。
 誰にだって恨みや妬みの薄暗い感情はあるし、行け好かないやつ、苦手な相手、そういう存在もあるだろう。嫌悪感のあまり、消えてくれないだろうかと口には出せない望みを抱くことはあっても、それを実行に移してしまうヤツはそうそういない。
 芹沢を断罪したいわけではない。俺はただ、天野がその事実を理解しているのかどうかが気がかりだった。
 芹沢が自分を殺そうと思ったことが真実だと理解したうえで、さらに許そうと思っているのかが知りたかった。

「お酒飲んじゃうとそういうとこあるのよね、うらら」
 コーヒーカップをソーサーに戻しながら天野は軽い口調で俺の問いに答えた。思いきって尋ねた質問を深刻なものと考えているのは、どうやら俺だけらしかった。
 形のいい唇が笑っている。作り物ではない、本心からのものだった。
「JOKER呪いが本当だなんて信じられるわけもないし……なんていうのかしら、ストレス解消みたいなものだったんじゃないかしら。誰だって他人に対して思うところがあるのは当然でしょ? それでスッキリするなら、おまじないくらいいいじゃない」
「スッキリねぇ……」
 殺されかけてそうまで言えるのは、割り切っているのか考えなしなのかさっぱりわからなかった。元から底の読めない女だとは感じていたが、俺の思っていたよりもたくましいらしい。
「心配してくれてるのかしら? でも私なら平気よ。うららとは喧嘩だって何べんもしたんだし」
「そうかい」
 こりゃ尋ねる相手を間違えたか。軽く笑ってアイスコーヒーの残りを飲み干すと、ジョリーロジャーはしばし沈黙に包まれた。
 波の音が、聞こえる気がする。

§

 暗い波が打ち寄せる夜の埠頭だった。市街地での銃撃戦を切り抜けた俺たちは、使われていない廃倉庫へと身を隠した。二人とも動揺していた。允花は知った顔の人間が無惨な死体へと変わった事実に。俺は二年ぶりに再会した顔が、その允花と知己らしいという事実に。
 忘れもしない。あの男は、あの日の台北警察局にいた。マフィアの内通者だった刑事と何かを話していた。温度の感じられない切れ長の目を、右の瞼を縦断する大きな傷跡を、忘れられるはずがない。
――もうすぐ、先生たちが来てくれるから、そうしたら、船に……
 木箱のようなものに允花は腰かけている。乱れたままの呼吸を整えながら話しかけられて、俺は――一瞬、意識を飛ばした。
――……あ、か、っ
 気が付いたら、木箱の上に允花を押し倒していた。いや、押し倒すなんて生ぬるいものではない。これは、人を殺そうとする動きだ。
 俺は殺すつもりだった。
 両手で允花の首を木箱に押し付ける。気道か頸動脈のどちらか、あるいは両方が塞がれるか、首の骨が折れるか。それまで力を緩めるつもりはなかった。手加減など一切ない。
 俺は、本気だった。
――お前は天道連の人間だったのか
 悪魔化したダークサマナーを射殺したのは、二年前の冬、台北警察局にいた男だった。仕立てのいいスーツを着た、警察関係者ではなさそうな男。右の瞼に大きな傷跡のあるあいつは――よりにもよって云豹の弟だった。
 ヤツはダークサマナー相手に苦戦していた俺たち……というよりは允花をかばい、死海幇との抗争に巻き込まれないよう允花を逃がした。
『貴様に託すのは癪だが敢えて言う。允花を任せた』
 こんなことを言う男と允花が無関係のはずがない。実際允花は、マシンピストルを携えて闇に消えていくヤツに叫んだのだから。「哥哥お兄ちゃん!」と
 本当の兄妹かどうかはこの際どうでもいい。いいや、知りたくもない。
――答えろ、お前は天道連の人間で、俺を……俺を、二年間、だましていたのか
 允花の手が、俺の手に触れた。自分を苦しめる者を取り払おうとしたかったのだろう。本能的に死を避けようとする動きだった。後になって思えば、答えろと言いながらその手を緩めなかった俺は本当にどうかしていた。
――裏切ったのか
 允花の爪が、俺の手首に食い込んでいく。痛みは感じなかった。
――裏切ったのか、俺を
 鬱血し始めた顔に涙が流れた。こんなものはただの反射で、生理的なものにすぎない。
――答えろ……允花
 首をつかんだまま揺さぶると、それきり允花は動かなくなった。瞼を閉じて、両手の力を抜いて、まるで人形のように横たわっている。
 だが允花は死んだわけではなかった。脈動はまだ感じられていた。

 だったらなぜ、逃れようとしない?

 たじろいだ俺がかすかに力を緩めると允花は咳き込み、懸命に酸素を肺に取り込もうと喘ぐ。それだけだった。首に痕を残したまま恨み言一つ言わず、その場から逃れようともしない。いや、そうするだけの気力も体力もなかっただけだろう。
――なんで、抵抗しない
 不気味だった。
 この女が恐ろしいと思った。恐怖しないのだろうか。俺を憎まないのだろうか。
 こんなモノと、俺は二年間暮らしていたのか?
 もしも俺があのとき完全に狂気に飲まれていたなら、「この女は殺さなければならない」と思い込んで、実行していたに違いない。
 憎悪も憤怒も知らぬイキモノは目を閉じていた。そのためだけに俺は、自身の正気を失わずに済んだのだと、今でもそう信じている。
 しばらくして允花は口を開いた。かすれた声は、波の音にかき消されそうなほど細く頼りなかった。
――それで、気が、すむなら
 乾いた木箱の表面に、色の濃いシミが増えていく。
 横を向いたまま、允花は泣いていた。

――殺されても、いいと思った、から
 
 俺は拳を振り上げていた。振り下ろす先もわからぬままに。そうしてこう感じたのだ。

“俺は二年前から、この拳を振り下ろすべき相手も知らず、まるで道化のように踊らされていたのではないか?”

――對不起ごめんなさい……

 顔の横に振り下ろされた俺の手が、木箱を打ち抜いていた。ささくれた破片は俺の手のひらにいくつも刺さって真っ赤な血を流していた。
 また、思い出す。這いつくばった俺の手を銃で撃ちぬいた云豹仇敵の顔を。俺の左の手の甲には、二年前の傷跡がまだ残っていた。この傷を見るたびに、俺は体中の傷跡から血が噴き出す錯覚を感じる。
 このときもそうだった。あらゆる感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて、俺が本当に感じていたものがなんだったのか思い出せない。

 俺はどうして、允花を殺そうとしたのだろう。

§

「ねえパオフゥ……気になってたんだけど、食事のときくらいはそれ、外さないの?」
 天野の声が俺を現実に引き戻す。「それ」と言われたのは手袋のことだろう。
「いいだろ別に」
 傷跡なんか見たところで気持ちのいいものではない。それに、いくら行動を共にしているからと言って、こいつらに何もかもを打ち明ける気になるはずもなかった。
「……それじゃお寿司もいけないわねぇ」
 能天気な天野のボヤキは聞き流すだけにとどめる。

「これは、独り言なんだけどね」
 嵌め殺しの窓の外を見ながら、天野がつぶやく。
「許す、っていうのは、もう苦しまない決意をすること――なんだって。どこで見たのか忘れちゃったけど。
 私、なんとなくわかる気がするわ。許すって、きっと相手のためにすることじゃないのよ……憎み続けるなんて、きっと悲しくてつらいことだわ」
 何も知らない天野は、わずかに目を細めていた。
 俺は何も言わなかった。独り言に反応する義理も甲斐もありはしない。

 ほどなくして周防が戻り芹沢が戻り、俺たちは店を出た。向かう先は夢崎区のクラブ・ゾディアック。
『この街は、異界化してる』
 そう断じた允花は、今日はどこにいるのだろう。雑踏の中には潮の香りも届きはしなかった。

§

 あのときの彼の顔を今も忘れられない。
 泣き出しそうな顔でわたしを絞め殺そうとするあの人を見て、わたしはきっと人生で一番の後悔をした。
 
 ああ、わたしは、いちばんひどい方法で、この人を傷つけてしまったのだ。
 わたしのことを信じてくれていたのに、その信頼を、裏切ってしまった。
 わたしが哥哥と知り合いだったことに怒っているんじゃない。
 わたしに裏切られたことが、悲しかったのね――

 わたしは、この人のことが好きだった。たぶん、今も。
 たった一人の女の人を、自分が死なせてしまったと思っているたった一人の愛しい人を、この先もずっと愛している、一途なこの人だから好きだった。
 だから、彼の目がわたしを見てくれることはきっとない。わかった上で、そばにいた。
 彼を助けたかった。望むことならすべてかなえてあげたかった。
 なのに、取り返しのつかないことを、してしまった。

 この人はわたしを、殺したいほど憎んでいる。憎むようになっている。
 数字で言えば、ゼロだったのが一息にマイナスまで下がったのと一緒で、それは決して、元には戻らない。

 本当を言うと、少しだけ夢見たこともあった。
 いつか彼の傷が癒えたとき、その隣にいることを赦されたなら、どんなに素敵なことだろう。
 
 でも、それも消えちゃった。いつまで、どこまで探し回ったとしても、あの人がわたしを顧みてくれることなんて永劫訪れることはない。
 いつか誰か、わたしの知らない誰かが、彼と二人で笑いあうのかもしれない。手のひらを重ねて、愛し気に目を細めて。

(いやだ、だめ、そんなこと、ゆるせない、わたしだけじゃない、彼女だって――)

 体中が冷たくなっていく。
 その光景がどんなにわたしを痛めつけても、わたしには何を言う権利もない。
 世界にヒビを入れてしまったのはわたし。すべて壊してしまったのは、わたし。
 この場で壊れて消えてしまうのも――わたし?
 
 罵倒の言葉さえかすんで聞こえる。
 いっそここで殺されれば、この人の心の慰めになるのだろうか?
 その思い付きは、甘い誘惑だった。
 この人の手にかかってしまえたら、わたしも一生思ってもらえるのかしら。
 ずっと愛されている彼女みたいに。わたしが誰よりも羨ましく感じている、あの人のように。
 決して愛されないのなら、それもいいかもしれない。
 償いになるのかわからないけれど、あなたになら、喜んで殺されよう。
 死んだわたしも、あなたの小さな傷になれるのなら。

 虹色の光が見える。少しだけ懐かしくて、少しだけ――恐ろしい。

§

 ――天海市
 ファントムソサエティのデータを改めるレイ・レイホゥは、ソウル回収に関する資料に一通り目を通して嘆息する。
「……因縁かしらね」
 天海市内で蔓延する奇病――無気力状態に陥ったり、あるいは狂暴化するという症状――は、蓋を開けてみればファントムソサエティとアルゴン社の陰謀によるものだったわけだ。もちろん現時点でそれに気づいているのはごく限られた者だけである上に、ソウルの回収などという荒唐無稽な話を一般市民が信じるわけもない。一刻も早く事態を収束させる必要がある。そのためのデビルサマナーであり、そのための葛葉なのだ。
 わかってはいるのに、レイの不安はぬぐえない。その対象は天海市の無辜の市民ではなく、成り行きで巻き込まれた素人デビルサマナーたちでもない。天海市からそう離れてはいない珠阯レ市、異界化したために葛葉の監視対象となった街――そこに派遣された彼女の愛弟子だった。
 允花はかつて、ファントムソサエティのダークサマナーによって監禁されていた。その男が子供たちを集めてソウル回収の人体実験を行っていたことはレイも葛葉もとうに知っている。幸い、允花はほかの子供たちのような悲惨な末路をたどることはなかった。
 しかし――だからと言って“允花にはソウル回収の実験がなされなかった”とは限らないのでは?
 レイの懸念はそこにあった。
 クリプトチップによるソウル回収の効果が一律ではないように、允花にもなんらかの措置が施されていた可能性がある。否、むしろ允花だけ処置を免れたのは――彼女の持つあの能力を抜きにしても――不自然極まりない。
 一年ほど前、嵯峨がこぼした一言はここにきてレイを苦しめた。
――あいつ、怒ったりしねぇんだな。
 感情がないというほどではないが、確かに允花は他者に対して怒りをあらわにすることがなかった。修行中はどちらかと言うと黙って耐えるか泣くかのどちらかで、子供らしく癇癪を起したり八つ当たりのような駄々をこねることもなかった。扱いやすい子だと、そのときのレイは感謝こそすれ不可解に思うこともなかったが、もっと早くに気が付くべきことだったのかもしれない。
 よりによって嵯峨のほうが先に気づいたのがまた腹立たしい。大体、そんなセリフが出てくるということはお前は允花を怒らせるようなことをしているのかと問い詰めたくもあったが。

――いけねぇよなぁ……これだからガキは使えねぇ……

 悪魔化したダークサマナーの言葉が思い出される。

――殺せと言っても従わねえ、ちょっと痛めつけりゃすぐに泣く。憎い、殺したい、そう思うより先に、逃げてぇ、死にたくねぇ、そういう下らねぇことを考えちまうんだろうなぁ……うまくいかねぇもんだ。

 あの子供たちはソウル回収の人体実験の被害者だった。その子供たちを評したあの男の言葉が、允花にも当てはまるような気がするのだ。
 無性に嫌な予感がする。この事件が片付いたら、珠阯レ市へ行かなければならない。

 レイの決意とは裏腹に、事態は急速に進行する。
 アメノトリフネの名で珠阯レ市が文字通り「浮上」するのは、それからわずか一週間後のことだった。

- 了 -
2020/7/29
「everything you've ever dreamed」- Arianne