終わりの始まり

 海を目掛けて燃え落ちる飛行船の赤が、目に焼き付いて離れない。理由もわからない焦燥はきっと、見たこともない風景にショックを受けているだけに違いない。半ば言い聞かせるようにしても、浮足立った雑踏にどうしても耳を傾けそうになる。
 多分あれも、動き始めた事象の一つなのだろう。
 少し前に、何かを決めたような顔で出かけた薫も、その直後に封鎖された山手の大きな病院も、飛ぶはずのない飛行船も、全部、終わりの始まりだ。
 あの人はこれを待っていた。ずっとこうなることを願っていた。それが本当に正しいことなのか、そうすることが誰にとってもいいことなのか、わたしには確信が持てない。ただ、こうするしかなかった。こうするしかないと、思いこむことしかできなかったのかもしれない。
 晴れない気分のまま、街はずれの廃ビルへと近づく。周りには人の気配も悪魔の気配も感じられない。珠阯レ市が半分異界化したような、嫌な場になったのはいつごろだっただろう。もうこの街はいろんな気配が入り混じって、わたしだけでは細かい変化を感じ取れなくなってしまった。かろうじて、拠点に施した人除けの結界だけは、ほころびがないことを認識できる。それから、中になじみ深い気配が一つ、あることも。
「ただいま」
 鍵を開けて中に入る。一段と強い煙草の香りには少しだけ違和感があった。何か、別のにおいが混じっている。金属音を鳴らして階段を下りた先では、彼が缶ビール片手に珍しい恰好をしていた。
「早かったな」
 薫は目を細めてわたしを見上げている。表情が詳らかにわかるのは、サングラスを外しているから、だった。変化はそれだけじゃない。いつもよりずいぶん身軽な……その、率直に言うと、上半身は裸で下はスウェットのみ、髪は濡れて首にはタオルがかかっている。察するにシャワーでも浴びた後なんだろうけど、なかなか見ることのない恰好だったので一瞬足が止まってしまった。
「うん、あとはキョウジさんたちに任せてきちゃったから」
 平崎での仕事を報告するのも、声が上ずっていないか気になって仕方ない。
 均整の取れた肉体には、いくつかの銃痕が目立つ。新しいものではないけれど、古いと言えば彼は怒るのだろう。
 階段を一歩ずつ下りていく。下りながら、もしかしてさっきの飛行船にでも乗っていたのではないかと思えてきた。終わりの始まりは、彼のために用意されたものと言ってもいい。だったらあの墜落に、薫がかかわっていないわけがない。
 煙草の香りに交じっていたのは、海の潮のにおいと、それに洗われた体を清めたときの石鹸の香り。きっとこの先同じものを感じることはできないから、わたしはそれを覚えていたいと思った。
「ふぅん」
 薫はわたしの話に興味がないのだろう。ただ、不承不承に同居を認めているわたしが存外早く戻ってきたのが不思議だっただけで。一言相槌を打ったきり、あとはビールを呷ることに執心している。わたしはそれを、壁にもたれて眺めていた。きっと許されていないので、近づこうとは思えなかった。飲み干すために喉が動くたび、自分の首に手を当てたくなる。そこにまだ残っているはずの痕を思って。
「――こっちに来てやがる」
「え?」
 目的語のわからないセリフに顔を上げるのと同時に、左手が空いた缶を握りつぶす音がこだました。ひしゃげたアルミの塊にぶつけられたのは憎悪に他ならない。薫の眼はどこまでも冷めているのに、心の中はあのときみたいに憎しみの炎に燃えている。
 首筋が、熱い。(三年前のあの日。わたしを殺そうとした手)(わたしを殺しそこなった、心)
「云豹」
 半ば予想のついた名前だった。
「あとは三下どもだ。あいつの姿は――なかった」
 肩が震えそうになったのを、懸命にこらえた。わたしにはもう、目を伏せて首を振ることしかできない。
「わたし……何も知らない」
 あいつと呼ばれた人の顔は、もう三年、見ていない。台湾から命からがら逃げだすわたしたちを、かばってくれた天道連の幹部の一人。薫の仇敵の弟。そしてわたしの、命の恩人。
 きっと二度と会うことはかなわない。それは悲しいことだと思うけれど、不思議と受け入れることに抵抗はなかった。お互い因果な商売をしたから、いつとも知れぬ別れを覚悟して生きていくことに慣れてしまっていたのかもしれない。
 それでもわたしは選んだ道を後悔していない。後悔していないと――信じたい。
 この命の使い道はとうに決めている。もう二度と、悲しませたりはしない。
「……もう、嘘はついてないから。裏切るなんて、二度とないから」
 悲壮な顔をすればきっと、嘘みたいになる。だからわたしは、笑って見せた。
「邪魔だって……しないよ」
 うまく笑えているのかは、わからない。薫の表情を見る限りでは、きっと失敗だ。面白くなさそうな、変に苦しそうな顔をしている。
 けれどそれも一瞬だけで、頭を掻きながら立ち上がって奥へ行ってしまった。
 ……やっぱり、わたしでは駄目だった。
 そんな顔をさせたいわけじゃない。あんな顔を見たいなんて思っていない。
 わたしはただ、彼に幸せな未来をあげたいだけ。きっと溌剌と笑っていたはずの日々を取り戻してあげたいだけ。
(そのための、終わりの始まり)
 失ったものも失うだろうものも、これから一つに溶けていく。悲しいはずもつらいこともないのに、わたしの目は冷えた涙をこぼしていた。



――邪魔だって、しないよ。

 できそこなった笑顔に何か言ってやるべきだったのだろうか。
 いや、俺に何か言う義理も権利もあるはずがない。
 次にアイツらに見えたなら、俺は間違いなく殺すだろう。云豹は確実に、弟のほうは――正直、わからない。けれど、あの事件にヤツも間違いなく関与しているのなら、俺は殺さずにいられる自信がない。
(わかっていて、笑うヤツがあるか)
 ゴミ箱に缶を投げつける、それがみっともない八つ当たりだとはわかっている。こんな些細なことだけじゃない。本当は、五年の歳月だって――
「クソ!」
 違う。今更何を言い出す? これは俺のための復讐ではない。これは――
――復讐に理も道もあるわけがない。あるとしたらそれはただ、欺瞞のためのものに過ぎない。
 見透かしたような悪魔の声を、昨日のことのように思い出せる。思い出してしまう。まるで呪いだった。
 欺瞞で何が悪い。どのみちもう止まることなどできやしない。
 ようやくここまできた。あと一歩、あとほんのわずかで手が届く。悪意に細められた目を、黒く塗りつぶすことができる。
 だがそうなったとき、俺の手が真っ赤に濡れたとき、俺は三年前のあの日をどうしても思い出すのだろう。
――哥哥!
 そのとき允花は泣くのだろうか。俺を恨むだろうか。あのときに細い首を絞めた俺のように、全身全霊の憎しみをぶつけてくるのだろうか。
 足元に、髪からこぼれた雫が落ちる。三年前のあの日に俺の手を濡らした涙が、五年前のあの日に受け止められなかった涙が、今も足元に滞っている。
 幻覚だ。わかっていても、血のようにべたついた水気を振り払うことができない。正体のわからなくなったものが凝り固まって、俺の足元を覆っていく。
 壊してはくれないだろうか。もっと強い感情が、俺を開放してはくれないだろうか。
 俺は願っているのかもしれなかった。
 允花が俺を壊すほど、強い憎しみで射抜いてくれることを。俺のせいで見たこともないほどに心を乱して、俺だけをその瞳で憎んでくれることを。

- 了 -
2020/5/25