一九九五年一月十七日

―― 一九九五年一月十七日 台北市 異界

「あ――!」
 転んでしまうところだった。
 もつれかけた両足を立て直したせいで少しだけスピードが落ちる。けれど、追いかけてくる悪魔たちに捕まるようなヘマはしない。成長途中の十四歳の体の利点といえば素早さと身軽さくらいのものなのだから。
 少女――允花ユンファ)はちらりと背後を振り返る。首のない黒い犬……ではなく、黒い犬のような見た目の悪魔が四体、追いかけてくる。あれはヘルハウンド、たいした悪魔ではない、と、理解はしているのだが逃げ回ることしかできていない。なにせ突然巻き込まれた『異界』で、しかも何の準備もしていないのだからしょうがないじゃないかと愚痴りそうになる。愚痴る相手すらいないのだが。
 通常世界、すなわち現世とまったく同じ位置関係にある路地を何度か曲がると、高さ三メートルほどの壁がそびえる行き止まりにぶつかる。しかし少女は躊躇したのも一瞬、走っていた勢いはそのままに、壁際に積まれたゴミ置き場のポリバケツやら粗大ゴミを足場にして壁によじ登った。
「ん、よっ、と! とりゃ!」
 よじ登ったそばから、追っ手が同じことをできないよう集積物を蹴り飛ばして崩すが、人っ子一人いない異界では咎められることもない。聳え立つ壁に跨って、允花は一息ついた。悪魔たちももう間もなくやってくるだろう。もしかしたら悪魔は自分よりも軽々とこの壁を乗り越えるかもしれない。允花は着ている服の裾をめくり、腰に差していた細い金属の管を引き出した。
「召喚! モー・ショボー!」
 允花が人差し指と中指で挟んでいた管の蓋が、きゅらきゅらとひとりでに回り出す。淡い緑色の光の粒が漏れ出でるようにして、ふわりと風が吹いたかと思うと、それは一点に集中し、赤いオーバーコートの少女の姿を取った。
「キャハッ! 呼んだ?」
 軽やかに人語を発する少女は、白から紅へと美しくグラデーションのかかった長い髪を鳥の翼のように広げて宙に浮いている。ふわりと体を一回転させて微笑む愛らしい表情は十にも満たない年頃に見えるが、その獰猛そうな目つきも異様なほどに白い顔色も、明らかに人間ではない。
「ああっ! 妖獣のニオイ!」
 モー・ショボーは小さな鼻をひくつかせて、あたりを見回す。ちょうどそのタイミングで壁の下にヘルハウンドの群れが到達した。モー・ショボーはぎょっとしたような顔で、主である允花に向かって声を荒げた。
「ちょっとぉ、四匹もいるの、アタシ一人で相手しろっていうの?」
 もちろん主である允花は言い返す。
「仕方ないじゃない、今日は管一本しか持ってないんだもん!」
 そもそも『師匠』に頼まれたお遣いから戻る途中だったので、念のためにと思って身に着けていた武装は守り刀と、悪魔の仲間――つまり仲魔が封じられている管がそれぞれ一本ずつ。こんなことになるとわかっていたのなら管も全部持ってきていたし、銃だって――と文句をたれたところでどうにもならない。
「なんでそんな準備悪いの!? 信じられない!」
「だっていきなり異界に引きずり込まれたんだもん! わたしは先生に頼まれたお遣いから戻ってただけなのに……!」
 壁の上でぎゃあぎゃあとわめき散らす一人と一体の足元からヘルハウンドが吠え立てる。その頭部はゆらゆらと不知火が揺れるだけで首から上がないというのになぜ吠えることができるのだろうか……。允花は現実逃避するようなことをふと思う。
「無理無理! モー・ショボー、ひとりっきりじゃ食べられちゃう!」
 やってられるかとモー・ショボーはヘルハウンドどころか主を放って小さな体を翻す。そのコートの裾を允花はがっしりと掴んで捉えた。
「あ! こら、ちょっとぉ!」
「やん! 掴まないでよお!」
「何一人で逃げようとしてるの! わたしの仲魔でしょ!」
「いーやー!!」
 取っ組み合いにもなりそうな押し問答を繰り返すうちにも、ヘルハウンドたちは壁に爪を立ててよじ登ろうとしている。狼か野犬のような荒々しい吠えが二人の口論をかき消した。
「……」
「……」
 吠え立てられてようやく我に帰ったのか、二人は顔を見合わせると壁の向こう側へと飛び降り、暗い異界の路地を駆け出した。

§

「はぁ……このへんまでくれば安心かな」
 いくつかの曲がり角を走り抜けてたどり着いた先は倉庫街だった。允花は額の汗をぬぐいながら安堵する。自宅のあるべき位置からはかなり離れてしまったが、命には代えられない。
「遠回りになっちゃうけど、しょうがないよね。さ、帰ろうか――どうしたの?」
 家のあるほうへ歩き出そうとするが、モー・ショボーは宙に浮いたまま動こうとしない。允花の言葉も聞こえていないようなので彼女の正面に回りこんでみると、モー・ショボーは先ほどと同じように小さな鼻をひくつかせながらあたりを見回した。
「どうしたの、モー・ショボー?」
「あっちから血のニオイ……する……」
 言うなり、モー・ショボーは翼を羽ばたかせて、細い路地のさらに奥へと飛び去ってしまった。
「ちょ、ちょっと! どこ行くの!?」
 允花の静止など聞こえぬような振る舞いに、悪魔召喚師――デビルサマナー――であるはずの少女はがっくりと肩を落とした。
「もー……いつになったら言うこと聞いてくれるの……」
 ぼやきながら、彼女も後を追いかける。一瞬仰ぎ見た異界の空には何もないが、允花は重大なことを思い出した。
「そっか、今日は満月……」
 悪魔がその獰猛さを増す夜だ。モー・ショボーも大方、あの丸い月の影響を受けて血のにおいのするほうへ引き寄せられたに違いない。血のにおいとは何を意味するのか。允花にも大方予想はできた。悪魔が悪魔を食らっているのだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
 そんな現場にお邪魔しようものなら、満月に昂ぶった悪魔にこちらも食われかねない。それは困る。允花はモー・ショボーの小さな手をなんとか捕まえて引き止めることに成功した。
「ねぇ、血のにおいって、どういうこと? 他にも悪魔がいるの?」
 怯え混じりの声に、モー・ショボーは平然と答えた。
「ちがう。……これ、人間の血のニオイだよ」
「に、人間!?」
 もちろん、悪魔が人間を食う場合も少なくはない。むしろデビルサマナーではないただの人間のほうが、悪魔にとっては格段に楽な狩りだろう。もっとも、魔の力を有しない人間を食らったところで何の力を得られるわけではないのだが、満月のせいで見境をなくしているのかもしれない。
 允花は息を呑んだ。悪魔に食われるということがどれだけ悲惨なものか、知っているからだ。
 どうしよう。
 助けに行くべきだし、助けたい。しかし強い悪魔を相手にたった二人で戦える自信はない。みすみす命を落とすようなことはしたくないのだが、見捨てることも同じくらい嫌だった。
「でも……」
 モー・ショボーは首を傾げる。状況に不可解な点があるらしい。
「人間のにおいはするけど、悪魔の気配は全然しない。もうどこか行っちゃったのかな?」
「え、じゃ、じゃあ、食べつくしたあと……ってこと……?」
 考えられるのはそれくらいなのだが、最悪のパターンと言っていい。しかし、モー・ショボーは首を横に振る。
「……このMAG(生体マグネタイト)の感じ、生きてるかもしれないけど、血のニオイ、信じられないくらい強いから、わかんない」
「生きてる……」
 希望の光が見えたような気がした。死んでいないかもしれない。しかも悪魔もいないのなら、やるべきことは明確だった。
「モー・ショボー、案内して!」
「なんで?」
「生きてるなら助けないとだめでしょ!」
 不思議そうな顔をしているあたり、悪魔と人間との感覚の違いを思い知る。悪魔がすべて一様にそうだとは言えないが、おおむね彼らの常識は「弱肉強食」なので、同族であっても息絶えようとしている他者に対する思いやりはほとんどないと言っていい。それでも、短くない期間人間と接していたために絆されたのだろうか、モー・ショボーはとりあえず納得したらしい。
「ふーん。わかった。ついてきて」

§

允花、もうすぐだよ!」
 随分と路地を走り回って、たどり着いた袋小路で目にしたものは――血溜りの中で座り込んでいる男だった。
「な……に、これ」
「うわぁ……生きてるかな?」
 目を背けたくなるような光景だった。というか、事実一旦背けてしまった。一方悪魔ゆえそんなことなど意に介さないモー・ショボーは検分するように男へ近寄る。
 允花は深呼吸し、背けていた目を開いた。壁に背を預けた男のは、流している血の量からして到底生きているとは思えない。こらえるように口元を押さえてしまう。頭の中でフラッシュバックする光景にめまいがした。もう三年も経つというのにいまだに忘れることもできないあの惨状を思い出すが、思い出すたびに「忘れてはならないのだ」と叱責されているような気になる。へたりこみそうな両足をなんとか奮い立たせる允花を支えるようにモー・ショボーは近寄って肩に触れた。
「ねえ、允花、あのニンゲン、まだ生きてるよ?」
 どうする? と言いたげなのは、仲魔となった悪魔は基本的にデビルサマナーの命令に従わなければならないからだった。允花があの人間を助けるつもりなのはモー・ショボーも理解しているが、命令を受けぬうちに行動を起こすことはできない。
「生きてる……生きてるの?」
 まだ生きている。その言葉で允花は我に返る。
「うん。でも、早くしないと、死ぬよ」
「死――ぬ」
 冷淡な響きの単語が、いつだって恐ろしい。
 手荷物の中に回復薬の類はないが、幸いにもモー・ショボーは回復魔法を会得している。
「モー・ショボー! おねがい!」
「わかった!」
 心得たと頷いたモー・ショボーは、ふたたび男の下へ近寄り、回復魔法の詠唱を始めた。
 モー・ショボーの回復魔法――ディア――は効果が大きいわけではない。何度も繰り返し詠唱してやる必要があるだろうし、治療が終わるころにはモー・ショボーの精神力もほとんどなくなっていることだろう。
 であれば、万が一悪魔と出会ってしまったら、自分ひとりで相手することになる。しかも手負いの人間をかばいながら、だ。そうならないことを祈るばかりだが、悪い予感というのはよく当たるもの。獣の気配が感じられてきた。遠吠えがかすかに聞こえるのでおそらくさっきのヘルハウンドたちだろう。壁を避けて遠回りしてきたのかもしれないが、これだけの血のにおいがしていれば嗅ぎ付けるのは容易だったに違いない。允花はふと、ある可能性に気づいた。
(もしかしたら、わたしじゃなくてこの人を狙ってた……?)
 今考えても答えは出ない。それに、考え事をしている場合でもない。
 允花は腰に差していた守り刀を抜いた。刀身には退魔の呪文が掘り込まれているので、悪魔相手ならばただの刀よりもマシではあるだろう。それに――
(今度こそ、助けてみせる。もう自分だけ生き残るのなんて、嫌)
 もう目の前であのような惨劇は起こさせたくない。刀を眼前に掲げ、允花は深呼吸をする。袋小路を背にして立つ少女を、心配そうにモー・ショボーが見守っていた。
「――来た!」
 四体のヘルハウンドたちの姿が見えた。彼らはいったん立ち止まり、允花の様子を伺うようにしている。攻めあぐねているのかもしれない。背後で男の回復にかかりきりとはいえ、仲魔の存在を認めてたじろいでいるのだろう。
 僅かばかりの目は見いだせたものの、本当にそれだけだった。一体ずつならなんとかなるかもしれないが、四体まとめて飛び掛られたらたまったものではない。
 跳ねまわる心臓が口から飛び出しそうだった。冬だというのに背中や腋に嫌な汗もかいている。構えたままの両腕がしびれそうで、不随意にぴくりと刃先が動いてしまう。それが、合図になったらしい。
允花!」
 背後で手当てをしていたモー・ショボーが思わず悲鳴を上げてしまう。允花はまず飛び掛ってきた二体のうち、右側の一体に狙いを定め、腹を横一閃に切り払う。悲鳴のようなような雄たけびをあげて、その一体は動かなくなった。さらさらと灰が風に散らされるようにして、亡骸は文字通り消滅する。
「や、やった……!」
 まぐれで当たった切り傷だけで致命傷を与えられたとは考えにくいから、退魔の呪文は効果的らしい。
 いける。允花は刀を握りなおし、呼吸を整えた。
 もう一体のヘルハウンドは獲物が予想外の反抗をしてきたため、残りの二体のもとへと引き下がった。
「さあ、来なさいよ! まとめて返り討ちにしてあげる!」
 調子に乗った台詞だったとは思う。冷たい月の光を浴びて鋭く輝く切っ先を、允花が一振りしたそのときだった。
「っ、え、い、いっぺんに!?」
 一体ずつは交わしきれないほど微妙な間をおいて三体は飛び掛ってきた。一体目を交わせば二体目は避けきれない。かといって一体目と組み合えば間髪いれず襲い掛かるだろう二体目三体目がすかさず鋭い爪を突き立てるに違いない。万事休すか。
「冗談……!」
 振り下ろされた一体目の前足から逃れるように横に飛びずさり、二体目のわき腹めがけて刃を突き出す。かすめただけだ。ちっと舌打ちをしながら、允花は飛びかかってきた三体目の腹に蹴りを叩き込んだ。ほとんど考えなしではあるものの、繰り出された一連の動きはそれなりに効果はあったらしく、かろうじて三体目のヘルハウンドだけはその場にうずくまって苦悶している。
 が、所詮はそこまでのことだった。
「――がっ!」
 体勢を立て直した残りの二体に再び背後から飛び掛られ、允花は地面にうつぶせに叩きつけられた。砂の粒が頬をすりむかせ、口の中にも入ってくる。その程度ならまだ堪えられる。しかし――
「ああああっ!」
 ヘルハウンドたちは鋭い爪で允花の背中を袈裟懸けに引き裂いた。衣服はばっさりと破け、みるみるうちに赤く染まっていく。
「ぐ、う、痛い、痛い、やだ……」
允花!」
「だめ!」
 焼けるような痛みに、涙と悲鳴があふれてくる。モー・ショボーはたまらず、允花のほうへ飛んでこようとするが、主の強い拒絶を含んだ視線に射抜かれてその場に縫いとめられてしまう。正直、モー・ショボーが加勢したとしても焼け石に水だっただろう。そのまま男の治療に専念させていたほうがいい。最悪、彼だけでも助けられたならデビルサマナーとして御の字ではないか。激痛をこらえながら允花は覚悟を決めて掴んだ刀の柄を握り締める。せめて、相打ちにでも――
 その彼女の背中を、ヘルハウンドはさらに痛めつける。
「いっ……!」
 息が止まりそうな痛みに、もはや悲鳴すら上がらない。許容量を超えそうな苦痛に、できたと思っていた覚悟が鈍っていく。
「やめて、いや……」
 こんな弱音と泣き言ばかりで、デビルサマナーとしての一人前にはほど遠いと言われるのもしょうがないと思ってしまう。それでもいつかは師のように立派になりたいと願っていたし、弱き人々を守るような存在になりたいと心に誓っていた。
 そうなれないまま、自分はここで死ぬのだろうか。
「やだ、やだ……」
 死にたくない。死にたくないのに、どうしたらいいのかわからない。
「痛いよ……助けて、先生、哥哥(お兄ちゃん)……」
 ぼろぼろとこぼれる涙で視界がゆがんでいた。允花はすがるように、男のほうへ手をのばす。彼が、兄と呼んで慕う男ではないことなどわかっていた。それでも、見ず知らずの他人だった允花を彼が救ってくれたように、やさしい誰かが助けてくれるかもしれないと期待してしまう。もちろん数メートル先の半死半生の男に何が通じるわけでもない。それでも無意識に助けを求め、手を伸ばしてしまっていた。
 その刹那、允花の中で奇妙な波紋が広がる。奇妙としか言いようがなかった。一瞬だけ、懐かしさにも似た物悲しい想いにとらわれる。その正体を掴もうとすると、懐かしさは姿を消し、新たな悪魔の気配のようなものへと変容した。
「え……?」
 彼もデビルサマナーなのだろうか。疑問は突如として巻き起こった風に吹き消される。
 砂塵を巻き上げながら渦巻いている風の中心には、意識もないはずの男がいる。一体何事かと目を丸くしているのは允花だけではなかった。
「なに!? なんなの!?」
 モー・ショボーは吹き飛ばされないように必死で地面にしがみつき、允花を襲っているヘルハウンド二体もまた、突然の出来事に允花の体から飛びのいた。
 一体何が起こっているのか。
 どうにか体を起こそうとした允花は、さらに驚くべき光景を目の当たりにした。
 男の体が二重に見えたと思うと、ゆらりと半透明の人影が彼の頭上に浮き上がる。人型でありながら明らかに異形とわかるその容貌。それは腰に差している刀を抜き、允花のほうへ切っ先を向けた。斬られる、いや、違う。切っ先は空気をかき乱し、目に見えてわかるほどに空間を切り裂き始めた。
「魔法……?」
 そう、魔法だ。こちらへ向かって放たれようとしているのは、紛れもなく魔法だということはよくわかった。しかしなぜ自分が狙われるのか、そのわけもわからぬままに允花は目を閉じた。今度こそ、死を覚悟して。
 轟音とともに放たれた風の刃は、允花の両頬を掠めてヘルハウンドたちに襲い掛かった。鋭い刃に全身を切り裂かれ、悪魔は血を噴出しながら断末魔の叫びを上げる。ぐっと目を閉じて死を待っていた允花は、ようやく自分が狙われたのではないと気がついて背後を振り返る。もはやヘルハウンドは一体残らず塵芥と化して消滅した後だった。
 允花は痛む背中をこらえながらなんとか起き上がり、男の下へと這っていく。
「助けて……くれたの?」
 返事はない。一瞬、死んでしまったのかと彼の顔を覗き込んでしまう。両のまぶたは閉じられているが、呼吸は穏やかだし傷もほとんど癒えている。ひとまずは大丈夫だろう。
「よかった……」
「よくないよ! 允花だって怪我してるのに、どこがいいの!」
「あ……」
 言われて、そういえば自分もひどい怪我をしていたことを思い出した。呆れた顔のモー・ショボーが余力をふりしぼってくれるらしい。あたたかい癒しの光を受けて、傷口がふさがっていく。魔法ならば傷跡も残らないし、この後すぐに動き回ることもできる。まるで何もなかったように元通りになった体を確かめながら、允花はモー・ショボーをねぎらった。
「ありがと」
 小さな相棒は腰に手を当て、「まったく」と口をとがらせる。
「ほんと、允花はまだまだだよね、アタシがいないと何にもできないんだから」
「そんなこと、……あるかな……」
「あるある。大アリだよ」
「もー……。ま、とにかく、ここから出ないとね」
 允花はもう歩けるが、この男はどう見ても致命傷クラスの大怪我を負っていたのだから、允花のようにはいかないだろう。失血量も多いので怪我が治癒した今も気を失ったままだ。
「こいつ、どうするの?」
「おいていくわけには行かないよ。また悪魔に襲われるかもしれないし、第一わたしは助けてもらったんだから」
 允花は跪き、男を今一度よく観察してみる。レンズの割れた眼鏡には、彼のものらしき血液が跳ね飛んでいた。安くはなさそうなスーツの上にコートを着ているが、銃撃されたのだろう、両方とも五箇所ほどに穴が開いて血に染まっている。これではもう使い物にならない。
 検分しながら允花ははたとあることに気がついた。銃を使う悪魔など見たこともない。
(銃……ってことは、人間に襲われたの? でも、だったらどうして異界に?)
 それに、自分までもが突然異界に巻き込まれたのも不可解だった。考えたところで子供の頭ではろくな答えも出はしない。モー・ショボーはそれよりも気になることがあるらしく、允花の袖を引っ張った。
「ねえアレ、なんだったのかな」
「……アレ?」
「アレだよ、こいつが出したやつ! あれ悪魔なのかな? アタシは見たことないやつだったよ?」
「ああ……」
 確かにあの人型の何かも気にかかる。もしもあれが悪魔ならば、この男もデビルサマナーなのだろうか。だとすれば――允花は眉間に皺を寄せる。この男の正体に、心当たりがあるからだ。
 しかし、モー・ショボーはそうは思わないらしい。
「でもこの人間、サマナーじゃないね」
「そうなの?」
「そうだよ。わかるもん」
「なんで?」
「なんでって言われても……なんででも!」
 自分の中にある何らかの違和感を上手く言葉にできないのだろう。モー・ショボーは説明を放棄してぷいとそっぽを向いた。
「う……」
と、うめくような男の声がする。
「あ、大丈夫? わかる?」
 允花は背中をかがめて男の顔を覗き込み、そっとその頬に触れる。かすかな体温も細切れの呼吸も、彼の生存を訴えているのにひどく頼りなかった。
 彼の唇が動く。
「……ミキ?」
「え?」
 何を言っているのか眉をひそめた允花の手に、男は自分の手を重ねた。うっすらと開いた瞼の下、両目がゆらりと左右に揺れる。見えるものをほとんど認識できないのだろうか、彼の視線は定まらない。
「ああ……よかった」
 薄く微笑んだ口元からこぼれたのは日本語だった。意味はわかるが、何を「よかった」と言っているのかはわからない。誰かと間違えているのだろうか。怪訝な顔をしたままの允花は、そのままぐいと引き寄せられて、両腕に包み込まれる。
「生きてた――ああ、よかった」
「――」
 それが自分に向けられた言葉ではないとしても、心が乱れてしまう。
 ぎゅうと抱きすくめられ、どうしてそんなことをされるのか、允花にはよくわからなかった。「ミキ」が何を示す言葉なのかすらわからない。ただ戸惑いだけが生まれ、行き場のない両腕をさまよわせてしまう。
「こいつ! 允花になにするの!」
「ま、待って!」
 手を出そうとしたモー・ショボーを静止する。
「大丈夫、この人、また気を失っちゃったから」
 とは言えまわされた腕には相変わらず力がこめられたままだったので、その場から抜け出すこともできない。
「でも……」
 不服そうな仲魔の声もわからないでもない。允花とていきなり触れられれば驚きもするし警戒もする。しかし、こうして抱きすくめられて感じるのは深い悲しみだけだった。一体彼に何があったのか允花には知る由もない。それに知ったところで何もできやしないのだろう。それでも、突き放すことなどできやしなかった。
 男の背中にそっと、触れてみる。あたたかく、息をするたびに上下する背中。彼は決して死んでなどいない。死んでいないから、こんな悲しみを抱えてしまったのだろうか。そんなことを感じた。
「――允花?」
 不意にかけられた声に振り返る。怪訝そうな響きを孕んだその声音は彼女の良く知るものだった。
「先生、」
 先生と呼ばれた女は、ひらひらと舞う白い紙切れを手に持っていた。式神を使って允花の居場所を探していたのだろう。彼女はハイヒールの踵を鳴らして允花たちのもとへと近寄ってくる。
「帰りが遅いもんだからまさかと思ってたけどほんとに異界に行ってたとはね……」
 麗鈴舫(レイ・レイホゥ)は明るいメッシュの入った髪をかき上げてため息をついた。完全に呆れているときの仕草だ。
「ご、ごめんなさい」
「どうせまた引きずり込まれたんでしょう? 波長が合うのかしらね。で? あんたここで……何してるの?」
 問い質す口調がいつもよりもやや厳しいが、まだ年端もいかない少女が見知らぬ男と抱き合っていればそうもなろう。
「え、あ、その、これは……なんて説明したらいいのか……」
 別にやましいことはないのだが、傍から見ればただならぬ仲にも見えかねない。遅まきながらそんなことに気がついて、允花はしどろもどろなままに弁明しようとする。しかし、言い訳無用と言わんばかりに麗は允花と男を引き剥がした。
「とにかく、うちに帰るわよ」

§

「まったく……夕飯買ってくるはずが、人間拾ってくるなんて……」
 麗はぶつくさと呟きながら玄関のドアを開けた。台北市のはずれにあるアパートの一室を借りて二人は暮らしているのだが、このアパート自体に人の気配は感じられない。というのも、まだここは通常世界ではなく異界。血まみれの男をかついで歩き回るのは通常世界では人目について危険すぎるという判断ゆえに、玄関のドアを閉めた後になって彼らは通常世界へと『移動』したのだ。
 異界とは全く異なる蛍光灯の白い光が三人と仲魔一体の体を照らす。やっと一息つけると思って肩の力を抜いた允花は、麗のじっとりとした視線を感じ再び萎縮した。
「ご、ごめんなさい……」
「ま、いいわよ。しょうがないもの」
 呆れているというか、因縁を感じると言うか。そもそも麗も允花を『拾った』ようなものなので、なんだかあのときのことを思い出してしまうようだった。あのときは自分が允花を守らねばと思ったし、今も同じ気持ちだ。しかし今の麗としてはこれ以上面倒を見る相手が(しかも、男だ)増えるのは御免被るので、手当てを済ませたらとっとと出て行ってもらおうかとすら考えている。
「とにかく寝かせましょ」
「はい」
 麗と允花は二人がかりで男のコートと背広を脱がせた。とりあえず横にしてやるにしろ、このままでは居心地が悪いに違いない。そうして允花は、男を背負ってここまで運んでくれた仲魔を「ありがとう」とねぎらって管に戻す。仲魔――オバリヨン――は、「いいっスよ」とやけに気軽な返事をして緑色の光の粒へと解けていった。先ほど麗が探しに来てくれたときに允花の管を数本持ってきてくれていなかったら、女二人で彼を運ばなければならなかったに違いない。当のオバリヨンはいきなり男を担げと命じられ、「ボク、おぶさるのが専門なんスけど。でもキミの頼みなら仕方ないよね」と、なにやら釈然としないようだったが。
 ともかく、男をソファの上にとりあえず寝かせ、麗は検分するように傷口を確かめた。傷はふさがっているし血も止まっている。気がつかないのはおそらくショックのためか、またはその他の要因か。
 考え込む麗の背後から允花が覗き込む。
「一応、魔法で回復をしたけど、多分銃で撃たれてて、血がたくさん出てたから……」
「失血……まずいわね」
 気を失っている、というよりも昏睡状態に近い彼の顔色は確かに真っ青だった。血が失われているのならば輸血をするのが道理だろうが、当然ここにはそんな設備があるはずもない。病院に担ぎ込むか? 麗は首を振る。どうにも、表沙汰にはしてはならない予感がするのだ。
 そこで、はたと気づく。
「……ちょっと待って、異界で、銃の傷って?」
「は、はい……でも、その人以外には人間も、悪魔も、いなくて……」
 允花がおびえたように答える。予感は確信に近づいていた。思い出すのは文豹(ウェンパオ)から聞いた探し人――天道連、というより、文豹の兄である云豹(ユンパオ)が命を狙っている男の話だった。
 気がかりは気がかりなのだが、今はそれにかかずらわっている場合ではない。
「とにかく、なんとかしてみるわ」
「お願いします!」
 麗は仙術の詠唱を始めた。輸血のように、血が足りないのを西洋医学で補うことは彼女には不可能なので、身体の「気」のめぐりを活性化させて回復させるのだ。当然にかなりの精神力を使うことになるのだが、四の五の言ってはいられない。日ごろ允花をお人よしだなんだと言っているが、自分も言えたものではないなと、苦笑しながら。
 允花は師から溢れ出るあたたかな魔の波動を感じて小さく息を吐いた。そのとき、居間のほうで電話のベルが鳴り響く。夜も更けているというのに何の用か。麗は嫌な予感を覚えながら允花を向かわせた。
允花、出て」
「はい」
 少女が駆けていくのを背後に聞きながら、麗は手を青年の胸元にかざす。ツボ押しのように体の経穴に触れていくと、だんだんと男の顔にも赤みが戻ってきた。今日のところは、これで大丈夫だろう、と麗は己の額をぬぐってため息を吐いた。仙術は消耗するのでできることならあまり使いたくないのだ。
「それにしたってこれだけ撃たれてるわりに回復は早いし、案外この男、体力あるみたいね……ん?」
 感心しつつ、背もたれにかけていた男の背広にふと視線をやれば、左ポケットから覗く財布のようなものが目に入った。
「ちょっと財布の中、見せてもらうわよ」
 もちろん返事などないのだが、良心が咎めるので一言申し入れてしまう。何も金を盗ろうというわけではない、身分証の類がないだろうかと思ったまでだ。リビングの奥では允花が電話を取るところだった。
「はぁい。……あ、哥哥! なぁに?」
 允花の声から察するに、相手は文豹らしい。見透かしたようなタイミングでかかるものだと、内心で焦ってしまう。指先が少し震えたが、手の動きは止めなかった。
 麗は会話にも意識を向けつつ、非常時だからと内心でわびて男の財布の中身を改めた。
「うん? 元気だよ。先生も。そう、帰ってきたばっかり。うん……変わったことも、ない」
 財布の中身は手つかずのようだった。よく見れば、高価そうな腕時計も男の左手首に嵌められたまま。ということは、この男は物盗りに襲われたわけではないらしい。疑いがますます確信へと近づいていくような気がした。
「え? 人探し、の件? ……あ、この前言ってた?」
 二つに分かれた札入れの外側は新札の台湾ドル、内側のほうには使用感のある一万円札が数枚入っていた。台湾ではかなりの額とみなされる程度に。もっとも、ほとんどが血のりでたがいにひっつきあってこのままでは使い物にはならなさそうではあるが。
「もういいの? ――え? 二週間……?」
 札入れのほかにはクレジットカードやテレホンカードが数枚入っている。嫌な予感は確信に姿を変えつつあった。カードには中国語ではなく、日本語で有名カード会社のロゴマークが入っていたからだ。つまり、この男は日本人である可能性がきわめて高い。
「というか、ほぼ確定ね」
 カード入れの一番手前には、運転免許証が入っていた。日本のものに違いないデザインに、麗は落胆を隠せなかった。名前を確認しようと思うのだが引き抜こうとする指先に無駄な力が入ってしまう。確認するしかないというのに、確認したが最後、大きな事件に巻き込まれるような気がしてならないのだ。
 ええい、ままよ。
 麗は免許証を取り出した。口角の上がった男の顔写真に間違いはない。嵯峨薫、それが彼の名前だった。住所は日本、珠阯レ市。つい先週まで麗が滞在していた平崎市から、そう遠くは離れていない。
「……とんだ貧乏くじ、ひいちゃったみたいね」
 思わず天を仰いだが、そこには薄汚れた照明がぶら下がるだけだった。

 さかのぼること十日――
 台湾に着いた途端に始まった新年のお祭り騒ぎに辟易しながら帰宅した麗は、困惑交じりに喜ぶ允花に迎えられた。困惑。何かあったのかと聞くと、文豹から妙なことを頼まれたのだと言う。
 文豹は台湾の新興マフィア、天道連の幹部である云豹の弟だ。妙な因縁があって允花からは「哥哥(お兄ちゃん)」と呼ばれ親しまれているが、彼とて紛れもないマフィアの構成員でもある。
 その文豹からの頼みごととは人探しだった。しかしどうにも、きな臭い。
「男を捜している。おそらく、大怪我をしているだろう。お前に頼んでいる理由は他でもない。ヤツもお前と同じ能力を持っているらしいからだ」
 おかしな話だと麗は首を傾げた。

 麗はかつて、天道連がらみの事件でダークサマナーを相手にしたことがある。というか、天道連と協力して事件を解決させたと言ってもいい。あのときの文豹は「自分たちだけで悪魔など相手にできるものか」と悔しそうに口にしていたのだ。サマナーがマフィアと揉めようものなら麗の耳にも入ってくるだろうが、そんな話は知らない。
 そもそも麗はデビルサマナーではないが、日本において過去千年に渡り代々護国のために身を奉げるサマナーを輩出している、いわばデビルサマナーの名門と言っても過言ではない葛葉一族の分派である。いまやクズノハの影響力は日本だけにとどまらず、麗も本来は日本――平崎市での仕事が本分なのだが、かつては台湾や中国本土でも活動していたことがある。
 
 文豹からの電話を受けた允花もなにやら引っかかることがあったらしく、詳細を尋ねた。
「わたしと同じ? その人もデビルサマナーなの?」
 すると今度は文豹の歯切れが悪くなる。
「いや……厳密にはサマナーではないのかもしれない。ヤツが呼び出した悪魔はたった一体らしい。一体で大哥は十数人の部下をやられたらしいがな。まぁしかし、能力に覚醒したのは数日前が初めてだと思われる……上に、死線の狭間であったから自覚もないかもしれん」
 かもしれない、らしい、ばかりの口調には允花も怪訝な顔をするしかなかった。しかし、それよりも何よりも気になることがある。
「こちらがやられた、って、死線の狭間……って、それって、」
 つまり天道連に命を狙われているということだ。允花が言いよどんだのを、文豹は平然と肯定した。
「そうだ。天道連が欲しいのはヤツの死体だ」

――その死体、もとい、死んだはずの人間が目の前に現れてしまった。麗は頭を抱えてしまう。
 電話は終わったのだろう、緩慢な歩みの響きが聞こえる。麗が振り返ると、困惑と不安を混ぜたような顔の允花が立っていた。
「文豹、なんて?」
「……人探し、もういいって。二週間も経ったし、云豹も、もうその男は死んだって、上には報告したから、って」
 文豹がこちらとの窓口になってはいるものの、この男と直接の因縁があるのは兄の云豹のほうだ。麗も允花も云豹との直接の面識はないしマフィア相手にまとももなにもないが、殺し屋稼業に従事する兄よりも、そういった仕事はほとんど請けたがらない弟のほうがいくらかまともには思える。とはいえこの二人も人並み程度の兄弟愛のようなものは持ち合わせているらしく、時折こちらが目を丸くするような話を聞くこともある。
 ともあれ、天道連が探しているのはこの男に間違いない。しかしその本人がこれだけの大怪我をしておいて、なぜ二週間も経ってから現れたのか。それが最大の疑問だった。単純に言って、この怪我を放置したまま二週間も生き長らえるのはいくらデビルサマナーや巫女、あるいは管使いのような、心身ともに鍛え上げた人間でも不可能だ。ただ、見つかったのが異界であるのならば、一つ可能性がないわけでは――
「先生、」
 麗の思考を遮り、允花は不安そうな顔でしゃがみこむ。
「この人だよね? この人が、狙われてるんでしょう?」
「……」
 麗は何も言えなかった。言わない代わりに頷いて、取り出したままの免許証を財布に戻し、男の枕元に置いてやる。文豹が言っていた男の人相とも一致するし、何より同姓同名の別人を疑うには、名前が珍しすぎる。
「先生、どうしよう、わたし……」
 允花は泣き出しそうな顔でおろおろと視線を彷徨わせた。善意の人助けのつもりがとんだトラブルを持ち込んでしまったと思っているのだろう。それに、文豹は允花にとって一応は命の恩人でもある。それを裏切ってしまったのではないか、否、現在進行形で裏切っているのではないか、と思いつめているのは傍目にも明らかだった。
 かと言って、この男を天道蓮に引き渡すわけにもいかない。そうしたところで、彼が殺されることは火を見るより明らかだ。そんなことはサマナーや巫女である以前に人として許されない。
 ではどうする?
 警察に保護を求めるか? いや、云豹……天道連は警察にも顔が効く。そ知らぬふりをしたところで自分達が関与したことはほどなくしてばれるだろう。そうなれば、二週間もかくまっていたのではないかと疑われるのも自明だった。そうなれば麗と允花、二人の安全など風前の灯、どころか、あっという間に消えてしまうに違いない。
 ならばいっそ日本大使館へ行けばどうだろうか。さすがの天道連も国際問題にはさせたがらないだろう……と思い当たったところで、国家としては微妙すぎる立場の台湾にはそんなものがなかったことを思い出す。
 途方に暮れるというのはまさにこういうことを言うのだろう。黙ったままの麗を、允花も泣き出しそうな顔で見つめていた。
「先生……」
「だ――大丈夫よ! なんとかなるわよ! 」
 というか、なんとかしなければならないのが現実なのだが。麗はほとんど空元気と言っていいような前向きさを振りかざした。
 土台、「なんとかしよう」という気概すらなければどうにもならないのが真実でもある。つい最近も日本で大きな事件を「なんとか解決」してきたばかりだ。なせばなる、そう言い聞かせるように精一杯の笑みを向けると、允花はついにぽろぽろと泣き出してしまった。
「ごめんなさい……」
「あーもう、あんたはすぐ泣く……」
 麗はまだ成長途中の背中を抱いてやる。ともに暮らし始めた最初のころに比べるとずいぶん大きくなったけれど、まだまだ子供だ。允花はめそめそしたまま、神妙な顔を向ける。
「せ、先生、わたし、その人に助けられたの」
「え?」
「その人、わたしがヘルハウンドに襲われてたの、助けてくれたの。だからわたしも、その人助けたい……」
「ちょ、ちょっと待って。この男があんたを助けたって、どういう意味? この男は気を失ってたんでしょう?」
 麗に両肩を掴まれた允花はしゃくりあげそうになりながら、事の仔細を説明した。
「最初、異界に引き込まれたって思ったらヘルハウンドに追いかけられて、そしたらモー・ショボーが血のにおいがするって飛んで行っちゃって、追いかけたらその人がいて……モー・ショボーにディアをかけてもらってたけど、その間わたし一人でヘルハウンドと、戦って、でも、倒せなくて、怪我して、もうだめだって、思ったら、その人が……」
 允花は言葉に詰まる。見たものをなんと表していいのかわからなかった。
「その人の、体から出てきた……あれ、なんだろう……でも、仲魔とかじゃ、ないです。それが、魔法でヘルハウンドを倒してくれて……」
「仲魔じゃ、ない……。ん? 允花、そのときこの男、意識はあったの?」
「え? ……わかりません。あ、その後『生きててよかった』って言ってたけど、そのとき意識があったかどうかは……」
 いまひとつ要領を得ない説明だが、とにかくこの男が普通の人間ではないことだけはわかった。
「そう……。サマナーじゃなさそうね……悪魔召喚は無意識にはできないもの」
「モー・ショボーも、この人はサマナーじゃないって言ってました」
 デビルサマナーになるためにはいくつかの条件がある。召喚のための器具を持っているかどうか、あるいは持っていなくても悪魔を使役する素養を持っているか。同じ人間同士でもただ面と向かうだけではわからない。しかし悪魔から見ると、デビルサマナーである人間とそうでない人間は明確に区別できるらしい。モー・ショボーが言うのなら、彼はデビルサマナーではないのだろう。
「サマナーじゃないならなおのことわからないわね……」
 允花も同じように感じていたらしく、鼻をすすりながら頷いた。
「あいつが目を覚ましたら事情を聞きましょ。どうにかすれば誰にもばれずに日本に返す手段もあるかもしれないし。大丈夫よ、生きてればそれだけでいいのよ」
 それは、嘘偽りない本心だった。生きていればなんとかなる、どうとでもなる。またやり直せるのだから。
 あやすように背中をたたいてやると、允花は気を取り直したらしい。そろそろ休めと言うと、しかし少女はかたくなに首を横に振った。
「先生、わたし、この人の様子見てる。夜中に目が覚めたら大変だし」
 それは自分の役目だと思っていたのに、と、麗は目を丸くした。同時に、允花ならやりかねないとも思った。二年ほど前に傷ついた小鳥を拾ってきたときも、一生懸命自力で世話をしていた。責任感と思いやりは誰よりも強い。動物と人間を同列に考えるわけではないが、多分似たような心情なのだろう。
「寝なくて平気なの?」
「大丈夫です」
 予想はしていたが允花は頑なだった。ではお言葉に甘えて……と、麗は休むべく自室へ向かう。仙術を使用したため体力を消耗しているのだ。
「じゃあ、頼んだわよ。何かあったら起こして」
 怪我人とはいえ大の男と二人きりにするのも非常識だと言われそうだが、允花とてサマナーの端くれであるし体術も一応は教え込んでいる。もし不埒なことを働かれたとしても、襲った方が返り討ちにあってひどい目をみることは想像に難くない。麗は安心しきった顔で立ち上がったが、はたと気づいた顔で允花を見下ろす。
「――それからあんた、服着替えなさい。破れたのはゴミ箱に入れる、いいわね?」
 麗に言われるまですっかり忘れていたが、ヘルハウンドに引き裂かれて服はボロボロになっていた。血で汚れても入るし、麗の言うとおり、この服はもう使い物にならないだろう。ブルゾンもセーターも結構気に入っていたのに、と、思いながら允花はジッパーを下ろしつつ頷いた。
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ」
 麗はのろのろと自室に戻っていった。程なくしてベッドに倒れこむような音がしたから、今はもう眠りについているのだろう。「仙術は一日一回」と決めているらしい彼女にも無理をさせたことを、自分のせいではないのだが、允花はひどく申し訳なく思った。
 麗は悪くない。行き倒れていたこの男もたぶん悪くない。この男を狙う天道連は……わからない。理由はどうあれ人を殺そうとしているのだからまったくの善ではないだろう。しかしこの男も天道連に命を狙われるくらいなのだから何かしら、人には言えないような危ない橋を渡っていたのかもしれない。
「あんまり……人のことは言えないけど」
 床に座り込んでソファの座面にもたれ、允花は溢した。聞くものは誰もいない。一旦自室に戻って着替えを済ませてから戻ってきても、そこには男が眠っているだけだった。青白い月の光になぜか物悲しくなってしまい、允花は管をもう一本取り出す。モー・ショボーもオバリヨンも、がんばってくれたのだ。今日は疲れているだろう。允花がひそやかに召喚の呪文を唱えると、美しい羽を背中に生やした蝶のように可憐な少女の悪魔が現れた。
「うふふ、呼んだ? 今日の相手はどいつ?」
 仲魔――カハク――は大きな目を不機嫌そうに細め、つややかな金の髪を指先でもてあそんでいた。
「ごめんね。ちょっとお話相手が欲しくって」
 やはり満月の影響か、カハクも昂っているらしい。その欲求を満たしてやれない申し訳なさをにじませる允花だったが、やはりというか、カハクは不機嫌そうに表情をゆがめる。
「はぁ〜? ……あんたってほんと変なサマナーだよね。普通悪魔呼ぶときってさ、戦うときじゃん? なのに話し相手とか、そんなの同じ人間同士でや・り・な・さ・い・よ〜!」
 カハクは小さな手で思いっきり允花の頬をつねった。御伽噺の妖精そのものといった見た目のカハクは身の丈こそ允花の顔の大きさくらいだが、それでもひっぱられると十分痛い。笑いながらなので本人としてはじゃれているつもりなのかもしれないが、つままれている允花としてはたまったものではない。思わず悲鳴を上げてしまった。
「いひゃいいひゃい! し、静かにしなきゃだめだってば!」
 うるさいのはお前のほうだろうと呆れ半分のカハクは、しかし主の指差すほうを見て一気に興味を奪われたようだった。
「なあにこの人間?」
 カハクはぱっと允花の頬から離れると、きらめく鱗粉を舞い散らせながら彼の顔の周りを飛び回った。なんて早い切り替えなのだろうか。允花は頬を撫でさすりながらため息をついた。
「だめだよ、起こしちゃ」
「ねえなに? なんなのこいつ?」
 まるで人間の少女のような興味津々の笑顔でカハクは允花を振り返る。
「助けたの」
「助けた? なんで?」
「怪我してたからだよ」
「助けなきゃいけなかったの?」
「……普通は助けるものなの」
「ふーん?」
「先生だって哥哥だって、わたしを助けてくれたんだから。わたしだって、困ってる人は助けなきゃ」
「よくわかんない」
「――人間はそうなの!」
 悪魔相手に人間の常識を説くのも暖簾に腕押しかもしれない。決して自分にサマナーとしての威厳だとか主として敬われるだけの度量が備わっていないからではない……と、允花は思いたかった。頬をつままれていては怪しいところではあるが。
 そうだ、と允花は思いついて口を開いた。
「カハクはこの人がデビルサマナーだと思う?」
「はぁ?」
 何をバカなことを言っているんだ。カハクの顔はそう物語っていた。
「サマナーなら怪我してても自分でどうにかするでしょ」
「うーん……それもそうか……」
 意外と論理的で的を射た答えが返ってきたので允花は言葉に詰まってしまった。
 確かにカハクの言うとおり、能力のある人間が一方的に痛めつけられて行き倒れているのは考えにくい。それに、悪魔に襲われたのならまだしも、相手はどうやら天道連。その天道連の連中が自分たちだけでサマナーを相手にしないことは允花もよく知るところだった。
「そうだね……」
「そうだよ。それにこいつからはそんな力は感じない。ただの人間だよ」
「そう、だよね」
 そのほうがいい。サマナーとしての力を持っていても、いいことばかりじゃないのだから。
 允花はそんなことを考えながらゆっくりと瞬きを繰り返した。
允花、眠いの?」
「うん……」
「寝ちゃだめなんじゃないの?」
「うん……」
 だんだんと重くなっていく瞼をどうにかしようと目をこする。しかし重力に逆らいきれないとばかりに、両方のまぶたはゆっくり閉じられていく。
「もー……しょうがない。見といてやるか。ほんと、あたしがいなきゃ駄目なんだから!」
 今日はそんなことばかり、言われた気がする。呆れたようなカハクの声も、心地よい子守唄のようだった。
「うん……」
 意識が消える直前に見えたのは、窓の外の白い月だった。

§

 夢を見た。
 懐かしい夢だった。もう何年前になるだろう。思い出したくもないというのに、時折夢の中であの惨劇は繰り返される。
 品のない豪華な邸宅、たくさんの子供たち、絶叫、おびただしい流血、腐敗臭。首につけられた封魔具の息苦しさ、めまい。助けを求めても何の甲斐もない絶望。どこへいっても逃れられない運命の鎖。
 忌まわしい男の顔。下品な声音とゴミを見るような目。それが、化け物に変わっていく。
――ひっ、大哥! ぐああっ!
――たすけ、ぎゃあっ!
 黒い服の男たちが次々になぎ倒されていく。
 少女たちが、その体を食われていく。

 暗闇で手を差し伸べてきたのは、顔のない男だった。

――オマエは取るに足らん存在で、ここで生かしておく価値もない。しかし……ふふ、私の気まぐれがどう動くか、せいぜい道化となって楽しませてくれよ、■■■……

 周りの闇という闇が、触手のように浸食してくる。だめだ、絡めとられてはいけない、その手を取ってはいけない。わかっているのに允花は――拒めなかった。どういうわけかはわからないけれど、その手の中には望んだものがある気がして――

§

 目を覚ましたのは、いつの間にか握り締めていた男の手に、逆に握り返されていたからだった。悪夢のせいでじっとりと濡れてしまった背中よりも、こめられた力のほうが居心地悪い。
 尋常ではない力をこめられていて、一瞬防衛のために体を動かしそうになる。それを寸でのところでとめられたのは、苦悶の声が耳に届いたからだろう。
「ミキ……」
 何のことを言っているのかわからなかったが、ずいぶんと辛そうなのは確かだった。
 うなされている男の額に汗がにじんでいる。怪我はすっかり治癒しているのだから、きっとこれは悪夢のせいだろう。
「ど、どうしよ……」
 允花はどうすることもできない。薄情にもカハクは窓枠の上ですうすうと寝息を立てていた。
 こんなとき、悪夢にうなされたとき、允花はよく麗に宥めてもらっていた。あたたかい手のひらに背中や頭を撫でられると、心が落ち着くのだ。
 それを自分が、大人の男にしてもいいのだろうか。しかも相手は初対面どころか允花を認識すらしていないに違いない。そこは大きな疑問ではあったのだが、それ以外に何も思いつかないのも事実だった。苦しんでいる人間が目の前にいて、自分は彼のために何かしたい。行動を起こすには十分な動機だった。
「大丈夫だよ……大丈夫……」
 允花はおっかなびっくりの手つきで男の額に触れる。にじんだ汗をぬぐってやって、鼻にかかった前髪を除けるように指先を動かす。
 たかだかそれくらいで彼の苦しさが癒されるわけもなかったのだが、彼女はしばらくそれを続けた。たとえほんの少しでも、放っておくよりは早く穏やかさを取り戻せるような気がして。
 そうしながら、允花はふと気づく。
「……ミキ、ってなんだろう」
 日本人の彼がうわ言でこぼすのは当然日本語だろう。允花は多少日本語を理解できるが、知っている言葉には「ミキ」という言葉はない。
「人の名前かなあ」
 苗字なのかなんなのかわからないが、それは当たっている気がした。
「大切な、人だったのかな」
 答えるものはない。
 あの場に残されていたのはどう見ても一人分の血だった。それに――嵯峨 薫がうわごとで呼んでいるのが男か女か知らないが――文豹も探しているのは男一人だと言っていた。ならば「ミキ」というのは、彼が日本に残してきた家族だとか大切な人だとか、そんなところだろう。大切な人を残して死んでしまうと、そう思って泣いているのかもしれない。
 允花はそう推測していた。それならば、天道連が嵯峨の捜索を打ち切った今、彼をどうにか日本に帰してしまえばすべてが丸く収まる。これ以上ないハッピーエンドだ。
「そうだよ。帰る場所があるのは、誰かに必要とされるのは、きっとすっごく、いいことなんだから……」
 ぴくりと男の瞼が動いたような気がしたが、結局夜明けまで彼が目を覚ますことはなかった。


 そこは光すら射さない黒だった。呆然としたままの自分の他には誰の気配も感じられない。孤独。見捨てられた者の孤独。違う。これは見捨てた者の末路なのかもしれない。
暗い闇の中から、女の声がする。

――ごめんなさい。 
(誰だ)

 知っている。この声の主を、自分は知っている。
 だけど思い出せない。ずっと前から知っているはずなのに、思い出せない。

――あなたを苦しませることになっても、わたしは、あなたには生きてほしかったの。
(美樹……?)

 女のやさしい手が頬をなぞって、離れていく。

――わたしを、ゆるして。

 あたたかい涙のような雨が降り、女の気配は消えた。

(美樹、待て、俺も――)

 ともに行くのだと告げたいのに、口が動かない、声が出ない。いつの間にか真っ白な世界に変わっていた目の前の、冷たい雪の上に二人分の足跡がどこまでも続く。それを、追いかけなければならない。なのにそれができない。何もできずにその場に倒れこんでしまいそうになる。雪の上の赤いもの。これは、花びら……牡丹? いいや違う、これは誰かの落とした血の跡だ。

『人殺し』

 はっと息を呑んで振り向くと、自分と同じ顔をした男が立っている。
 影法師。
 それは同じ顔に底意地の悪い笑みを浮かべ、人差し指で彼を指し示す。

『お前が殺したんだよ』
「……違う」

 息がかかるほどの至近距離から、影法師は嵯峨の左胸のあたりを人差し指で鋭く突いた。激痛。体が熱くなるほどの痛みに足を退こうとするが、深く突き刺さった人差し指からは逃れられない。糾弾する影法師の腕を伝い、赤い血がぼたぼたと落ちていく。白い雪を染める紅が、眩しいほどに美しい。

『何が違う? お前がいなければあいつらは死なずにすんだのになあ』
「違う! やめろ!」
『違わないさ。俺に言われなくたってわかってるだろう? どうしてこんなことになったのか』
「違う……」

 痛みが増す。気が遠くなるほどに。影法師の手首を掴んで引き離そうとしても、まるで鉄の像のように頑なな腕は動かない。

(やめろ、俺はここにいたくない。俺も、俺もあいつと――)

 そんなことは許されないのだ。もう、ともにはいられない。自分のせいなのだ。
 わかっていた。知っていた。事実に膝を折った彼の頬を、熱い涙が伝っていく。

 歌声が聞こえる。

 階段、夏の気配、高みで揺れる梢。
 懐かしい場所を、思い出した瞬間に忘れてしまう。

 もうどこへも帰れない。
 胸からは止まることを知らないように赤い血が流れ続けている。息が苦しい。死んでしまう。
 嫌だ、怖い。死ぬのは怖い。

 影法師は嗤う。

『断罪するのはお前じゃない。いい気なものだ、自分のしたことは棚に上げて他人の罪を裁こうとする。おこがましいものだな。これはお前が今まで目を逸らした、すべてのことに対する罰だ』

 黒いつま先を睨みながら、しかし何も言い返せない。傲慢だったのは否定出来ず、見ないふりをしてきたのも事実だ。そのせいで、彼女は凶弾に倒れたのだ。

『贖え。己が身を以て』

 ならば教えてほしい。命で命を救えるのか――

 あたたかく優しい雨が降る。

――泣かないで。
 細い両腕に抱かれる。そのまま透明な渦に溶けてしまいたくなる。

――お願い、諦めてはだめ。
 俺だって、全部投げ出して逃げることなんかしたくない。
 でも、取り戻すことなんてできるのか?

 手のひらが背中を撫でていく。何もかも委ねたくなるほどにあたたかく、優しい手のひらだった。

――信じて。わたしを、信じて。だってわたしは……

 神だとでも、言うのか?

§

 嵯峨薫が目を開けたとき、正確には目を覚ましたのとほぼ同じとき、まず感じたのは己の手が触れる柔らかな何かだった。
 指を少し動かすと、すべらかでふっくらとしたそれは人の手のひらであることがわかる。ぎょっとして飛び起きそうになるが、目を向けた先にあったのはまだ中学生くらいの少女の、あどけない寝顔だった。少女はソファに寝ている自分の手を握り、床に座り込んだままソファの座面に頬をつけて眠っていた。
「なん、なんだ……」
 混乱。嵯峨は何がなんだかわからぬまま、目を白黒させながらあたりを見回そうとした。半分体を起こして、見覚えのない部屋の構成物をひとつひとつ確認する。
「なんだ、ここは……」
 リビングルームだろう間取りのこの部屋はさほど広くはない。生活感はあるが決して散らかってはいない、よく手の行き届いた部屋だ。奥に扉が一つ、引き戸が二つ。置かれた物から察するに子供のいる家族の暮らす家には思えないが、この少女一人が暮らすには広すぎるし、第一不用心だろう。灰色に大きな幾何学模様の描かれたカーペットを、冬の朝日が静かに照らしていた。朝だということは、彼にもすぐにわかった。
「俺は、」
 苦痛をこらえながら、記憶を呼び起こす。暗闇に流れた血のことを、花火に照らされた白い肌のことを。
 銃弾を浴びたはずの胸に手を伸ばしてみた。痛みはない。が、傷跡として盛り上がった皮膚の引き攣るような違和感は指先からも伝わってきた。肩や足に受けた傷も同じだろう。
 自分は生き延びている、生き延びてしまったのだろう。
「美樹、は……」
 ここに彼女の姿はない。ここだけではない、世界のどこにも彼女はもういない。この目で、この手で、息絶えたのを確認したのだ。
 彼は繰り返し思い出す。
 赤い血溜りの中で、浅井美樹の、もう何も映さない二つの目が彼を見ていた。そこには何の感情もなかった。悲しみも怒りも、恨みすらも。
「畜生……俺は、俺は……!」
 いっそ責められたかった。誰も詰ってはくれない以上、気が狂えば楽になれるだろうか。死んでしまえば思い悩むこともないだろうか。今は顔を覆って泣くこともできなかった。彼の心は動きそうにない。どんな感情でいればいいのかわからない。何が正しいのかもはっきりしない。
 知らずのうちに手のひらに力を籠めてしまっていた。握り締めた拳の中で、爪が突き刺さる。
「……い、痛い!」
「――すまん」
 訴えられてようやく、彼は自分が少女の手を握りつぶしそうなくらいの力で痛めつけていたことに思い当たった。反射的に謝罪しながら手のひらを放すと、少女の上半身が起き上がる。
「もう……なにする――」
 抗議交じりの寝ぼけ眼を向けた少女は介抱していた怪我人が目を覚ましていることに驚いたらしく、しばらく瞬きを繰り返していた。
 お互いにあっけにとられたまま見つめ合うこと数秒、沈黙を破ったのは、允花の声だった。
「あの、えっと……お水、飲む?」
 嵯峨の拳にこめていた力がふっと緩む。さっきまでよどんだ後悔の中にあった彼を、なんでもない日常のような台詞が不意に照らしたような気がした。張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、体中の力が抜けていく。うなだれるように首を振って、か細い声で「たのむ」と言うと、少女はうれしそうに立ち上がり、背後の引き戸を開けて、台所と思しき部屋の中へとかけていった。
 眩しかった。世界は変わらず、眩しかった。
 それは決して喜ばしいものでも、好ましいものでもなかった。
 ああ、今見ているこれは、この世界は現実なのだ。
 夢でもなんでもない。自分は生きていて、ここにいない浅井美樹は、死んだ。
 悲しみのどん底にありながら、それでも自分以外の人間はああしてなんでもないことで笑っている。誰も自分に同情してくれない、誰も自分たちに起こった悲劇を知らない。
 まごうことなき現実だ。どれだけつらくても、受け入れなければならないのか。
 死んでしまえばよかった。
 そうだ、美樹とともに死んでしまえれば、よかったのではないか?
「はい、どうぞ」
 しかし少女は屈託のない笑みとともに舞い戻り、背の高いグラスを押し付けてくる。何も知らない無垢な笑顔を見ているのがつらかった。目をそらしても現実が消えるわけではないが、それでも直視することができなかった。
「おかわり、ほしかったら、あります」
 無様なものだ、と彼は思う。どれだけ死にたいと願っても、安っぽいグラスを満たす水を目の当たりにすると喉が鳴った。あれからどのくらいの時間が経っているのか知らないが、異様に喉が渇いていた。ぐいと飲み干すと、清涼感が五臓六腑に染み渡る。渇きが癒えると腹が減っているようにも思えてきたし、煙草も吸いたくなった。死のう死のうと願っておきながら、どうやら自分の欲望は、そして生への執着は枯れてはいないらしい。嵯峨は情けなさに自嘲した。
 彼はソファにかけられていた上着の内ポケットをまさぐる。そこには愛飲している煙草とライターが入っているはずだった。いや、入っているのだが、中央部を穿つように銃弾が通ったのだろう。煙草は一本残さず原型を留めぬほどに破損し、乾いた血にまみれていた。ライターは落としたのだろうか、影も形もなかった。その弾が貫いた自分は、今もこうして生きているというのに。
 ぐしゃりと煙草を握りつぶすと、少女が恐る恐るといった風にたずねる。
「怪我、痛くない?」
 この少女は何を、どこまで知っているのだろう。横目で窺うと、まっすぐな視線に射抜かれた。若さゆえの、遠慮を知らぬまなざしに思えた。眩しすぎるそれは、こちらが嘘を吐くことすら許さないのだろう。
「……ああ」
「よかった。先生が治してくれたの。よかった……」
 素朴な笑顔だな、と、彼は思った。華やかさには欠けるがあたたかさがある。たまらず、目を逸らしてしまった。
 左胸の傷跡に触れる。実際不思議なことに何の痛みもなかった。疲労感のようなだるさはあるが、鯨飲した翌朝に比べればたいしたものではない。怪我が完治しているということは、自分はかなりの間目を覚まさなかったのだろうか、と、思うのだが考える余裕はなかった。違和感を抱えたまま、嵯峨は前髪をかき上げた。
 と、彼女が言ったことが気にかかる。
「先生? 俺を医者に見せたのか?」
 映画の観すぎだと言われるかもしれないが、どこから足がつくのかわかったものではない。もし再び天道連に見つかれば自分は――自分は、死ぬだろう。
 少女は首を横に振る。
「ううん、違う。先生はお医者じゃないの。巫女。あなたもサマナー……じゃない、んだよね、ええと……わかるでしょう? 回復魔法とか、仙術とか」
「サマナー? ……魔法?」
 聞いたこともない言葉と、現実離れした単語に彼は眉をひそめた。少女も怪訝な顔をする。
「……違うの?」
「違うも何も、そんな言葉俺は知らない……いや、その前に教えてくれ。ここはどこだ? おまえは誰だ? 俺はどうしてこんなところにいる?」
 今気がかりなのはサマナー云々ではない。兎にも角にも現状の確認が最優先だ。胡乱だったまなざしが正気を取り戻したように鋭くなるのを見て、允花は変貌振りに戸惑う。
「そんなに、いっぺんに言われても……ここは、台北の――」
 細かな住所を聞いてもわかるはずもないのだが、どうやらここは台北市らしい。あの忌まわしい惨劇が全て夢で、ここが日本だったらと心のどこかでは願っていたが、やはりそんなさもしい希望は打ちのめされた。嵯峨はさらに質問を繰り返す。
「お前は誰だ?」
 目の前の少女には見覚えすらない。なぜ自分を保護――身の危険を感じないので、保護されているのだろう――しているのか、それもわからない。
「わたしは、允花。一応、デビルサマナー」
 デビルサマナーとは何なのか、と聞きそうになって、やめた。今話をややこしくしたところでどうにもならない。允花の名を聞いた彼は自分も名乗りそうになるが、寸でのところで口に出さずに次の質問を繰り出す。
「俺はなぜここにいる? ここはおまえの家だろう?」
「あ……うん……それは、説明……難しい」
 一切の事実を知らない彼でも、なぜ天道連に襲われた自分がここに五体満足なままでいられるのか、その理由はきわめて複雑だろうことは理解できた。それに、気づけば台湾人と思しき允花という少女は自分にあわせて日本語を使ってくれているのだが、会話はともかく説明するのは言うとおりに難しいのだろう。頭ではわかっているのだが、焦りに苛立つ彼は思わず手を出してしまう。
「何でもいい! 教えてくれ!」
 細い両肩をつかんで揺さぶると、少女の目が一瞬怯えに染まる。しかし何を言われても、言い返すことすら思い浮かばぬといった顔で、ただ男の顔に浮かぶ悲しみを見つめるばかりだった。
「教えてくれ、なんで俺は生きている? なんで死ななかった、なんであいつだけが死んだ、なんで――」
 目頭が熱くなるのがわかる。ああ、まずい、なんてザマだ。子供の前でこんな醜態をさらすなんて。そう思った瞬間、闖入者の声が響いた。
「ちょっと、わたしの弟子に手荒な真似はやめてちょうだい」
 乱入してきた女の声は、允花のそれよりも流暢で自然な日本語を操った。声のするほうにはすらりとした女性が立っている。明るい色をしたショートカットの髪に気の強そうな眼差し。ルージュを引いた唇は不機嫌そうにゆがめられ、それでも十分美しい顔立ちをしていた。
 身を強張らせながら嵯峨が允花から手を離すと、麗は片手の中の青い箱を投げる。反射的に受け取ってしまった彼の手の中には、封を切っていないマイルドセブンの箱があった。パッケージの注釈は日本語ではない。
「それでも吸って落ち着きなさいよ」
 呆れたように麗は、今度はライターを投げてよこした。安っぽい、いわゆる百円ライターの透明なオレンジ色が毒々しい。それでも手のひらの中のものを見ていると湧き上がる、これまでの習慣が呼び覚ます欲求には勝てなかった。
「……悪い」
 煙草をもらったことへの礼か、それとも取り乱した謝罪か。嵯峨は気まずそうに俯くと、煙草の外装フィルムを剥がし始めた。しかし震える指先はなかなか言うことを聞いてくれないらしい。そしてそれは体力の損耗によるものではないことなどその場の誰もが気づいていた。
 ようやく一本を取り出してフィルターを咥え、震える手で点火すれば煙が部屋に満ちる。
 落ち着けと麗は言ったが、落ち着くわけなどない。なぜ煙草をくれたのか、なぜ自分が喫煙者だと知っているのか、頭のどこかで疑問に感じたような気もするが、深く考えることができない。
 ただ悲しみと怒りと、喪失感で満たされた心は未だ何物も見いだせず、暗い淀みの中にとらわれたままだった。激昂すればいいのか、慟哭すればいいのか、それすらわからなかった。

§

 麗はドア脇の壁にもたれ、両腕を組みながら言った。
「先に言っておくけど、あたしたちはアンタの敵じゃないわ。アンタを狙ったやつらにも引き渡したりはしない。そこは安心して」
 嵯峨はうなずいた。允花が息苦しそうに鼻のあたりをこするのを横目に見ながら。
「その交換条件ってわけじゃないけど、アンタの身に起こったことを教えてほしい。現状を確認するためにもね」
「……日本語でいいのか」
 混ぜっ返すつもりではなかったが、麗はわずかに眉をひそめた。
「いいわよ。日本暮らしは長いもの。この子もそれなりにはわかるから」
 親指で示された允花も、緊張気味にうなずく。
 とは言うものの、何から話せばいいのかわからなかった。身の上に降りかかった出来事はすべてが突拍子もないし、現実として受け入れられるものばかりでもない。それでも冷静になろうとしたのは、自分の頭の整理をするためでもある。
 灰皿にしろと渡されていた空き缶に灰を落とすと、じゅう、とどこか小気味好い音がした。
 そもそもの原因は日本での、己の職務に関することだ。仮にも検察の身分なのだから、おいそれと他人に話せることではない。今頃日本では、職場では、上を下への大騒ぎになっているのではないだろうか。国家公務員たる検事と事務官が捜査中に襲撃、暗殺されたとなれば国際問題――
 嵯峨は瞬間、息を呑んだ。
 いや、少なくとも日本では、二人は公的には捜査中ではなかった。思い出せ、上司になんと告げて出てきたのか。
「――そうか」
「え?」
 顔を上げ、真剣な表情になった嵯峨を、麗と允花は怪訝そうに見つめた。
 お構いなしに彼の中では、ある疑念が頭をもたげはじめる。

 すべて仕組まれていたのではないか?

 台湾での捜査を開始して二日目に襲撃されたのだ。あまりにも早すぎる。
 あらかじめ指示が出ていたのではないか? 誰かが自分たちの情報を流したのではないのか?
 その誰かというのは、自分たちをよく知る人間ではないのか?
 そう、例えば、同じ職場に勤めている者。嵯峨が取り組もうとした不正の追求を是としなかった者。
 あるいはその不正を行っていた張本人。
 ほとんど吸い終わった煙草を、彼は指先でつまんだままだった。フィルターぎりぎりまで吸ってはいるが、煙は立ち上り火は消えてすらいない。その熱さも感じられないほど、彼の心中は怒りに支配されていた。
「へ……へへ……そうか……俺たちは……」
 切り捨てられたのだ。そうに違いない。
「ちょっと……」
 麗が凭れていた上半身を浮かせて様子をうかがうが、嵯峨は片手で頭を抱え、震えながら笑い声をもらし続けている。愉快なのではない。嘲笑でもない。まったく得体のしれない感情に支配されているように見えた。
「いいぜ……話してやるよ……」
 自分は死んだ。もう検察官ではない。守秘義務も何も関係ない。

「これから話すのは……死んだ男の過去の記憶だ」

 嵯峨の目の中には生気はない。そこにはただ爛々と燃え盛る憎しみの色だけがゆらめいていた。

- to be continued -
2020/6/14